第1話 ある古書泥棒の告白(6)
「……ハワード坊ちゃん」
「デイジー、昔に戻ったみたいだな」
ハワード・トンプソンは、懐かしむように目を細めて笑った。
「初めまして。古書ディーラーの、ルチアーノ・リンフレスキです」
ルチアーノは立ち上がり、握手を求めた。ハワードはそれに答えてから、テーブルの上に置かれた「ウェルギリウス著作集」に目を移す。吸い寄せられるように手を取り、蔵書印を指でなぞった。
「ああ……本当に、同じ本だ。遠くで売ると言ったのに……奇跡だな」
低く、呻くような声だった。そしてゆっくりと、弟のダミアンに近づく。
「お前には本当に、申し訳ないことをした。せめて父には伝えたかったが、その前に突然逝ってしまったんだ。どう詫びれば良いのか……」
重苦しい沈黙の中、ダミアンが口を開いた。
「親父は最初から知っていたよ」
「……なんだって?」
ハワードは目を見張り、うろたえた。
「知っていたのになぜ黙っていたんだ。それに、どうしてお前まで知っているんだ?」
「親父に聞かれたからだよ。ハワードが本を隠した理由が、お前にわかるかって。だから答えたんだ。親父がオレのことを甘やかして好きにさせているから、憎いんだろうってね」
力が抜けたように、ハワードはソファに腰を下ろした。手で覆われた顔がどんな表情をしているのか、ユーゴからは見えなかった。
「本は時計の中にあるとも言ったよ。あの振り子時計があそこまで狂ったのは、見たことがなかったからな。ルチアーノの言った通り、時計屋にいたおかげでそのくらいの知識はあった。でも親父は、何もしなかった」
トンプソン氏はなぜ、本をそのままにしたのだろう。責任を感じて、ハワードの行動を容認することで償おうとしたのだろうか。しかし真っ当な人間なら、物を盗むことへの罪悪感に苦しむことになる。それは一時叱られるよりもずっと、苦しいのではないか。ユーゴには彼の意図がわからなかった。
「今となっては、想像するしかないが」
ハワードは顔を上げ、どこか遠くを見るような目をしていた。
「父は、私がダミアンに負い目を感じるよう仕向けたのかもしれない。お気に入りのお前が将来何かやらかしたとしても、私がどうにかするだろうと期待して」
「親父だって動揺していたんだ、そこまで考えていたかどうか……。遅い反抗期だとでも思ったんじゃないか? 要は、オレたちに仲良くさせたかっただけだろう」
生真面目な長男と、飄々として大雑把な次男。二人の意見は噛み合っていないようで、合わせれば案外バランスが取れているようにも見えた。
「どちらにせよ、負い目に感じる必要はないさ。オレだって、あの時兄貴を見逃したんだ。恨まれて当然だって思ったし、泥棒のレッテルを貼られてからはうるさい親戚どもが見限ってくれて、むしろ自由で快適だった。感謝したいくらいだよ」
ダミアンは歯を見せて笑うと、ユーゴたちに帰ろうと促した。
「オレの居場所はここじゃない。あの狭い路地裏の、本に埋もれそうな古ぼけた古書店さ。時々は悪いことにも目をつむる、薄暗い場所が似合ってる」
門のところまで見送りに来たハワードは、顔を俯けたまま、ぽつりと零した。
「恨んでいたというのは、少し違う。私は、お前が羨ましかったんだ。だから子供のように、お前が父に怒られ、困ればいいと思った。……許してくれるか?」
「一年に一度くらいは、顔を出すよ。オレを毛嫌いしてる細君のいない時にでも」
二人はよく似た晴れやかな笑みを浮かべ、握手をして別れた。少し離れたところから、デイジーが目に涙を溜めて見守っていた。ユーゴはルチアーノから聞いた、七つの大罪の話を思い返していた。あの古書にまつわる罪を選ぶとすれば、「嫉妬」だろうか。
帰りのタクシーの中で、ルチアーノはすっかり大人しくなったダミアンに話しかけた。
「あなたが古書店を開いているのは、あのアルド版を探していたからですか?」
ダミアンは助手席から首を回し、大げさにため息をついた。
「ノーコメント。これ以上オレを暴くのはやめてくれ。まったく、まさか二十年抱えていた嘘をああも簡単に見破られるとはなあ。君の知識の豊富さは知っていたつもりだが、本当に油断ならん」
ダミアンのぼやきを、ルチアーノは得意げな顔で聞いている。
「そうそう、こちらのキリサキ氏は、インターポールの捜査員なんですよ。不良アピールも適当なところでやめておくべきかと」
「なんだって? ああ、今日はなんて日だ!」
とどめの一言を受け、ダミアンが叫ぶ。ユーゴとルチアーノは、声を上げて笑った。
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