第1話 ある古書泥棒の告白(3)

 ゆったりと路地を歩きながら、ユーゴは機内で読んだ彼の経歴を思い返していた。

ルチアーノが貴族だという店主の見立ては、当たらずとも遠からずだ。彼は二十五年前、イタリア人実業家リエト・カレッリと日本人の妻、瀬玲奈(せれな)の息子として生まれた。リエトは若いうちから父が経営する企業の子会社を任され、レストラン経営で成功を収めていた。一方の瀬玲奈は、日本有数の大企業の社長令嬢。上流階級同士の、華やかな国際結婚だった。

 しかしルチアーノが十歳の時、夫妻は南イタリアの別荘近くで交通事故により亡くなってしまう。当時友人の家にいたルチアーノだけが生き残り、後に書店を営むリンフレスキ夫妻の養子になっている。

 両親がいなくなってからは、大変な苦労があったはずだ。しかし彼は逆境を跳ね返し、若くして一目置かれる古書ディーラーになった。ユーゴは仕事の内容よりむしろ、ルチアーノという人間に興味を抱いていた。

 やがてユーゴは、一軒の古書店の前で足を止めた。狭い路地に建っており、間口も狭い。ドアの両脇にはワゴンが置かれ、本が詰め込まれていた。

 そこから数歩歩いた先に、ドアがもう一つ。こちらはカフェの入り口で、古書店とカフェは店内で繋がっているようだった。ルチアーノと待ち合わせをしているのは、このカフェだ。腕時計を確認すると、約束の時刻まであと三十分。ユーゴは時間を潰すため古書店に入り、目の前の棚から一冊取った。適当にぱらぱらと捲っていると、店員らしき女性が本を数冊抱え、カフェに繋がるドアを開けようとしていた。両手が塞がっているせいで苦労しているのを見かね、代わりに開けてやる。彼女はにこりとして、ユーゴに礼を言った。

 店員はドアが開いた先のカフェに顔を向け、陽気に声を張り上げる。

「ルシオ、これもお願い!」

 流れでカフェに足を踏み入れたユーゴは、店員が呼びかけた相手に目をやった。思わず小さく息を吞む。「ルシオ」は、ルチアーノのことだった。写真と同じ顔の青年が、椅子にかけたまま困ったように眉を下げた。

「ジェシカ、今日は約束があるんです。和紙は渡しますから、残りは自分でやってください」

 ジェシカは残念そうな声を上げたが、食い下がることはなかった。それより気になるのは、和紙で何をしているのかだ。覗いてみると、ルチアーノの前には一冊の黄ばんだ古書が開かれたままになっていた。よくよく見ればページの一部が破れており、その修復中のようだ。

「なるほど、修復に和紙を使っているのか」

 ユーゴが口を開くと、ルチアーノは少し意外そうな顔をした。

「ええ、その通りです。このような破れの場合は、和紙が一番目立たず直せるので。和紙をご存知ということは、日本の方でしょうか」

 ユーゴは握手の手を出しながら答えた。

「日本人だよ。そして“約束”の相手でもある」

 ルチアーノは数度瞬き、愉快そうに口元を緩めた。差し出された手はほっそりとしていたが、握り返す力は強い。

「初めまして。ルチアーノ・リンフレスキです。ルカでもルシオでも、呼びたいように呼んでください」

 ネイティブ並の流暢な英語だった。ユーゴも名乗ったが、周囲の目があったため所属は口にしなかった。

「少しだけ待っていただけますか。彼女に修復のやり方を見せたいので」

「約束にはまだ三十分あるから気にしないでくれ。俺も見せてもらってもいいか?」

 ルチアーノは頷き、別の本を一冊取った。付箋の貼られたページを開くと、そこにも破れた箇所があった。彼はそのページの下にパラフィン紙を敷くと、破れの合わせ目に半透明の糊を竹串の先で塗っていく。そこへ和紙が登場した。破れた部分と同じ大きさにちぎり、上から被せる。さらにパラフィン紙で覆うと、ヘラで上から擦って和紙を定着させた。

「これでしばらくプレスして、乾燥させます。和紙のはみ出たところをむしると、より綺麗に仕上がりますよ」

「じゃあ、続きはあなたが次に来た時ね!」

 調子の良いジェシカに、ルチアーノは申し訳なさそうに答えた。

「次の仕事は少し長くかかりそうなので、お待たせしてしまうと思いますが」

 ユーゴが今から持ち込む件のことだろう。確かにユーゴも、どれだけ時間がかかるか見当がつかない。

「見たところかなりくたびれているが、その本は貴重なものなのか?」

 場合によっては修復を優先しても良いと考えての発言だったが、ルチアーノもジェシカも、きょとんとしてユーゴを見た。数秒の間をおいて、ジェシカが吹き出す。

「面白いジョークね!」

「いや……」

 何かおかしなことを言っただろうか。戸惑うユーゴに、ルチアーノが助け船を出すように言った。

「彼女の店では定価以上の値札がつく古書はほとんど扱わないんです。ここに積まれた本も、金銭的価値はほぼありません。でも状態が良い方が、読んだ時気分が良いでしょう?」

「まあ、そうだな」

「そうそう、破れてページがなくなりでもしたら、せっかくの殺人トリックがわからなくて困るかもしれないじゃない?」

 ジェシカが楽しげに口を挟む。ユーゴは今のやりとりで、ルチアーノの認識を少し改めた。ディーラーという響きから、金銭的価値のみで古書を格付けする商売人を想像していたが、どうやら違うらしい。彼はディーラーである前に、ただの本好きなのだろう。そうでなければ高く売れない商品にわざわざ修理を施したりはしない。

「さて、では始めましょうか。奥でお話を伺います」

 合図のように、ルチアーノは日本語に切り替えた。店の奥まった一角を示し、立ち上がる。そこは観葉植物と本棚が壁の役割を果たしていた。頷いて、ユーゴは小さくジャズのかかる店内を移動した。ついでに、カウンターの向こうにいるマスターにコーヒーを注文する。

 席につくと、思った以上に周囲の喧騒が遮断された。これなら気にせず話ができそうだ。知られて困るというほどでもないが、大っぴらにしたい内容でもない。

「改めて、インターポールのユーゴ・キリサキだ。俺は古書のことも本のことも、全くの素人なんだ。協力してもらえて本当に助かるよ。ある程度話は通してあるとアダムズ局長は言っていたが、どこまで聞いている?」

 ユーゴが尋ねると、ルチアーノは暗記していた内容を読み上げるようにして答えた。

「調査の目的は、大英図書館に置き去りにされた五冊の古書の来歴を調べること。古書を残した人物を特定すること。できれば動機も明らかにしてほしいと聞いています。五冊のタイトルまでは、知りません」

「それなら、まずは見てもらった方がいいな」

 ユーゴはトランクの蓋を開け、古書を見せた。それなりの重量なのでホテルに置こうかとも思ったが、やはり現物には説得力があるだろうと持って来た。テーブルに汚れはなかったが、ルチアーノは念のためと言ってハンカチを敷き、手袋をした。

「古い時代のものだと、脆くなっていますから」

彼は五冊の本を手に取り、じっくり検分を始めた。五分ほどで終えて、口を開く。

「どれも希少価値があり、人気のある古書だと思います。出版年や内容はバラバラなので、なぜこの五冊なのかはわかりませんけれど。とりあえず、細工をしたまがい物などではなさそうですね」

「それは良かった。偽物となるとまた別の問題が生じるからな。それから、労働条件は先にメールで送った内容と変更はない。何か要望はあるか?」

「報酬も十分ですし、提示された条件で構いませんよ。ディーラーの仕事は一旦休止して、この件に専念します」

「しかし、正直どこから手をつければいいのか……」

 古書を調べるといっても、ユーゴには手段を想像することすら難しい。ルチアーノは頷くと、ユーゴに問いかけた。

「あなたはダンテの『神曲』を読んだことがありますか?」

「いや、長くてどうも読む気が起こらなかった」

 ユーゴがどの程度の知識を持っているか、試しているのだろうか。口をついた言い訳に、ルチアーノは同意するような笑みを見せた。

「地獄篇、煉獄篇、天国篇と、三部ありますからね。しかも、きちんと理解するにはキリスト教の知識のほか、天文学や物理学についても知っている必要があります。でも、話の筋はそこまで複雑ではありません。生きたまま地獄に行ったダンテが、偉人たちと対話しながら煉獄、天国と旅をしていくんです」

「へえ、ダンテ自身が主人公なのか」

 読みにくく意味の取りにくい詩が延々続いている印象だったが、そんな内容になっているとは知らなかった。

「しかも、天国を案内するのは若くして亡くなったダンテの初恋の女性なんです。豊富な知識には圧倒されますが、その辺りは親近感の湧く設定ですよね」

 ルチアーノの意図は読めないが、ユーゴは「神曲」に興味を持ち始めていた。初恋の相手を自分の物語に登場させるなんて、願望があまりにストレートで面白い。

「そしてその『神曲』に出てくる主要な登場人物の一人が、ウェルギリウスという詩人です」

「ウェルギリウス? どこかで……あっ!」

 ユーゴは封筒を取り出し、差出人の名を確認した。ウェルギリウスと確かに書かれている。

「ウェルギリウスはダンテの尊敬する詩人で、作中では彼の師匠のような存在です。『サタン』が描かれているという絵も、見せていただけますか」

 折り畳まれた紙片を受け取ったルチアーノは、広げて現れた絵を目にして、納得したような表情を見せた。

「大きな翼に三つの顔。まさに神曲の地獄篇に登場するサタンの姿です。この手紙を残した人物が神曲を意識しているのは間違いないですね」

 知識を持つとはこういうことなのだと、ユーゴは感嘆した。一瞬のうちに、天と点が繋がっていく。

「そしてサタンには、もう一つの意味づけがあります。それに関わるのが、七つの大罪です」

「カトリック教会が取り入れた、“罪の根源”だな」

「その通りです。傲慢、憤怒、嫉妬、怠惰、強欲、暴食、色欲の七つですね。七つの大罪は、神曲の煉獄篇でも登場します。煉獄でそれらの罪を贖えば死者たちは天国に至ることができる、とされていますが、サタンはその中の憤怒と結びつけられた悪魔です」

「憤怒? じゃあ、『ウェルギリウス』は何かに激しく怒っているということか」

 ユーゴは勢いこんで言ったが、ルチアーノは慎重だった。

「僕が勝手に深読みしているだけかもしれません。それに、怒りという動機では範囲が広すぎて手がかりにならないでしょうね。その話は一旦おいて、まずはこの五冊の出どころを探る方が真相に近づける気がします」

 ルチアーノは五冊のうち一冊を、ユーゴの前に置いた。冷めかけたコーヒーを一口飲んでから、口を開く。

「この本を見て、どんな印象を受けますか?」

「印象……? 古そうだという以外は、特に普通に見えるが。文庫本くらいの大きさの――」

「そう、それです!」

 ユーゴはルチアーノの勢いに面食らい、テーブルに肘をぶつけた。

「印刷技術の開発に関してはグーテンベルクの功績が大きいですが、その時点ではまだ本は分厚く重く、装丁は美しくとも高価で、一部の人たちのための存在でした。しかしこの本は、それとは真逆です。読みやすい大きさで、装丁も簡素にして価格を下げた本……つまり現代の文庫本と同じ特長ですね。言うなればこれは、世界で最初の文庫本なんです」

なるほど、それは確かに大きな転換点だ。今まで本に手が届かなかった層にとっても、本が身近になっただろう。目の前の古びた古書が、俄かに輝きを増したように見えた。

「この本を出版したのは、アルド・マヌーツィオという人物が興したヴェネツィアの印刷会社です。一五〇一年に出版された古典文学シリーズの一冊、ウェルギリウスの著作集ですよ」

「ここでも、ウェルギリウスか」

「もしかするとこの本を見て、ウェルギリウスと名乗ることを思いついたのかもしれないですね」

 自らの想像に笑みを零しつつ、ルチアーノは続けた。

「『アルド版』と呼ばれるこのシリーズの特徴はまずサイズですが、他にもいろいろと後世に残る改革をしているんです」

 ルチアーノはページを捲り、ユーゴに見せた。

「アルド版はこのように手書きのような文字の美しさが魅力で、ここで使われているイタリック体を生み出したのも、アルド版だったと言われています」

「イタリック体も?」

 現代でも頻繫に使われる書体だ。それが一つの出版社から生まれていたとは。

「一般的にはあまり知られていませんが、アルド・マヌーツィオも革命を起こした一人ということですね」

 ルチアーノは満足そうに話を締めくくった。

「では、脇道に逸れるのはこれくらいにして本題に入りましょうか」

「今のは脇道だったのか?」

 『ウェルギリウス』もしくは古書の持ち主に関わる話だと思って、身を乗り出して聞いてしまった。したり顔で、ルチアーノは言う。

「脇道といえど、必要な寄り道です。興味を惹かれるものの方が、調べる意欲も高まるでしょう?」

 その意見には、ユーゴも賛成だ。しかしまんまと掌で転がされたようで面白くない。ユーゴの不満顔には目も暮れず、ルチアーノは古書の表紙を開いた。

「古書の来歴を知る有力な手がかりの一つが、蔵書印です。どこに押すかの決まりはありませんが、このように扉に押しているものが多いですね」

 やや掠れた黒いインクで描かれているのは、ライオンと城をモチーフにした紋章のようなデザインだった。下の方に、「Ex-libris」という文字が見える。

「Ex librisは、蔵書票を意味する言葉です。元のラテン語だと、『誰々の蔵書から』という意味になります」

 蔵書印によく書かれる言葉なのだろう。日本ではただ学校や図書館の名前などがハンコで押されているイメージだったが、こちらの方がずっと趣がある。

「アルド版の多くは有名な大学図書館や研究機関などに所蔵されています。しかしこの本は、個人が所有していたものです。蔵書印を見てすぐにわかりました」

「ということは、君はこの本を所有していた人物を知っているのか?」

 ルチアーノが頷き、ユーゴは身を乗り出す。

「名前はアンドリュー・トンプソン。ニューヨークに豪邸をお持ちでした。イェール大学法学部の教授で、コレクターとしても有名だった方です。五年ほど前に、お亡くなりになりましたが」

 再び、肩透かしを食った気分だった。せっかく自分たちが今いるニューヨークに住んでいたというのに、この世にいない人物とは。途端に勢いをなくすユーゴを宥めるように、ルチアーノは言う。

「この古書に関しては、同業者から聞いたことがあります。二十年前、持ち主のトンプソン氏の本棚から忽然と消えてしまったそうです。それ以降誰も見ていないという話でしたが、まさかこんなところでお目にかかれるとは」

「消えたというのは、失くしたという意味か?」

 ルチアーノは思わせぶりに首を振り否定した。

「几帳面な方でしたから、紛失は考えられません。話を聞いた誰もが、“盗まれた”のだと思いました。当時、犯人についても噂されていたそうです」

「その噂通りの人物が、犯人だったのか?」

「わかりません。今申し上げたように、古書がいつの間にか消えてしまい、その後何も続報はありませんでしたので」

 その犯人が明らかになれば、この本が誰の手に渡ったのかも判明するかもしれない。

「まさか、犯人と噂された人物もこの世にいないとは言わないだろうな」

「ご心配なく。彼はこの近くで働いていますよ。ダミアン・トンプソンという古書店主です」

「トンプソンというと……」

 目線で問いかけたユーゴに、ルチアーノは肯定の笑みを返した。

「古書の持ち主だったトンプソン氏の、次男です」

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