第1話 ある古書泥棒の告白(2)
マンハッタンの街は、朝からにぎやかだ。ユーゴはセントラルパークのベンチでサンドイッチを片手に、犬の散歩やジョギングをしながら通り過ぎていくニューヨーカーたちを眺めていた。
昨夜はジョン・F・ケネディ国際空港に到着後、すぐホテルに向かった。時差の影響は若干あるが、陽の光を浴びれば体内時計も調節できるだろうと、朝から出歩くことにしたのだった。
古書ディーラーのルチアーノ・リンフレスキとは、午後一時に会う予定だ。まだたっぷり時間がある。パンくずを払って立ち上がったユーゴは、おこぼれを目当てに寄ってきた小鳥たちのさえずりを聞きながら、公園の敷地を後にした。
ユーゴが次に向かったのは、ミドルタウンに位置するニューヨーク公共図書館の本館だった。ニューヨークを訪れたことはあるが、NYPLの中に入るのは初めてだ。これから本を扱うにあたって、一目見ておくのも悪くない。神社に願掛けをするようなものだ。ユーゴが周囲から生真面目だと評されるのは、こういった行動のせいだろう。
本館の外観は図書館というより博物館のイメージに近かった。正面入口の階段の両脇には、二頭のライオンの石像がある。名前はレノックスとアスター。どちらも、NYPLの母体となった図書館の名だという。
建物の中も、荘厳な雰囲気だ。人の流れに乗って大理石のアーチを持つホールや、凝った装飾の施された天井の部屋を進む。
三階に上がると、件の大英図書館にも展示されているというグーテンベルク聖書を見ることができた。ネットで得た情報によれば、現存する『グーテンベルク聖書』は不完全なものを含め四十八部で、そのうち紙に印刷されているものは三十六部。そのほとんどが図書館や博物館の所蔵となり、世界中に散らばっているそうだ。アメリカ、ドイツ、イギリス、そして日本にも。
NYPLのグーテンベルク聖書は、ガラスのケースの中に、途中のページが開かれた状態で展示されていた。何も知らなければ、茶色く変色した、ぼろぼろの分厚い本でしかない。聖書を読みたければ、もっと鮮明でコンパクトで、丈夫な本がある。この聖書は本ではあるが、本として利用されることは二度とないのだ。不思議な感覚に囚われながら、ユーゴはケースの中を見つめた。これから調査をすることになっている五冊の古書にも、それなりの価値があると聞いている。大英図書館に所蔵されたら、いずれこんな風に飾られることになるのだろうか。それはひどく窮屈そうだと考えて、同僚の考察を思い出した。日本の文化を愛する彼曰く、日本人のそういったマインドが昨今の擬人化ブームに通ずるのだという。
さて、これから会う敏腕ディーラーは、古書にどんな思いを抱いて生業にしているのだろう。彼も日本をルーツに持っているが、そこまではプロフィールから読み取ることはできなかった。
NYPLを出たユーゴは、歩いてマンハッタンを南に下った。ブロードウェイミュージカルで有名な劇場や、写真スポットとして人気のタイムズスクエアとは逆方向だ。
五番街をひたすら下り、ブロードウェイへ。碁盤の目のように整然と区切られたマンハッタンで、ブロードウェイだけが少し傾いて伸びている。角の大きな書店を目印に、さらにニ十分ほど歩いた。
この先に、ルチアーノがよく顔を出すという古書店がいくつかある。通りに軒を連ねているわけではなく、地区の中に点在しているようだ。ユーゴはその内の一つ、芸術を専門とする古書店に足を踏み入れた。店内は壁という壁全てに本棚があり、大きさもバラバラに本が詰め込まれていた。棚に収まりきらない分は、木箱の中に積み上がっている。
「いらっしゃい、何かお探しかな?」
店の奥から、陽気な声が聞こえた。四十代半ばだろうか、派手な柄シャツを着た男性だ。雰囲気から察するに、昔は舞台に立っていたのかもしれない。ユーゴは本の山の向こうにいる店主に尋ねた。
「この店は、ディーラーと取引することはありますか?」
店主は少し怪訝そうな顔をしたが、もちろんだよと答えた。
「売り物になりそうなら誰からでも買い取るが、やはりプロが持ち込む物は違うからね」
「では、ルチアーノ・リンフレスキというディーラーと取引をしたことは?」
「ああ、あるよ」
店主はニヤリとすると、品定めするようにユーゴを見た。
「あんた、何か事情がありそうだね。古書を探しに来たようには見えない」
ユーゴは無言を貫くことにした。余計なことを口走るのに比べたら、黙っていた方がいい。
「まあいいや。彼に危害を加えるようには見えないからね」
「彼は何かトラブルに巻き込まれているのですか?」
クリーンな人間だと聞いていたが、実際は違ったのだろうか。驚いて聞き返すと、店主は無知な子供を相手にした時のような目をユーゴに向けた。
「古書は金になる。上手く値を吊り上げて売りつければ、一冊でひと月暮らせることもあるくらいだ。普通のディーラーならそんな稀覯本を扱う機会はまれだが、彼は違う。ここまで言えばわかるかい?」
「大金を持ち歩いているも同じですね。彼から古書を奪えば、楽に儲けられるわけだ」
店主は肯定する代わりに、肩をすくめるジェスチャーをした。写真では優男に見えたが、ルチアーノはそれなりに修羅場を潜り抜けてきたタフな人間かもしれない。
「あなたから見た彼の印象を聞かせてくれませんか」
この際できる限りの情報を得ようと、ユーゴは尋ねた。下手なことを言ってルチアーノの機嫌を損ねれば、最悪協力を得られない可能性もある。店主は少し考えるように首を捻ってから、口を開いた。
「A jewel in a dunghill. 彼はきっと、どこかの貴族さ。本来ならオークションで競り落とす側の人間だよ」
芝居がかった台詞回しで、店主は滔々と言った。
「若いからと侮らず、敬意をもって接することだね。まあ、彼と会話をしてその知性に触れれば、自ずと態度は改まるだろうが」
店主はウインクと共にグッドラック、と送り出してくれた。
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