第1話 ある古書泥棒の告白(1)
ユーゴ・キリサキは廊下を歩きながら、腕時計に目を落とした。指定された時刻にはまだ五分ほどある。少し早いだろうか。面会を予定している人物は上司のさらに上司にあたり、普段仕事で関わることはない。なぜ呼び出されたのか、正直予想がつかなかった。しかし自分だけに声がかかるというのはなんだか秘密めいていて、特別な案件に関われるのではと期待が膨らんでいた。
「なんだろうな。大泥棒を捕まえる……なんてのはさすがにないか」
銭形警部じゃあるまいし、と笑う。
日本の警察庁からインターポールに出向中の捜査官。それが今のユーゴの身分だ。父は日本人で母はフランス人。国籍は日本だが、見た目は欧米寄り。日本で過ごした子供時代は周囲に馴染めないこともあったが、今は良かったと思っている。インターポールは英語とフランス語が必須で、狭き門をくぐるには語学力も武器になった。
ユーゴは今、フランス、リヨンのインターポール本部に籍を置いている。インターポールは正式名称を国際刑事警察機構といい、世界最大の警察機関だ。加盟している国や地域は一九二か所に及び、これは国際連盟に次ぐ数となっている。そのネットワークを駆使し、国外逃亡被疑者や行方不明者の追跡、身元不明死体の身分確認の他、国際犯罪や犯罪者のデータベース化とそれを元にした情報提供を行うことなどが主な業務だ。パソコンの前が仕事場という地味な毎日だが、自分たちのデータベースが地球の裏側で犯人逮捕に役立つこともある。得意の柔道が活躍する機会はなくとも、優秀な同僚との仕事は刺激的で充実していた。
目指す部屋の前に立ったユーゴは、一つ深呼吸をした後、ドアをノックした。返事を聞いてドアを開けると、初老の男性がこちらに背を向けて窓の外を見ていた。ユーゴの所属する特別犯罪局や捜査支援局などを束ねる、警察総局。その局長であるアダムズ氏だ。
「ユーゴ・キリサキ。君は、語学が堪能だったな」
アダムズ局長は振り返ると、単刀直入に尋ねた。表情は逆光でよく見えないが、ユーゴは姿勢を正して答える。
「英語、フランス語、日本語の他は、スペイン語に自信があります。ドイツ語やイタリア語はある程度聞き取れますが、日常会話程度かと」
「うん、それだけ喋れるならば充分だ」
局長は執務机の前に置かれたソファをユーゴに勧め、自らも向かいに腰を下ろした。複数言語を操ることが必要な仕事なのだろうか。話が読めないまま、ユーゴは硬い表情の局長を見る。
「先月、大英図書館で奇妙な事件が起きたことは知っているね?」
「ああ、謎の“置き土産”の件ですね。何か進展があったんですか?」
「トランクを持ち込んだ者の姿が防犯カメラに映っているところまでは、確認できた。しかし帽子を目深にかぶっていて顔がわからなくてね。男性なのは間違いないと思うが」
「意図的に顔を隠したのか、気になるところではありますね」
ユーゴの相槌に、局長は頷いた。
「大英図書館としては、稀覯本――貴重な古書なので可能ならば蔵書にしたいとのことだったが、正式に寄付されていないものを所有するわけにもいかない。盗品ということも考えられる」
「やましいことがなければ、顔を見せて手続きをするでしょうからね」
「その通り。しかしロンドン警察も今すぐは手が回らないそうだ。本音では、緊急性が薄く手がかりの少ない事件に人員を割きたくないということだろう。そこで彼らは、我々に調査を依頼してきた」
「確かに、芸術品の盗難を捜査するのもインターポールの仕事の範疇ですが。まさか……」
局長がにっこりと満面の笑みを浮かべる。嫌な予感がした。果たして、彼はユーゴに言った。
「君に調査を頼みたい。五冊の古書と、それを残した人物について」
ユーゴの返事を聞く前に、アダムズ局長は手にしたタブレット端末をユーゴに向けた。
「これが、中に入っていた五冊の古書の写真と簡単な情報だ。本物は別の場所に保管してある。ああそれから、『手紙』も入っていたな」
一連のデータの最後に、封筒と中に入っていた用紙のスキャン画像があった。ユーゴの同僚が調べた結果、描かれているのは「サタン」という堕天使、あるいは悪魔だという。大きな翼と三つの顔を持ち、それぞれがぎょろりと目を剝いていて、できればあまり直視したくない。この気味の悪いサタンの絵のせいで、本もいわくつきのように感じられるのだろう。
「そういえば、その人物はウェルギリウスと名乗っているという話でしたね」
既に報道されている情報だ。タブレットを受け取り封筒の写真を拡大していくと、筆記体の文字が見えた。ユーゴは初耳だったが、有名な古代ローマの詩人だそうだ。
「正直なところ、判断に困る案件なんだ。絵画などと比べれば古書はあまり話題にならないが、手段を問わず手に入れたいと考えるマニアもいる。もし盗品であれば関係者との接触には危険が伴うかもしれない。しかし現時点では、事件性があるかも判然としない」
「はあ……」
「不満かね?」
気の抜けた声を発したユーゴに、アダムズ局長は問いかけた。
「いえ、精一杯臨むつもりです」
姿勢を正して答えたものの、落胆してはいた。世界を股にかけるとはいえ、古本の調査とは。表情から局長にもバレてしまったらしく、彼は申し訳なさそうに顔をしかめた。
「我々の組織は加盟国の出資によって成り立っているからね、良い関係を維持するためにも無下にはできないんだよ。初めは大英図書館の司書の一人が調査に名乗りを上げていたそうだが、何ヶ国も巡るとなるとやはり一般人には厳しい」
「ええ、その辺りの事情は理解しているつもりです。体力には自信がありますから、歩き回る調査にも問題はないと思います。ただ――」
このままだと、早々に行き詰まる。ユーゴは柳のように受け流そうとする局長に、懸念を伝えた。
「私は芸術の知識はおろか、古書なんて触れたこともありません。いきなり調査をしろと命じられても……」
わかっているというように、局長は手で制した。
「それについては心配はいらないよ。専門家に協力を頼んでいる。まずは彼に会いに行ってほしい」
「古書の、専門家ですか?」
イメージが湧かないが、古書店を営む者だろうか。局長は再びタブレット端末を手にすると、操作してからユーゴに画面を見せた。
「ルチアーノ・リンフレスキ。古書ディーラーだ。店を構えず、顧客同士の仲介を主な仕事にしているらしい。顧客には、コレクターだけでなく各国の有名図書館や古書店も含まれている。そのコネクションがあれば、調査も進めやすいはずだ」
「名前からすると、イタリア人ですか?」
「ああ、国籍はそうだ。父親がイタリア人で、母親は日本人。半分日本の血が流れているのは、君と同じだな。しかし幼少期に両親とは死別していて、なかなか複雑な生い立ちだ。まあ、その辺りはフライト中に確認してくれ」
ユーゴは局長の言葉を聞きながら、端末の情報に目をやる。彼の人選に異議を挟むつもりはない。しかし、それにしても――。
「二十五歳とは、ずいぶんと若いですね。この歳で、そこまでの人脈があるんですか?」
チョコレートブラウンの髪と、黒い瞳。アジア人らしい線の細さが加わり、やや中性的で端正な顔立ちだった。パスポート写真でこれだから、実物はより目立つ容貌だろう。
「私も初めに聞いた時は驚いたが、NYPL(ニューヨーク公共図書館)や大英図書館で稀覯本を担当する司書たちが口をそろえて彼の名を挙げた。彼の頭の中にはあらゆる稀覯本の情報が詰まっていて、頼めば地球の裏側まで探して交渉してくれるという。しかも、法外な値段を提示したり盗本を持って来たりしたことは一度としてない」
なるほど、それは適任だ。古物商にはどうしても胡散臭さがつきまとうが、組むなら当然、信用できる相手がいい。
「わかりました。それで、私はどこに向かえば良いですか?」
「ニューヨークだ。しばらくはそこに滞在していると、連絡を受けている。できる限り早く向かってほしい」
壁にかかった時計を見れば、まだ午後二時だ。席に空きがあれば、今日中に飛び立てるだろう。面倒な仕事はさっさと終わらせてしまうに限る。ユーゴは支度をすべく立ち上がった。
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