旅する本屋(リブレリーア)―時紡ぐ古書の帰郷―
小松雅
プロローグ
ロンドン、大英図書館本館。司書のエマ・アシュトンは昼休憩に入り、足取り軽くお気に入りの場所へと赴くところだった。
ロンドン中心部に位置し、規模も資料数も世界最大級を誇るこの図書館は、図書館としてはもちろん、観光スポットとしても人気だ。休日の今日は、いつもに増して賑わっている。
最初に来館者たちを迎えるのは、本のタワー「キングス・ライブラリー・タワー」。吹き抜けの中央を貫くように、国王ジョージ三世の蔵書がガラス張りのタワーに収められている。
エマはタワーを横目に見ながら、来館者に紛れるようにして「サー・ジョン・リトブラット・ギャラリー」に足を踏み入れた。オスカー・ワイルド、チャールズ・ディケンズなど著名な作家の文献、モーツァルトやベートーヴェンの手書きの楽譜、さらにはビートルズ手書きの歌詞カードまで展示された、英国の至宝が並ぶ奇跡のような一室だ。
「今日もいらしたんですか?」
「いいでしょ、休憩時間なんだから」
呆れる警備員に構わず、エマは展示された歴史ある書物をうっとりと眺める。ついでに湿度や温度、照明の具合も確認する。今日も問題なしだ。
そうそうたる展示品の中、エマの一番の贔屓は「グーテンベルク聖書」だった。印刷の誕生という革命の瞬間を、今なお伝える偉大な書物だ。本の複製といえば手書きで写すしかなかった時代、本は貴族か教会関係者だけのものだった。しかしグーテンベルクが活字とインク、そして印刷機を発明したことで、知の扉は大きく開かれた。今日書店に並んでいる本たちも、皆グーテンベルク聖書の子孫といえるのではないか。熱弁してもあまり理解されないが、こうして共に過ごせるだけでエマは幸せだった。
いつも通りの、穏やかな昼下がりだ。オープンスペースで仕事をするビジネスマンに、勉強している学生。日当たりの良いテーブル席で、ゆったりくつろぐ老爺。
「もし、ちょっと良いかね――」
仕事に戻ろうとするエマを呼び止めたのは、恰幅の良い紳士だった。本の閲覧方法を知りたいとのことで、エマは丁寧に、利用登録の方法や必要な書類について説明した。理知的な眼差しから、ロンドンに赴任してきた大学教授だろうか、などと想像する。
「よくわかったよ、ありがとう。あなたはグーテンベルク聖書がお気に入りなのかな?」
「ええ、まあ……」
熱心なところを見られていたのだろう。同僚はともかく、来館者にまで指摘されると少々気恥ずかしい。
「あれは確かに素晴らしい。本の存在の意味を変えた歴史的な書物だ」
老紳士の言葉に、エマはぱっと顔を上げた。同志に出会えた興奮に、頬が熱を帯びる。
「そうなんです! 印刷による複製、それが平等に知識を広めることに繋がり、さらに市民が自らの考えを持ち始め、議論が生まれて国を動かし――」
エマの早口を、紳士は優しい目で頷きながら聞いていた。
「君はあの子とよく似ている……」
「えっ?」
紳士は謎めいた言葉を呟き、杖をつきながら去っていった。丸い背中は人ごみに紛れ、すぐに見えなくなってしまった。
その日の閉館後、エマは一人の警備員に声をかけられた。ギャラリーの入り口に立っていた彼だ。
「閲覧室に、忘れ物らしきトランクがあったんです。まさか爆発物ではないと思いますが、やけに重くて。一応通報すべきでしょうか」
「何かあってからじゃ遅いし、その方がいいと思うわ」
緊急時の対応はこれまでに何度か訓練しており、警備部門の動きは迅速だった。館内はあっという間にものものしい空気に包まれ、三十分後にはロンドン警察の捜査官が到着した。定時は過ぎたが、ほとんどの職員は成り行きが気になって残っている。一時間が経過したころ、制服を着た初老の警察官がエマのもとにやって来た。
「ハーマン警部です。あなたの知識を見込んで、確認していただきたいことがあるのですが」
「私の知識? 本のことしかわかりませんけれど」
警部は生真面目な顔で頷いた。
「まさにその知識をお借りしたいのです」
彼が手で示したのは、オープンスペースの一角だった。白いテーブルの周囲に、警察官数人が張りついている。彼らが守るように背にしているのが、噂のトランクのようだ。
「トランクはもともと、閲覧室のテーブルの下に置かれていました。開けてみると、本が数冊入っていたのです」
「本?」
ハーマン警部はエマと共にテーブルの前に立ち、警察官の一人に命じてトランクを開けさせた。中に入っていたのは、本が数冊。ざっとタイトルに目を走らせたエマは、手を伸ばしそうになるのをどうにか我慢した。年季は入っているが、稀少価値のあるものばかりだ。
「これらはこの大英図書館の蔵書ですか?」
エマは断りを入れて本を手に取り、検分する。管理に必要なバーコードがない。全部で五冊あったが、どれも同じだった。
「一応書名を調べてみますが、おそらく蔵書ではないと思います」
「そうですか。やはり、ただの忘れ物というわけではないようですな」
「やはり、というのは?」
古書店で買い求めた本を忘れていった可能性もあるのではないだろうか。しかしハーマン警部は一通の封書をエマに見せることで、その想像を否定した。
「これが、本と一緒にトランクの中に」
受け取って中を覗くと、畳まれた紙片が見えた。引っ張り出し、広げてみる。
「なんです、これ……?」
思わず、悲鳴のような声が口をついた。生理的な嫌悪感と禍々しさを覚える、黒いもの――おそらく、悪魔――の絵が描かれている。
「名前らしきものも書かれているのですが、英語ではないようで読めんのです」
ハーマン警部が言い、エマも封筒に書かれた名を眺めた。
「Vergilius……ウェルギリウス」
古代ローマの詩人の名だ。こんなものを準備していたということは、元からトランクを置いていくつもりだったのだろう。でも、何のために?
貴重な古書を盗むのならばまだ理解できる。しかしこのトランクを残した何者かは、それらを置いて去ったのだ。奇妙な手紙と共に。
エマは五冊の古書を前に、呆然と立ち尽くしていた。
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