醒めない樹海の夢の中ではちみつの香りに絡めとられて帰れなくなった私の話
ケロリビドー
醒めない樹海の夢の中ではちみつの香りに絡めとられて帰れなくなった私の話
「さくらちゃーん、面白かったよ」
「百合原センパイ、今回の新しいですね~」
私が話を終えると、サークルのメンバーは嬉しそうに笑って酒杯を傾ける。どうやら今回仕入れたフォークロアはみんなのお気に召したらしい。
私、百合原さくらは大学のフォークロア研究会に籍を置いている。フォークロアっていうのはフォーク(人々や集団)と、ロア(伝統的な知識や物語)を組み合わせた言葉で、私たちが扱っているのはわかりやすく言うと学校の怪談とか怖い噂とかそういうものがニュアンスとして近いかもしれない。フォークロア研究会なんていうと物々しいかもしれないけど、実際はそういううわさ話を持ち寄りながら宅飲みをして、その時の録音を文字に起こして冊子にするのを主な活動にしている。要するにちょっと変わった飲みサークルというやつ。定期的に新しい話を仕入れておくことを忘れなければ気軽なこのサークルを私は気に入っていた。それに……。
「さくら先輩、ちょっと飲みすぎかも。それくらいにしておいたほうがいいですよ」
「蜂須賀くん。そうかも、なんか楽しくてつい……」
「レモネード持ってきたから飲んでくださいね」
わたしはサークルメンバーの後輩、蜂須賀くんと付き合っている。柔和そうな顔つきに清潔なシャツ。そしていつもなんだか甘くて素敵な香りがする男の子。お菓子を作るのが趣味らしいから、そのせいかもしれない。学部は違うけどこうやってサークルの飲み会で定期的に顔を合わせるうちに、いつの間にか惹かれ合うようになっていた……そんな関係。それはメンバーみんな周知の事実で、カップル成立の報告をした時の飲み会はそのまま祝福の飲み会に変わったっけ。
優しい恋人の気遣いに応えているあいだに、次の人が話す番が来たようだった。
「昔この大学に通っていた男子で、まあ仮にAくんとするけど、同じゼミの女子B子と付き合ってたんだけど、それだけならまあお幸せにって感じだけどさ、問題はそのB子が有名な遊び人だったってことなんだ。それだけならAくんもただ傷ついて終わるだけだったんだけど、問題はA子の彼氏のC男がすごくタチの悪い男で、なんていうの? いわゆる反社会ナントカってやつ。しかもすごく嫉妬深くて。そのC男の嫉妬を恋のスパイスにするためにいろんな男に手を出してるっていう、B子にもそういうやっかいなところがあったんだな。AくんはB子にそんな彼氏がいることなんか全然知らなくて。真っ当に自分の恋愛してるつもりでいたんだけど、形としては反社の女に手を出したことになってしまった。それで、Aくんは結構なイケメンだったんだよね。だからB子がいつものお遊びじゃなくて本気になりかけてしまって。それで激怒したC男に、Aくんはボコボコにされちゃったんだ。顔がわからないくらい殴られて、動けなくなったところを車で樹海に連れてかれてさ。木に括り付けられて全身に蜂蜜を塗られて放置されたんだってさ。樹海だもの、蜂だの蟻だのいろんな虫がいるよな。そういう虫にたかられて、誰にも助けてもらえないままAくんは死んで、しかも連れていかれる前にC男に無理やり書かされた遺書があったから自殺ってことになっちゃったんだそうだよ。え? その話は誰が誰に話したんだよって? それを人に広めてる奴も無事じゃすまないだろうって? まあそうだけどそれはそんなに重要じゃないんだよ。それよりこの話には続きがあって、樹海で一人で死んだAくんは死に際とっても寂しかったんだろうな。この話を聞いた人、特に女の夢に蜂蜜と虫に塗れたAくんが現れるんだって。それで夢の樹海に連れていかれて追いかけっこになって、逃げきれないとそのまま夢に捕らわれ続けるっていう話。そういう噂。今回の話はこれでおしまい」
話が終わった後、一瞬その場がしーんと静まり返っていたような気がする。気持ちの悪い話だった。生きたまま虫にたかられて死ぬだなんて気持ち悪いにもほどがある。それにざまぁ系とか自業自得系のスッキリ話はそこまで嫌いじゃないけど、悪いことをしたわけでもないのにひどい目に遭った人の話は私はあまり愉快ではないと思う方だ。ただただかわいそう。他の人たちもその話の気持ち悪さに様々な反応を示していたが、だいたいが嫌悪感を表明しているようだった。
「ちょっと~、そういう『この話を聞いたあなたにも』みたいな自己責任系の話は話す前に一言断りいれろって前に言ってるだろ~。苦手な奴もいるんだからさ~」
「まあでも悪くはなかったよな」
「そりゃ男性陣はいいでしょうけど~、うちら今夜その夢見るかもしれないってこと!? いや~!」
「まあまあ、これで全員話終わった? 泊ってかないやつらは終電あるしそろそろお開きにするか~、いや~今回もいいフォークロアがいっぱいだったね。録音できたか?」
「ばっちりです」
みんなで手分けして片づけが済んだら解散になる。急に立って動いたせいか酔いが回ってふわふわする私を、蜂須賀くんが支えてくれた。
「さくら先輩、足元気を付けて。俺、泊っていきますからね。いいですよね?」
「うん……蜂須賀くん、ありがと……」
蜂須賀くんは優しくていろんなことに気が付いて、それで、ものすごくえっちがうまい。彼の泊っていきますっていう言葉はこれからえっちするという合図で、すごいえっちを知ってしまっている私はそれだけで期待でゾクゾクしてしまう。だけど今日の最後の話が気持ち悪かったから、する前にシャワーでよく身体を流したいって思った。
「一緒に入りますよさくら先輩」
すらっと背が高い蜂須賀くんと一緒に脱衣所に入る。彼が服を脱ぐ音とともに、独特の甘い体臭が私の鼻腔をくすぐった。蜂蜜みたいな匂いと、男の子の汗の匂い。さっきの話の怖いイメージを拭い去ってくれる素敵な匂い。
そうよ、蜂蜜の匂いは蜂須賀くんの匂い。怖いフォークロアのイメージになんかそぐわない。お酒でぼんやりした私の頭をじんと痺れさせる匂い。そんな匂いに包まれながら、私は蜂須賀くんに支えられながらシャワールームに入る。彼は私の身体を洗うのが大好き。空のバスタブに放たれるシャワーの水流が暖かくなるにつれ湯気を発して、彼の蜂蜜みたいな匂いを狭い部屋に充満させていく。
(蜂蜜の匂いの石鹸かシャンプーを使っているのかな? それとも香水かしら……)
蜂須賀くんの家に行ったことはまだない。彼のおうちでお風呂に入ったら私もこの匂いになるのかもしれない。私が気に入ってるお花の香りのボディーソープを泡立てた彼の指がぬるぬると私の身体を滑っていった。
「あ……んん、蜂須賀くん……」
「さくら先輩、お酒の匂いがします。やっぱり飲みすぎ」
「んう……ごめんてば……あぁ……んむぅ」
振り向いた私の唇に蜂須賀くんのそれが重なる。熱くてふんわりした唇。
「ぷは、こら。さくら先輩。嫌じゃないんでしょ。遠ざけようとしないの」
「んあぁ、だってぇ」
「ほら先輩、どうしてほしいの」
蜂須賀くんは後ろから私の身体を抱きしめてくる。今まで触れてなかった彼の身体が私にぴったりくっついて、彼も興奮してるのがわかる……。
(ああ……蜂須賀くん……好き)
そして火照った肌を綺麗に洗って、私たちはいつのまにかベッドに移動していた。彼の匂いと心地よい疲れに包まれて私は夢を見る。眠りに落ちる瞬間、今日聞いた怖い話はみんな忘れていた。それなのに、私は夢を見たのだ。
ふわふわした踏みごこちの地面は木の根と石ころに覆われている。そんな道を、私は何かから逃げて走っている。
(走っても走っても、ずっと同じ景色……)
走りながら私にはこれが夢だとわかっている。耳元で、ぶぶぶぶぶぶ、という虫の羽音のような音が不自然に響いていた。
「逃げても無駄だよ」
ぶぶぶぶという羽音をそのまま言葉にしたような声がした。男の声のような気がした。振り向いてはいけない。そんな気もした。
「私、帰ります。帰るんです、明日は一限あるし」
追いかけられているとは思えない呑気な現実のことを口にしたら少しだけ空が明るくなったような気がした。私はそのまままた現実の話をする。起きている時に追いかけられているのだったらおかしいけどこれは夢だからこういうこともある。
「お昼は学食にしたいんです。Aランチにする。コーンサラダを付けると栄養のバランスがいいのかも……」
しゃべるたびに、空はどんどん明るくなっていって、走っていく向こうに舗装された道路が見えた。
たん、と靴裏がコンクリートを叩いた。そこで初めて、私は後ろを振り返る。声だけの追手は道路まで出てくることはなかった。ただ、暗がりに佇んでいる。ぶぶぶぶ、とまだ羽音は続いていた。そこに立っている男の顔は……。
「は……っ」
目を開けたらもう朝だった。隣に蜂須賀くんはいなかった。スマホを手に取ると、メッセージアプリに通知が来ている。
『用があるので帰ります。朝ごはんがテーブルにあるから食べてください』
その文字を見ながらむっくりと起き上がると、さっきまで見ていた夢のことを急に思い出した。樹海で追いかけっこをする夢。昨日聞いた話の通りだ。なかなかインパクトのある話だったから影響されて夢に見てしまったのだろうと思った。実際大学に言ってサークルメンバーにその話をしたら、影響されやすすぎだとみんなにからかわれてしまった。
「自己責任系の話は怖がりの人は嫌がるけど、実際本当に来ることなんてないから流行るんだよ。百合原怖がりすぎ」
サークルの部長が笑いながらそう言って、次の飲み会はいつにしようか、新しいフォークロアを仕入れておいてねって話になって、蜂須賀くんは私にだけ聞こえる声で「またレモネード作っていきますから、飲みすぎちゃだめですよ」と囁く。
私もそう思う。自分が思うより私が怖がりだっただけだ。だけど、次の日も私は夢を見た。
「そんなに急ぐことはないんだよ」
「嫌です。こんなところに居たくない。誰もいなくて、こんな寂しい……」
「そう、ここは寂しい。ここには俺しかいない……」
ぼそぼそと喋る男に追いかけられながら私はまた樹海の中を逃げる。ぶぶぶぶぶって変な羽音がうるさい。
「でも今は君がいる。今だけは寂しくない。だからそんなに急ぐことはないんだよ。君と一緒に居たい」
「私は、嫌です。帰るんです……学食の……」
また現実の話をして逃げようと私は口を開く。それに被せるように追手が声を出した。
「Aランチだろ。コーンサラダをいつもつけてる。飲み物はコーラだよね。いつも一緒だ。なんでも知ってる」
「……私の夢だからでしょ。私の夢だから知ってるだけ!」
「君が欲しい」
私は前だけを向いて、舗装された道路まで走る。
「待って」
「!!」
脱出しようとした瞬間、手を掴まれた。だけどなぜかその手はぬるぬるべたついていて、簡単に振りほどけた。
「!!!」
粘液と一緒に蜂が一匹手についてきて、私は声にならない声を上げてそれを振り落とす。そして顔を上げた時、初めて追手の顔を見た。
彼の顔はわからなかった。顔中にびっしりと蜂がたかっていたからだ。それを見た私はぞっとして、そして初めてそこで叫び声をあげた。
「どうしたの? 大丈夫? さくら先輩」
「は、蜂須賀くん、おはよう……」
今朝は帰らなかったらしい。叫びながら目覚めた私を不思議そうにのぞき込んだ蜂須賀くんのはちみつみたいな匂いが鼻腔をくすぐる。冷や汗で濡れた私の前髪を避けてくれる彼の顔を見て、私はようやくちゃんと目覚められたんだって思った。
「また夢を見ちゃったの……」
「夢って、この間の樹海の話の?」
「一回だけだと思ってたのに……」
「そんなにあの話が怖かったんですか? さくら先輩、可愛いんだ」
「そんなんじゃないってば……」
あの話、どんな話なんだっけ。夢に男が出てきて、追いかけられて、逃げられなかったら連れていかれる。そんな話だった記憶がある。酔っててあんまり細部まで覚えてない。逃げる方法って何かあったんだっけ。あの話をした人に詳しく聞く必要がある。私はそう思った。そして私を心配する蜂須賀くんと一緒に大学に行って、学食にたむろしていたサークルメンバーにまた夢を見たという話をすることにした。
「はあ? また夢を見た? おいおい、二度目はつまんねーよ」
「百合原センパイってそういう嘘つく人だったんですね」
「そんなに目立ちたいわけ……? 引くわ……」
「え? みんな……嘘じゃないよ、本当に続けて夢見てるから誰が話したのか、どういう話だったのか確認したいだけで……」
昨日はただからかってくるだけだったメンバーが今日は驚くほど冷淡なので私は動揺してしまう。
「まだ言うのかよ、うざ」
「そんな、ねえ、会長」
「あー……俺、心は広いほうだと思うけど嘘つきと見栄っ張りだけは嫌いなんだよね。悪いけど百合原、サークル抜けてくんね? トラブル呼びそうで嫌だからさ」
「……」
メンバーは不愉快そうに私を見るとぞろぞろと学食を出て行ってしまう。そこには私と蜂須賀くんだけ残されて、意味が分からない私はすがるように蜂須賀くんを見る。
「え……何これ。わ、私嘘なんかついてないよ。ねえ、蜂須賀くんも……私が嘘つきだって……思うの?」
「……そんなこと思わないですよ。世界中の人がさくら先輩をウソつき呼ばわりしても俺だけは先輩を信じますよ」
「蜂須賀くん……」
何がなんだかわからない。私は二日続けて夢を見て、それを話しただけ。それなのに、サークルを追い出された。
「あんなひどいとこにいることないですよ。俺も一緒にサークルやめます。俺とだけずっと居ましょ、さくら先輩」
「うん……ありがとう蜂須賀くん、でも……」
理不尽な対応をされて悲しいし、誰があの話をしたのか聞くこともできなかった。その日はそのまま家に帰って、私はずっとベッドに居た。そしていつの間にか眠ってしまって、やっぱり同じ樹海で追われる夢を見た。三日目だ。私は走って逃げながら、追いかけてくる男を問い詰めた。
「はあ、はあ、あなたなんなの。いったい誰が話した話なの。あの時私以外にも女の子いたじゃない、どうして、どうして私の夢にだけ出てくるの」
「……それは、君がいちばんやさしかったからだ」
「何言って……」
「君が俺の話を聞いてただ一人『かわいそう』と思ってくれたからだ」
「え……」
そんなことで? と私は思った。酔ってあの時どう思ったかなんて覚えてない。でも、何も悪いことをしていない人が酷い目に遭って死ぬのはまあかわいそうだと思う。でもそんなの誰だって思う当たり前のことで……。
「そんなことで私に目を付けたの、やめてよ……そのせいで私サークル追い出されて……」
「君の優しさをわからないやつとなんか一緒に居なくていいだろう」
「嫌、追ってこないで……」
「君が欲しい」
ぶぶぶぶぶぶぶぶぶ。ぶぶぶぶぶ。ぶぶぶ。
「ずっと一緒に居よう」
次の日、私はサークルの録音係の女の子を大学で見かけて、立ち止まらせることに成功した。彼女は嫌そうだったけど、サークルの中でも私とは結構仲良かったし、話は聞いてくれた。
「まあ……サークルから追い出すのはやりすぎってわたしも思うし……でも全員がああなっちゃったらさ、空気読んでたらわたし一人もう反対とかできないから……」
「迷惑かけてごめん。あの日の録音だけ聞かせてくれればいいからそしたらもう、話しかけないから……」
空き教室にその子と二人で行って、録音していた音声を聞かせてもらう。確か飲み会の一番最後に誰かがした話だったはずだった。彼女は毎回ボイスレコーダーを持ち歩いているので、早送りしてそこだけ聞かせてもらうことにした。
「たぶんここから最後の話のはず」
「聞かせて」
彼女がボイスレコーダーを再生すると、ちょっと割れ気味の音声が流れ始めた……。
『今からする話は俺が死んだときの話なんだけど』
ピッ、と音がして、彼女は停止ボタンを押した。
「何今の。あの日誰かこんなこと言ってた? 気持ち悪い……もうやめたい」
「ごめん……誰の声か知りたいから、もっと聞かせて……」
嫌がる彼女に無理を言って、続きを聞かせてもらう。たちの悪い女と恋愛したってだけの理由で殺されてしまったAくんの話。話を聞いた人の夢の中を追いかけてきて、連れて行ってしまうAくんの話をしているこの声は……。
「この声、誰? こんな声の人サークルに居た?」
彼女が訝し気に言う。私はこの声をよく知っている。この声は。
「蜂須賀くんの声……だと思う」
「蜂須賀くんって誰?」
「え?」
私はびっくりして彼女の顔を見る。蜂須賀くんは私の彼氏でサークルの後輩で、彼女ももちろん知っている。付き合うってみんなに言ったときお祝いの飲み会になったじゃない……。
「知らないよ。蜂須賀くんなんて名前の人サークルにいないし、あんた彼氏なんかいないじゃん。あんたやっぱおかしいよ。ちょっと……もう話しかけないで。気持ち悪い……」
ガタガタと大きな音で椅子から立ち上がり、彼女は教室から逃げるように出て行ってしまう。私は呆然と座ったまま、今言われたことを思い返していた。蜂須賀くんはサークルに居ない。私に彼氏なんていない。嘘だ。嘘つきはみんなのほう。蜂須賀くんは優しくて、毎日のように愛してくれて、ずっと私と一緒にいるって言ってくれて……。
泣きそうになった私は、彼に電話をかけようと思った。そして、ただ『蜂須賀』とだけ表示されたスマホの画面を見つめて、ちょっと違和感を覚えた。
「……蜂須賀……何くんって言うんだっけ。下の名前」
私は。蜂須賀くんの下の名前を知らない。
「!!!!!!」
吐き気がした。私は夢を見たことより、メンバーのおかしな反応より、何より蜂須賀くんが誰なのかわからないことが恐ろしくて、とにかく安心したくて自分のアパートへの帰路を走った。怖い。怖い。
(怖い……!! 誰なの!?)
彼といつ会ったのか、どんなふうに恋人になったのか思い出そうとするのに、全然思い出せない。私の頭の中の記憶に初めて彼が登場したのは……。
『さくら先輩、ちょっと飲みすぎかも。それくらいにしておいたほうがいいですよ』
あの話を聞いた飲み会で! 彼が私のそばに居たのはあれが初めてだった!!
「おえっ、げぇっ」
アパートの入り口で私は吐いた。あたまがぐるぐるする。階段の手すりにもたれかかるように、重たい足を持ち上げて私は家に帰る……。
「お帰りなさい、さくら先輩。俺、待ってたよ」
廊下。私の部屋のドアの前で、それは立っていた。
「……あ、あなたは誰」
「え? どうしたの? やだなあ。僕はさくら先輩の彼氏だよ」
「嘘。あなたとは一昨日初めて会った。あなたが誰なのか私は知らない。近寄らないで、警察を呼ぶわ」
蜂須賀くんと名乗っていたそいつは、夢見るように優しい笑顔を崩さない。顔だけ見ていたら悪意を感じることが出来なくて、私はそれがとても恐ろしかった。
「俺はあの樹海で独りでずっと寂しいんだ。こんな俺をかわいそうだと思ってくれた君が欲しい。君と二人で人の噂の中で生きたいんだ。俺は死んでいるから、噂の中でなら君と生きていける」
「こ、こないで」
「なあ、いいだろう? 君の好きなことなら俺はなんでも知っているんだよ。お酒に強くないのに飲むのは好きだから飲みすぎちゃうのとか、学食のAランチにだけついてくるいちごのゼリーが好きな可愛い所も、どこを触られたらイイのかも全部知っているよ! 一昨日知り合ったばかりだけど何でも知ってるんだ! もっと知りたい! あの場所でもっと知り合っていこうよ、俺の名前も知ってよ、あのね、俺の名前『永』っていうんだ! 蜂須賀、永! Aくんだよ! ねえ名前を呼んで!!」
「いや……いやっ!!!」
ぶぶぶぶぶぶぶ。追いかけてくる男の服の合わせ目から蜂が這い出してきて、羽音を立てていた。走っていた廊下が、いつまでも長く伸びて終わらない。今は午前中のはずなのに、もう空が暗い。夢の中のように足元がふわふわして、早く走れなかった。木の根や草がまとわりついて、走りづらい……。
「追ってこないで……!!」
私は樹海の中をAに追いかけられて逃げ惑う。どこまでもどこまでも、暗い道は続いている。夢と違って、走ると肺が痛かった。息が上がって、胸がばくばくして、苦しい。
「もう、いや……はあ、はあ、走れない……」
「さくら先輩」
はちみつの匂いがぷんとした。走り疲れて躓いた私の身体を長い腕が抱きすくめる。その両手はなにかの粘液でぬるぬるべたべたしていて、蜂が纏わりついていた。
「つかまえた」
私は木の幹に抱き着くように押し付けられて、もう逃げられない。もう、命乞いしかできなかった。
「た、助けて。逃がして……」
「そんなに急ぐことはないんだよ。さあ、愛し合おう。ここには俺と君だけがいる」
ぬるり、と頬を舐められる。そのまま顎を力強い手で掴まれて、振り向くような角度で唇を奪われた。
「優しいさくら。大好きだよ。俺はさくらと一緒に物語になりたい。人の口に登って、二人きりで生き続けよう。あんなつまらない所になんかもう帰らなくていいんだよ……」
「ん、はっ……駄目、かえ……るぅ……」
服の隙間から蜂が何匹も入ってくる。私はそれに逆らうことができずに受け入れてしまう。むせ返るようなはちみつの匂いの中で私は浸食される。
「さくら、愛してる。優しいひと。君を信じてくれない薄情な世界より、君には永遠の愛が相応しい」
「永遠っだなんて、永っ、永っ……」
「永遠に一緒に居よう。二人で永遠の物語になろう。さあ、受け入れてくれ。俺を……」
「……ぉ……ぁ……」
彼の愛のささやきと共に、どくん、と熱い蜜が私の全てを満たした。それはどくどくといつまでも溢れ、私の身体に沁みこみ、私もろとも全てをはちみつの香りに変える……。
「ああ……っ」
ぶぶぶぶぶぶぶ。
「……っ、……っ……」
私は帰れなくなった。
「次誰が話す? そろそろみんな話したかな」
あれから何年たっただろう。フォークロア研究会にいた人たちはみんな卒業していったけど、メンバーが入れ替わってもまだ活動を続けている。
「じゃあ、次は私が話すね。これは私が彼に捕まった時の話なんだけど……」
人はいなくなっても物語は終わらない。人の言葉に乗って、人から人へ。私たちは永遠に語られ続ける。
「それで夢の樹海に連れていかれて追いかけっこになって、逃げきれないとそのまま夢に捕らわれ続けるっていう話。そういう噂。今回の話はこれでおしまい」
話を終えた私を、彼が後ろから抱きしめた。もうずっと嗅ぎ続けているはちみつの匂いが私を包んだ。
醒めない樹海の夢の中ではちみつの香りに絡めとられて帰れなくなった私の話 ケロリビドー @keroribido
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