薊の花
増田朋美
薊の花
やっと涼しくなってきて、のんびりと、いろんなことがしやすい世の中になってきた。その日も杉ちゃんたちは、いつもと変わらず製鉄所にてのんびりとしていたのであるが。
製鉄所と言っても、鉄を作るところではない。居場所のない女性たちに、勉強や仕事をするための、福祉施設である。製鉄所というのはただの施設名で、何も意味がない。そこで、勉強などをしている人の事を利用者といっている。利用者の中には水穂さんのように間借りをしている人もたまにいるが、大体の人は、自宅から通所して、2時間ほど利用して帰っていくというパターンがお決まりである。富士山エコトピア行のバスに乗って行けば、富士駅からでも行くことが可能なので、大体の人はバスで一人で来ることが多いのであるが、中には、親御さんや、他の家族に迎えに来てもらっている利用者もいる。
その中の一人で、鈴木繭子さんという女性の利用者がいた。まだ利用をし始めたばかりだが、毎日、お父さんかお母さんに送ってもらって、利用している。特に、教育機関に通っているわけでもなく、就職活動をしているわけでもない。親御さんの話によれば、ちょっと家族から離れて、他の人と喋ってほしいということで、利用を申し込んだのだそうだ。そういう利用者も中にはいる。なので、だいたいそういう利用者さんには、製鉄所でご飯を作るとか、掃除をするなどして、そんな技術を身に着けてもらうことになっている。
しかし、繭子さんに関しては、製鉄所を管理しているジョチさんこと曾我正輝さんも、杉ちゃんも、手を焼いていた。まず初めに、箒を持たせても何もしないし、雑巾を持たせても掃除はしない。なんだかつらい思いが続いているという。親御さんから抗うつ剤は預かっているが、それを本人に渡してしまうと、大量に飲んでしまう可能性があるので、それはジョチさんが管理していた。しかし、いずれにしても、気持ちが落ち込んで辛い、そして、薬がほしいと言ってくる繭子さんに、杉ちゃんなどは、呆れてしまう始末。うつの人には怒鳴ってはいけないとか、決して叱ってはならないとか、精神関係の偉い人はそう言うが、杉ちゃんたちは、そんなことは、よほどの聖人君子ではないとできないぞと言い合っていた。
その日は、鍼治療のため、梅木武治さんが、製鉄所を訪れていた。みんなから、人形劇のキャラクターに似ていると言うことで、レッシーさんと呼ばれている梅木さんは、恒例の通り、水穂さんの体に鍼を打って、灸を据えて、そして、体をまんべんなくほぐしてくれた。それをやっているときに、ふすまが少し開いて、誰かが覗いていることがわかった。
「は、鍼を折られた?」
杉ちゃんは、苦情を申しつけたレッシーさんに、驚いてそう言ってしまった。
「そうなんですよ。」
レッシーさんは道具箱に入った鍼を、杉ちゃんに見せた。
「こんなふうにされると、鍼として使い物になりません。いきなり入ってきて何をするのかと思ったら、そうやって、鍼を折ってしまうものですからびっくりしました。あの女性は、どういう境遇で、こちらに来たのか、知りたくなってしまいまして。」
「そうですか。それは申し訳ありません。でも、彼女にしてみたら、なにかしてあげたと思っているのかもしれません。よくあるじゃないですか。精神疾患を持っている人は、時々常軌を逸した行動をすると。」
ジョチさんが、申し訳無さそうにそう言うと、
「そうですよね。顔を見ればそれがわかります。つらそうだって。しかし、僕の商売道具である鍼を、ああして折られてしまうのは、ちょっと困るんです。なんとかしてくれませんか。」
とレッシーさんは言った。
「どうやって繭子さんに話をさせるか。それが問題だ。」
杉ちゃんは腕組みをした。
「いくら話しかけても、つらい気持ちが続いているというばかりで、話が通じないんですよ。」
ジョチさんも困った顔をする。
「あの、失礼ですが、繭子さんの経歴というか、そこら辺聞かせていただけるとありがたいんですがね。」
レッシーさんがそう聞くと、
「ええ、名前は鈴木繭子。なんでも、中学生時代は、天下一の秀才で、静岡高校の理数科に行っていたようですが、進路が決まらず、それでおかしくなってしまったようです。」
と、ジョチさんはそう説明した。
「そうですか、具体的な症状というか、そういうことはあったのでしょうか?」
レッシーさんが聞くと、
「そうですね、いわゆる被害妄想というか、最初はペットの犬が盗まれたと言って大騒ぎをしたことから始まったそうです。それがだんだん重症化していって、今は、何もしないでボートしているかと思えば、人の話も聞かないで、掃除もしない。そんな人間になってしまったと、ご家族が話していらっしゃいました。」
ジョチさんは、すぐに答えた。
「おくすりなんかは飲んでいらっしゃるのでしょうか?」
レッシーさんはそうきくが、それはいくら飲んでも無理であるというのは、みんな知っていた。こういうときに、医学というのは役にたたないものである。
「まあ、規則正しく、一日一回うつの薬とか、そういうふうに行かないんだよな。飲まないときは、飲まないで、飲むと大量に飲んじゃうんだって。本当は、日頃から、薬を飲んでくれればいいんだけどね。なかなか精神障害は、本当にそういうところが難しいよ。」
杉ちゃんがそう答えたが、誰もそれ以外の対処法を思い出すことができなかった。精神疾患の症状で気力がなくなるというのは、それが尋常ではないのである。何をしなくても平気になってしまうのだ。
「医者に見せるとか、そういうことはさせないんですか?」
レッシーさんは聞くと、
「ああ、どうせ、医者に見せても医者の言う事聞かないのが、精神疾患だろう。」
と、杉ちゃんが即答した。
「そうですか。それは、本人に病識がないということでしょうか。それとも、医療に対して信頼感を持っていないということですか?」
「両方さ。だいたいな、精神疾患の症状を真剣に聞いてくれる医者なんていないじゃん。だから、医者を信じなくなって、自分の苦しいときだけしか薬を飲まなくなるんだよ。」
みんな杉ちゃんの発言に、そうですねと言って、大きなため息をついた。
「それでは、どうしたらいいですかね。なんとか、医療機関とか、あるいは、臨床心理士さんとか、そういう人に引き渡したいんですけど。繭子さんだって、きっと苦しいままで、大変だと思いますよ。僕達ができることもそれしかないんですし。」
レッシーさんがそう言うと、
「うーん、彼女が、医療を受けてくれようと思うようになってくれるのを、待つしかないかなあ。」
と、杉ちゃんは言った。
「なるたけ早く見せたいと言っても、彼女は、自分が病気であると思っていないかもしれませんから、それでは話が通じないというのも仕方ないですね。だけど、梅木さんが言う通り、いきなり部屋の中に入ってきて、梅木さんの鍼を折ったというのは、ちょっと迷惑ですよね。」
ジョチさんは、なんとか止めなければという顔をした。
「まずそこから始まるな。」
と、杉ちゃんが言った。
いずれにしても、福祉関係者や、個人開業しているカウンセリング事務所などは、こういう事をしてはくれないのは、知っている。そうなれば、誰かがどこかで変化を起こしてくれるのを待つなんて、そんな事を言ってはいられない。レッシーさんは、頭を捻って、なにか考えることにした。
翌日。
「こんにちは。」
レッシーさんは、製鉄所にやってきた。車椅子の膝の上には、花屋さんから買ってきた、薊の鉢植えが、置かれていた。
「あれ?今日は、施術の日ではなかったはず。」
杉ちゃんが言うと、
「ええ。それはわかっています。だけど、なんとかしなければならないと思ったので、一計を思いついたんです。」
とレッシーさんはそっと、杉ちゃんに言った。
「昨日も話題に出た、あの可哀想な女性はいますか?」
「ああ、繭子さんなら、居室にいるよ。また天井まもりでもしてるんじゃないの?」
杉ちゃんが言うと、
「わかりました。」
と、レッシーさんは言った。杉ちゃんから、居室は松の間だと聞かされて、レッシーさんは、松の間と書かれた部屋のドアを叩いた。
「こんにちは。あの、昨日お会いした梅木と申しますが。」
レッシーさんはそう言って、松の間のドアを開けてしまった。幸い、この部屋は、外から南京錠をかけることはできるが、中からは鍵をかけられない構造になっている。
「あの、繭子さん。昨日、ご挨拶も何もしていなかったので、それでは、お花を持ってまいりました。ノアザミの花です。スコットランドでは国花とされているお花なんですけど、花言葉は、自立とか、自活などを表しています。」
レッシーさんは、そう言って、紙袋に入った、薊の鉢植えを差し出した。もしかしたら、この男は敵だとでも思われて、鉢植えを壊されてしまうかなという不安もあったけれど、繭子さんは、それを受け取ってくれて、
「かわいい。」
とだけ言ってくれた。
「そうですか。ありがとうございます。可愛いと言ってくださって本当に嬉しいです。」
レッシーさんは素直に感想を言うと、
「水穂さんの花はもっとかわいい。」
と繭子さんは言った。
「そうですか。水穂さんがお花を持っているのですか?」
とレッシーさんが言うと、
「水穂さんは、素敵な花がらの着物を持ってる。」
繭子さんはそう答えた。
「そうなんですか。それなら、見せてもらえませんか。水穂さんには迷惑かもしれないけど、着物って、なんとなく漢服にも近いものがあって、結構、興味あるんですよね。」
レッシーさんはできるだけにこやかに言った。
「そうなの?」
繭子さんはそういう。
「ええ。一応、鍼や灸は、中国の医学を基本にしていますから、そこら辺は、面白そうだなと思うんですよ。」
レッシーさんは話を続けた。
「そうなんだ。結構なモノ好きだねえ。きれいな人だから、洋服のほうが合理的だと思うのに。だけどわざわざ着物で仕事してるんだもの。」
「ええ。鍼や灸は、西洋にはありませんから、東洋人として、和服で通すのは、必要でしょう。」
繭子さんがそう言うと、レッシーさんはそれを否定しないように言った。
「そうなんですね。あたしは、日本の医療が好きじゃないけど、そういう人がいるってのは聞いたことある。」
「どうして医療が好きではないんですか?」
繭子さんの言葉にレッシーさんは言った。
「だって、あたしがいくら病院に行ったって、異常がないの一点張りなんですもん。それなのに健康診断とか、今更精神疾患なんて、良く言えるなと思って、あたしは嫌いなの。みんなあたしが病院へ行けば、嫌な顔して逃げていくわ。」
「確かにそうかも知れませんね。以前、線維筋痛症の方が同じことを仰っておられました。いつも痛い痛いと言っているけど、体にはなんにもないって。あったほうが帰って落ち着くのではないかと思われるほど痛いって。」
レッシーさんがそう言うと、繭子さんの表情が変わった。
「おじさん、そんな言葉を知っているの?医療従事者なのに?」
「ええ。知っていますよ。だって、医療を受けても痛みが改善されなかった人が、僕のところに来たりすることもありますから。」
「そうなんだ!」
と繭子さんは言った。
「そうなんだね。じゃあ、おじさんは、私みたいに、医療を受けても何もならない人も見てくれるの。」
「まあそういうことになりますね。西洋医学みたいに、病原菌を殺すとか、痛いところを切るとか、そういうことができるわけじゃないけど、鍼や灸を使って、体を刺激することにより、体が良くなろうとする力を出させることはできますよ。」
レッシーさんはにこやかにそういった。
「でも、薬も使わないで、どうやって、病気を楽にできるの?薬以外では楽になれないし、人に話しても、無駄になってしまうだけだし。」
繭子さんがそう言うと、
「薬なんて、いろんなものがあるじゃない。もちろん、鍼や灸を薬代わりに使うこともできるし、さっき渡したノアザミも、薬になるんだよ。その葉を煎じて飲めば止血薬として、民間療法では普及しているよ。」
レッシーさんがそう言うと、
「じゃあ、水穂さんもなんとかなるの?」
と、繭子さんは言った。その目つきを眺めると、レッシーさんは嘘は言ってはいけない気がした。
「水穂さんがなんとかなるって?」
「だから、水穂さんのこと助けてやってほしいの。どうせ病院の先生だって、着物の柄のせいで、診てあげようとしないのよ。だから、私は医療なんて好きじゃないの。あなた、そういう事をしないでも、水穂さんのことなんとかしてあげようとできるんだったら、ぜひしてほしいわ。」
繭子さんは、にこやかに言った。
レッシーさんは返事に少し困ってしまった。自分の楽になることを、何よりも優先するのが、精神疾患というものだと思っていたので、水穂さんの事を話している彼女がとても予想外だったのだ。
「そうなんだね。」
取り合えずそれだけ言ってみる。
「ねえ、なんとかなるんだったら、すぐになんとかしてあげてよ。水穂さんは、本当に辛いのよ。私よりも。私ももちろん、うつがひどいときは、何もできなかった。でも水穂さんは私とは違うの。だって、本当に体が辛いと思うのに、私にどら焼きをくれたのよ。」
繭子さんは、真剣な顔で言った。水穂さんは、確かに、新しく入ってきた利用者が孤立しないように、みんなにどら焼きを配ることがある。それが、繭子さんにとっては、こんなに重大なことだったとは。
しかし、レッシーさんも、薊の葉を漢方薬代わりにするのは、漢方薬に優れた知識のある人ではないとできないのは知っていた。
「ああ、やっぱり、薊には棘があるな。」
思わずそう言ってしまう。
「なんで?あなたは、そういうことができる人なんでしょう?薊の葉を煎じて飲ませれば水穂さんの事を助けてあげられるのでしょう?それならお願い。なんとかしてあげて。これ以上水穂さんが、もう苦しまないようにしてあげてよ。もちろん、水穂さんが出身階級のせいで、医療を受けられないことは知っているわよ。だけど、こんな頭のおかしい私よりは、正常でしょう。人助けができるんだから。だからお願い。私ではなくて水穂さんをなんとかしてあげてほしいの。」
そう言っている彼女、鈴木繭子さんは真剣で、本当に水穂さんの事を思ってあげているんだなと言うことがわかった。レッシーさんは、水穂さんではなく繭子さんを、医療関係者に引き渡すという自分の使命を果たせないことで、ちょっと泣きたくなってしまった。
「ごめんなさい。僕本当は。」
思わずそう言ってしまう。
「そうなんだ。」
と、繭子さんは言った。
「結局、あなたも、私を邪魔だから消してしまえとしか見ていなかったのね。でも、それでも良いわ。あなたは、あたしに、お花をくれた。それはありがたいことだわ。薊って、独立とか、そういう意味なのね。それだけでも嬉しいと思わなくちゃ。私は、どうせ、この世には存在してはいけない人間なんだから。」
「確かに、それだけでは、行けないのかもしれないですけど、でも、きっと何にもできないときというのはあるんだと思います。もっと高度な専門家の方であれば、もっと適した答えを言えるんでしょうけど。僕は素人なのでそれしか思いつきません。ごめんなさい。」
レッシーさんは正直に言った。そうやって騙さず、謝ってしまったほうが良いのではないかと思うときもあるのだ。
「良いのよ。大体の人が私なんて、この世から消えてしまえって罵る仲、あなたは私に、お花をくれたんだから。カシェイの死所は針の先にあるって言うけど、あなたは違ったみたいね。」
レッシーさんは彼女の思考が混乱しているのだと、すぐに気がついて、余計に彼女を、医療関係者に引き渡さなければという気持ちになった。だけど、医療に対して不信感を持っている彼女にはそれができないだろうなと思われた。
隣の部屋から、咳き込んでいる声がする。繭子さんはすぐにそれに気が付き、四畳半へ飛び出してしまった。レッシーさんも車椅子を方向転換してそれを追いかけた。
四畳半では、約束通り、水穂さんが咳き込んでいて、畳は出した内容物で汚れていた。繭子さんが水穂さん大丈夫と言ったが、答える余裕もなさそうだった。レッシーさんは、急いでスマートフォンを出して、柳沢先生を呼び出した。水穂さんの事を理解してくれる医療関係者は、柳沢先生だけであることは、すでに知っていた。
それからはあれよあれよと過ぎてしまった。柳沢先生が、やってきて、すぐに粉薬を出して、水のみの水で溶かし、それを、水穂さんにわたして飲ませ、飲み終わった水穂さんが倒れるように布団に横になった。しばらくは咳き込んでいたが、薬を飲むと、楽になってくれたようで、水穂さんはウトウト眠りだしてくれた。
「どうもすみません。突然呼び出したりして。」
レッシーさんはそう言うが、
「いえ、構いませんよ。こういうときはお互い様ですからいつでも呼び出してください。」
と、柳沢先生は言ってくれた。レッシーさんは思わず、
「先程の止血薬には何が入っているのでしょうか?」
と、聞いてしまった。
「ええ、ノアザミの根を、天日干しして、粉にしたものです。小薊と言ってね、鼻血などにも使われる薬です。」
と柳沢先生が言うと、
「そうなんだ!」
という声が聞こえてきたので、レッシーさんはびっくりした。
「じゃあ、間違いではなかったのね。やっぱり私に薊の花をくれたのはそういう意味があったのね。」
そう言っているのは、繭子さんであった。レッシーさんは、思わず
「そうですよ。」
とだけ言ってしまう。
「でも、すごいわね。あんなに苦しがっていた水穂さんを止めてくれたんだから。」
とてもうれしそうに言っている繭子さんに、レッシーさんは、医療への不信感がちょっと取れてくれたのかなと、感じ取ったのであった。
もう陽射しは強いけど、風は涼しかった。秋が本格的にやってきたのだ。
薊の花 増田朋美 @masubuchi4996
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