37 暖簾に腕押し

 タケルの男宣言を受け、『雷神』は暫し固まっていた。


 顔を見、真っ平らな胸を見、ついでに広げて立つ足の破けた網タイツ付近も眺めた後、前のめりに蹲る。手のひらの隙間から鼻血が零れ落ち、ベッドを赤く染めていった。どうやら鼻血が止まらないらしい。


 これじゃ話もできやしないな、とタケルは少し冷静に戻る。それでも強気な態度は崩さないまま、見下ろしながら尋ねた。『雷神』に対し、下手に出るつもりは一切ない。


「おい、何か拭ける物はないのかよ」

「ティ、ティッシュがそこに」


 『雷神』の目線の先には、低い棚の上に並べられている加湿器がある。一体どこにあるんだと目で探すと、あった。加湿器と加湿器の間に肩身狭そうに挟まっている。タケルは箱を持ってくると『雷神』の前に胡座をかき、ティッシュを数枚出して渡した。


「ほら、拭けよ。話になんねえ」

「あ、うん、ありがと」


 『雷神』は随分と素直に礼を口にすると、これまた素直にティッシュを受け取る。数枚程度では足らなかったようで、あっという間にティッシュが鮮血に染まってしまった。


 タケルは内心「何をやってるんだろう」と思いながら、シュパシュパと追加で出して無言のまま渡す。『雷神』も無言で受け取り鼻を押さえるが、手のひらから血が垂れて腕を伝っていっていた。


 それを拭こうと血だらけのティッシュで拭くものだから、血は更に広がっていく。


 おいこいつ、一体何をやってるんだ――。


 タケルは苛つきながら、新しいティッシュを取り出し伝う血を拭ってやった。手のひらを広げさせ、そこも拭いていく。そうこうしている内に、鼻に当てているティッシュから血がボタボタ落ちてきた。


 もしや強く殴り過ぎたのかと思っていたら、なんと『雷神』はティッシュでそっと鼻を押さえているだけだった。


 ……こんなので止まるか!


 更に苛々したタケルは、大きな溜息を吐くと追加のティッシュを大量に出し、鼻血が出ているのと反対側の『雷神』のこめかみをガッと掴んだ。『雷神』が、ぎょっとしたようにタケルを見る。少しスカッとした。


「貸せ!」


 ティッシュの上から、鼻をぎゅっと圧迫する。ただ垂れ流してたって止まる筈があるか、ばーか! と心の中で罵りながら。


「いた、いたた」


『雷神』が目に涙を滲ませる。タケルは愛想のあの字もない冷ややかな目線で『雷神』を見た。


「あのなあ、こういうのは圧迫しないとすぐには止まらないんだよ。そんなのも知らないのかよ」


 途端、『雷神』が叱られた犬のようにしょぼくれる。


「……知らなかった」

「なら覚えとけ」

「うん」


 その後、鼻血が止まるまでの間、二人は暫し無言のままで過ごした。『雷神』は一体何を考えているのか、チラチラとタケルを見ては目を逸らす。落ち着きのない奴だ。


 だがそれ以上に、自分は一体何をやっているのかと呆れ返っていた。復讐相手の『雷神』を殴ったところまでは及第点だ。だが、何故今こうして『雷神』の頭と鼻を押さえつけ、わざわざ鼻血を止めてやろうとしているのか。自分の行動の意味が分からない。


 しかもヴィランなのに、あろうことか敵対するヒーローに正体をばらしてしまった。これは拙い。非常に拙かった。日村と原田はともかく、沢渡には絶対にばれてはならない案件だ。


 タケルは押さえつけ続けながら、考えた。何かいい手はないものかと。『雷神』が黙ってさえいてくれればいいが、どうしたら黙らせることができるのか。


 そこでふと、『雷神』の個人情報も得られれば対等になると気付いた。大分あくどい思考回路になってきていると一瞬思ったが、ヴィランなのでひとまずよしとすることにする。


『雷神』が素直に答えるとも思えないが、試しに聞いてみる価値はあるだろう。


「お前、名前は」

「ライト」


 冗談を言われているのかと思い、タケルは思い切り顔を歪ませる。


「ふざけてないでちゃんと言えよ」


『雷神』は潤んだ瞳をタケルに真っ直ぐ向けた。大型犬が「自分はいたずらしてないよ!」と訴えている時の眼差しみたいで腹が立つ。


「本当だよ。雷の人って書いて、ライト。佐藤雷人。俺が生まれた所の市役所の人が決めたんだって」

「は?」

「あ、止まったかも」


 ライトと名乗った『雷神』が、上目遣いでタケルを見て顔を綻ばせた。ライト――これが本当に本名ならば――が言っている意味がよく分からなかったが、とりあえずはそっとティッシュを退けてみる。


 鼻の周囲の皮膚は真っ赤になっていたが、確かに止まったようで待っていても血はもう流れてこなかった。


 ライトが、確かめるようにタケルの名を呼ぶ。


「……タケル?」

「あ?」


 何故この男が自分の名前を知っているのか。一瞬カッとなったが、考えてみればあの父のことだ。タケルや家族のことも、ライトに話していたに違いない。


「タケル、だよね?」

「……だから何だよ」


 タケルはライトの手から血だらけのティッシュを受け取ると、ゴミ箱を探す為に立ち上がった。立ち上がったところで何をやってるんだと思ったが、突っ返すのも面倒だ。


 ウロウロしていると、ライトがベッドの反対側を指差した。ゴミ箱は、床に置いてあった。


 床にペタンと座り込んだままのライトが、困ったように小首を傾げる。


「ねえ、何で俺が殴られたかのかはよく分からないけど、俺、田中さんには何もしてないよ」

「嘘言うなよ!」


 振り向きざまに怒鳴ると、ライトはビクッと身体を震わせた。この男の反応ひとつひとつが、癇に障る。被害者面をして、何様のつもりなのか。だが、ようやく会話になり始めた今が好機だ。タケルは畳み掛けるように続けた。


「お前が父さんを振り回して疲れさせたって聞いてるんだぞ! しらばっくれるなよ!」


 すると、ライトの眉間にあからさまに皺が寄る。


「……それ、沢渡さんが言ったの?」

「そうだよ!」


 タケルが大声で答えると、ライトはハアー、と長い溜息を吐いた。その仕草すらも腹が立つ。まるでこちらが何も分かっていないとでも言いたげな態度だ。


「タケル」

「何だよ!」


 掛け違い、違和感。この男と話していて感じていた原因が、少しずつはっきりとしてきた。言うなれば、暖簾に腕押しな感覚。タケルが怒ろうが喚こうが、この男の感情が昂ぶることはなかった。殴られても、怒りもしない。タケルには理解できないことだ。


「俺、最後の方は田中さんと殆ど会ってないんだ。本当だよ」


 ライトが、困ったように笑う。


「――は?」


 ライトの言葉に、タケルは間抜けな声を漏らした。

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