3 沢渡
ビルの壁面は硝子張りだが、エレベーターは透けていなかった。
正直高い所はあまり得意とは言えないタケルは、ほっとする。父が高層ビルに勤めていると聞き、よくそんな所に通えるものだと思っていたが、まさか自分がその会社に就職すると誰が思っただろう。
この就職難のご時世、大手メーカーに確約された内定は大きな意味を持つ。だが、それが果たしてどれ位の期間効力を持つかまでは未知数だ。
せめてタケルの目的が達成されるまでは、父の過労死という葵の御紋が入った印籠の効果が続いてくれることを祈るしかなかった。
タケルひとりを乗せたエレベーターが、ぐんぐん上昇していく。耳が詰まり、まるで海の底に潜っていくかのような感覚に陥る。
急にゾクリと不安になり、急ぎ唾を嚥下し耳を通す。両手で頬をパン、と叩いて気合を入れた。はじめからこんな及び腰では、先が思いやられる。自分でやると決めたのだ、こんなことにいちいち怯えている場合ではない。
エレベーターが、鐘の音を立て二十五階に到着する。重そうな扉が音もなく開くと、ひたすら白い、野球の内野程度の広さのホールが見える。
ホールの中心に立っていた男が振り返り、目が合うと会釈をした。
「田中武くん、ですか?」
オールバックにした髪を手で撫で付けている、銀縁の眼鏡を掛けた三十代半ばと思わしき細身のその男が、タケルの名を呼んだ。
身長は一七〇センチのタケルと同じくらいかと思ったが、よく見ると靴はなかなかの上げ底っぷりである。尖ったつま先と同様、あまり目つきがよくないその目は、受付嬢同様タケルを値踏みするように上から下まで露骨に眺めた。
「――ほう」
一体何がほう、なのか。分からないが、男のお眼鏡に適ったのか。男は相変わらずジロジロとタケルを見ながら、おもむろに自己紹介を始める。
「タケルくん、こんにちは。私がこれまで君とやり取りをさせてもらっていた、沢渡だよ」
沢渡が右手をさっと差し出したので、タケルは慌ててそれを握る。思ったよりもベタつく手に不快感を覚えたが、これからお世話になる人だ。顔に出さないよう努力した。
「わざわざ来てくれてありがとう。本当だったらこちらから伺いたいところだったんだが、なかなか時間が取れなくてね」
「あ、いえ、これからお世話になるんですから、こちらから伺って当然です!」
努力の甲斐あって、沢渡には何も気付かれなかったようだ。沢渡がくるりと背中を向けてホールを歩き出したので、タケルはその隙に右手をスーツの腿の部分に擦りつけて不快感を拭った。
「この二十五階に、君のお父さんも所属していた新規事業開発統括本部がある。君は来月から新規事業開発統括本部に所属することになるから」
「あ、はい。よろしくお願い致します」
父の死後、母はこの沢渡と延々とやり取りを続けてきた。タケルが実際に沢渡に会うのは今日が初めてだと思ったが、もしかしたら父の葬儀に参列していたのかもしれない。
あの時は、まだ何が起きたのか全く状況を呑み込めておらず、ただ流されるまま過ごしていた。
何もクリスマスの日に死ななくたっていいのにと呟いた母の小さな背中を撫で、自分の無力さを呪うしかなかった。だが、それもこれから挽回してみせるのだ。
ホールを突っ切った先に広がる全面窓硝子の外には、低層ビルを嘲笑うかのような光景が広がっている。その窓硝子に沿って通路が設けられていた。
あまりの高さに、極力窓から離れて歩くことにした。視界がクラクラする。悪趣味以外の何ものでもないと思ったが、世の中の認識は違うのか。
白い通路を進むと、暫くして今度は硝子扉の前で沢渡が停止する。壁に取り付けられた部分に、沢渡が社員証らしきものをかざした。電子ロックが解除される音が聞こえると同時に扉を開け、中へ入るようタケルを促す。
「ここが新規事業開発統括本部だよ。さ、奥へどうぞ」
一歩入ると、海外の映画で見るような小洒落たオフィス空間が広がっていた。硝子の壁で仕切られた個室が並び、三段上がった階段上のスペースには、来客用か、大きなソファーと硝子のテーブルが置かれている。
奥にもまだ部屋がありそうだったが、沢渡は手前のソファーに座るようタケルに言った。
「そこに座っててくれるかな? あ、珈琲は飲める? 機械だけどドリップ式だから、美味しいよ」
「あ、はい。いただきます」
大人しくソファーに腰掛けると、あまりの柔らかさに後ろにひっくり返りそうになる。これ、ここで寝られるんじゃないか。そう思えるくらい、上等そうなソファーだ。
沢渡は、これまたお洒落に配置されたパントリーで珈琲を二人分淹れてくると、タケルの正面のソファーに浅く腰掛ける。再びタケルをジロジロと眺め始め、居心地の悪いことこの上ない。
「どうぞ」
「いただきます」
一体何を説明されるのか。熱い珈琲を啜りながら、タケルは沢渡の次の言葉を待った。
そして、沢渡に尋ねられた。
「で、君はヒーロー課とヴィラン課、どっちを希望するんだい?」
と。
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