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「なんで、お前… …傘の、模様が」
「朝、鏡を見たら浮かんでた」
「おま、早く言えよ!」と二絵は声を荒らげて、勢いよく立ち上がった。
僕の腕を掴み、乱暴に引っ張る。
「痛いって」
「ぼんやりすんな、逃げるんだよ!」
二絵は何度も腕を引っ張る。あまりの強さに、顔がひきつる。
「逃げるってどこに!」
「傘神から逃げられるんならどこでも!」
僕は立ち上がって、二絵の腕を振り払った。
「もし今日、傘神様から逃げられたって意味ない! どっちみち明日僕は死ぬんだ。赤い傘の模様がついた人間は、必ず翌日に死ぬ運命にあるって」
「知らねぇわ! 対策練れば、明日死なないかもしれないだろ!」
「そんな対策、知りようがないって! 明日死ぬ理由すら分からないのに!」
くしゃくしゃと顔を歪めた二絵は僕を強く抱きしめた。耳元で二絵の聞くに絶えない暴言と、泣き声が響く。僕はぎこちなく、二絵の背中をさすった。しばらくすると二絵が鼻声で言った。
「今から神社を燃やしに行く。こっから自転車で一時間半ぐらいだろ。燃やせば夜には間に合う」
「何言ってんの。神社の傍には駐在所があるでしょ。燃やそうとしたら捕まるよ」
「そんなの知るかよ。神社を燃やせば傘神、消えるんじゃないの。そうしたらお前は死なないだろ、きっと」
「もし傘神様が消えても、明日、僕が死ぬ運命なのは変わりないんじゃない」
僕の両肩を掴んだ二絵は、恐ろしい形相で僕を睨んだ。
「何でそんなに冷静なわけ? 他人事みたいな口調なわけ」
「実感が湧かないからかも。あと――」
怪訝そうに二絵は首を傾げた。
「僕のおばあちゃんが傘神様に連れていかれた時、目の前で見たんだ。傘神様に触れられたおばあちゃんが、水の姿に変わった瞬間をね。打ち上げられた海の波みたいに、水の身体が跳ねた時、凄く怖く思ったけど――綺麗とも思ったんだ。今でも心に残ってる」
僕は二絵にぎこちなく微笑みかけた。
「死にたいわけじゃないけど。ただなんて言うんだろう、死ぬって分かったなら綺麗に消いな、みたいなさ。死ぬ前に足掻くのってあんまり綺麗じゃないなって思って」
そして自分よりも二絵が取り乱している様子を見て冷静になれている――。それは口にしなかった。うぅん、と二絵は唸り声を上げる。肩から手を離してこめかみに手を当てた。眉間には深いしわが寄っていた。
「お前って昔からそういうところあるよな。変わってる、他人と感覚がズレてるんだ」「そんな僕を好きになった二絵も変わり者だよ」
二絵は腕組みをして、再びあぐらをかいて座る。
「お前がこのまま夜を待つなら、俺も一緒に待つ」
鋭い目つきのまま低い声で呟く。
「俺も傘神に連れてってもらう」
僕は息を呑んだ。
「俺も明日、死ぬことにする。そうしたら俺も一緒に傘神に連れていかれるだろ」
全身を巡る血液が一気に冷えた気がした。腕をしならせ、拳を握りしめた手で二絵の頬を思い切り殴る。受け身を取れなかった二絵は、床に勢いよく倒れた。僕は素早く二絵の胸ぐらを力強く掴む。
「二絵、僕はそんなこと望んでない」
驚きと痛みで歪む二絵の顔が、みるみると赤く染まる。
「俺がそうしたいんだよ」と二絵は睨みつけた。
「そんなのお断りだね! いい迷惑だ!」
「お前が死んだら俺どうやって生きていくんだよ! 俺の気持ち分かれアホ!」
二絵は大粒の涙をこぼして叫んだ。はっとした僕は、胸ぐらを掴んだ手を離し、そっと二絵の腕を引いて起き上がらせる。鼻にしわを寄せた二絵は嗚咽を上げながら、ひゅーひゅーと喉を鳴らした。
「俺はお前が思っている以上に、お前が好きなんだよ!」
ぎらぎらとした瞳が僕を射抜く。初めて見る瞳と、怒気を重ねた迫力に思わずたじろぐ。ふと、机に置いてあるスマホが目に入った。そうだ、と閃く。スマホを取って二絵に差し出した。二絵は真っ赤な目でスマホと僕を交互に見る。
「このスマホで僕を写真に撮って」
「写真?」
「傘神様に触れられた人間は水になるんだ。写真を撮ったら二絵の部屋に飾ってよ。そして二絵が今後出会う人に、僕のことを紹介して。こういう奴が居たんだよって」
はあああああ? と二絵は嫌そうな声を上げた。
「だから僕と一緒なんて絶対に考えるなよ。分かった?」
僕たちはしばらく睨み合っていた。二絵が舌打ちをして視線を逸らす。スマホをひったくるように受け取り、胸ポケットに入れた。
「今から寝る」と、二絵は床に横たわった。「寝るんだったらベッドで寝れば。貸すよ」
二絵は不機嫌そうに、目を細めた。
「好きな奴のベッドに入って寝れるわけねぇだろ。俺の気持ち、舐め過ぎ。ってか恋愛感情に疎すぎ。少しは経験積めアホ」
腕を枕にして、二絵は横向きで眠り始めた。眉間に深いしわを寄せたままの二絵に、タンスにしまっていたタオルを取り出し、腹にかけた。前髪に触れて額を見る。額に赤い和傘の模様は浮かんでいなかった。ほっと浅い息を吐く。
僕は二絵が眠っている間に、机の引き出しに入れていた写真のアルバムを見返した。分厚いアルバムから、古い紙の匂いがする。そのアルバムに記録されている人物のほとんどが、二絵と僕の思い出だった。
新しいカフェで巨大なパフェを頼んだ時。ふざけてメンズメイクに挑戦した時。深夜コンビニに挑戦して、アイスを買った時。僕は便箋を取り出し、ボールペンで文字を綴った。
『母さん、このアルバムを二絵に渡してね。あと母さん、お世話になりました。一人で僕を育てるのは大変だったと思う。本当にありがとう』
後で気づいて読んでくれ――そんな願いを込めて再び引き出しに戻した。二絵が起きるまで、僕は一週間前に買った小説に手を伸ばして読んだ。内容は全く頭の中に入らなかった。午後になると、腹を空かせた二絵が目を覚ました。僕たちは徒歩二十分の場所にあるコンビニに向かい、おにぎりとアイスを食べた。その後、小さな図書館の傍にある森林公園に向かい、ぼぅっとベンチに座って木々を眺めているうちにゆっくりと時間が流れた。
僕の家に帰って来た頃には十八時を過ぎていた。空は厚い灰色の雲で覆われ、薄暗い。風も強く、外からぴゅうううううと口笛のような音が聞こえる。白い照明が部屋を照らす中、僕と二絵はベッドに背中を預けて座っていた。何も話さない。
お互いの息遣いだけを耳に入れる。時々、二絵が鼻を鳴らす。泣いているのだろうかと横目で盗み見るも、二絵は泣いていなかった。何かを考えるように、あるいは全く考えていないような瞳で、視線を床に向けていた。
しばらくすると、窓に雨粒がコツン、と当たった。雨粒は、次第に激しさを増して何度も窓にぶつかる。ざあああああああ、と滝のような雨の音と、強い風の音が混ざり合う。窓の向こうに見えるバルコニーで、雨の飛沫が白く跳ねて飛び上がる。
空気の塊に叩きつけられるように、窓がガタガタと揺れる。そろそろだ、と直感で思った。立ち上がって二絵を見下ろす。
「カメラの用意してくれよな」
静かな口調で言うと、二絵は顔を上げた。無表情だった。ゆっくりと立ち上がり、スマホを胸ポケットから取り出す。
「二絵、今までありがとう」
二絵は口を閉ざしたままだった。その時、窓が大きく揺れた。乱暴な音を立てて窓が開く。激しく吹き荒れる風と雨が一気に体にぶつかる。僕は顔を歪めて前を見た。猛烈な雨嵐の中、赤い和傘を差した男の影が陽炎のようにゆらりとバルコニーに立っている。
傘神様だ。
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