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「夏目、仕事に行ってくるわね! 明後日には帰ってくるから!」


 一階から母さんの声が聞こえた。僕は声を出せなかった。歯と歯の隙間を頼りない息が通り抜けていく。


「夏目?」と怪訝そうな母さんの声。

「い、行ってらっしゃい!」


 絞り出せた声は裏返って甲高い。もし母さんが不審に思って二階に上がってきたらどうしよう。僕は慌ててベッドの中に潜り込み、布団を頭から被った。


 じっと芋虫のように背中を丸めていると、車の扉を開閉する音と、エンジンを吹かして遠ざかっていく音が聞こえた。ほっと息を吐いて身体を起こし、枕の脇に置いていたスマホを掴む。頭に浮かぶのは友人の姿だった。


 僕の家で遊ぼうよ、というメッセージを二絵に送る。すぐさま『すぐ行く』と返事が来た。返事から三十分もしないうちに呼び鈴が鳴った。僕が玄関の扉を開けると、髪を金色に染めた、眉を短く剃っている男が目に入った。


 同い年のくせに僕より背が高い二絵は、僅かに口を開けて、はぁはぁと息を荒くさせながら肩を上下させている。白いシャツが汗で皮膚に張りつき、黒いズボンの裾に泥が跳ねている。


 人に懐かない野良猫のような雰囲気の二絵は、僕に気づくなり無邪気な笑みをぱっと浮かべた。クールな顔つきが一気に子犬のように可愛らしくなる。


「そんなに急いで来てくれたの?」と、僕は目を丸くする。


「そっ。食った納豆ご飯と味噌汁がもどってきそう」


 おい! と僕が焦ると、ぶははははは、と二絵が豪快に笑った。いつ聞いても面白い笑い方だ。二絵は白いビニール袋に入ったキュウリを僕に差し出した。


「これ。どうせ家にあっても誰も食べないから」


 方言が混じっていない耳通りの良い声に、笑顔を浮かべて答えた。


「ありがとう、母さん喜ぶよ」


 ビニール袋を受け取ると、二絵は「こういう時だけは俺の家が農家でよかったわ」と悪戯っぽく笑った。すると、あっ、と気まずそうに肩をすくめる。


「ごめん、俺、超ダッシュで自転車に乗って来たからさ。すんごい汗臭いわ、きっと」


 腕に鼻をつけて匂いを嗅ぎ、眉間にしわを寄せた。


「やっぱクセぇな」


 おかしくなった僕は笑って二絵の肩を軽く叩いた。


「大丈夫。ジュース持っていくから、先に二階に行っててよ」


 二絵は「お、おう」と言って、少し頬を染めて視線を床に落とした。僕は、はっとして叩いた手のひらを握りしめる。そうだった。


 昨日、僕は彼に告白されたのだった――。


 二絵と傘神祭りに出掛けた夜を思い出す。

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