少年風情

海汐かや子

1

 高校二年の夏休み、八月のことだ。降水確率は一日を通してゼロと言われている今日の夜に、必ず雨が降ることを僕は知ってしまった。朝、目を覚ました時だった。


 頬に出来ているニキビの様子を確認しようと、机の引き出しを開けて鏡を手に取って顔に近付けた時、目を剥いた。前髪の隙間から、赤い和傘の模様が額にタトゥーのように刻まれている。異様な存在を放つそれを爪で引っ掻く。何も変化が起きない。あ、と震えた声が漏れる。


 嘘だろう? まさか、僕が?


 額に赤い傘の模様が浮かんだ人間は、翌日、必ず死ぬ運命にある。すると僕の村を守る土地神――名前を傘神様と呼ばれて祀られている神が、死ぬ運命にある人間の元へ、雨と共に夜の時間帯にやって来るのだ。


 僕の住んでいる山形県のタカチ村は、今から二百年前、酷い猛暑に見舞われた。山々に囲まれた村は、山林が大部分を占めていて、夏は非常に暑く、冬は豪雪に見舞われるなど元々、極端な気候の影響を受けやすい土地だった。特に夏は一番恐ろしい季節だった。脳を溶かすような日照り。


 皮膚や肺を焼くような熱気。命の危険を感じる猛暑日に、村人たちは傘神と言う土地神――村の人間が死ぬ前日に現れて命を攫っていく神が祀られている神社に行き、暑さから守ってくれるよう祈ったそうだ。


 すると恐ろしい暑さや日照りは消えて、人々が耐えていけるほどの気温に変わった。今の時代でも夏は暑い。だが、命の危険を感じるような恐ろしい猛暑が訪れたことは、傘神様に祈ってから今に至るまで一度もなかった。


 ふと、傘神様に連れていかれたおばあちゃんの言葉が蘇る。


「夏目。この村で生きる私たちは、死ぬ前日に傘神様と出会う定めなの。その時に傘神様に命をお返しして、感謝する使命が私たちにはある。傘神様、今まで命を守ってくれてありがとうございましたって」


 桜が五分咲きになった肌寒い春、居間の和室で、おばあちゃんは僕に言い聞かせるように言った。


 赤い傘の模様が額に浮かんだおばあちゃんの傍で、当時、小学校四年生だった僕は「なんでおばあちゃんが死ぬのが分かって傘神様は助けてくれないんだよ!」と叫んだ。神様なら助けてくれたっていいじゃないか、なんでおばあちゃんは取り乱さないんだ、とか、僕は半狂乱になって訴えた。


 だけどおばあちゃんは「遅かれ早かれ人はいつか死ぬのよ」と目元にしわを浮かべて寂しそうに笑うだけだった。逃げようと言って腕を強く引っ張っても、困ったように微笑むおばあちゃんは「死から誰も逃げられないのよ」と和室から一歩も外に出ようとしなかった。諦めに似た表情が皮膚の上を刻んでいるのを見て、僕は悲しくて大泣きした。


 夜を迎えると外から叩きつけるような大雨の音が聞こえてきた。僕の家族や近所の人たちが正座をしたまま、顔を俯かせて涙を堪えていた。


 一際、強い風が吹く音が鳴る。


 和室の格子扉が外側から叩きつけられるように揺れた瞬間、左右に扉が開き、酷い雨風が部屋に入ってきた。冷たい風。全身を打ち付ける雨。強風に運ばれた雨粒が顔に当たるせいで視界が悪い。


 それでも見えた。


 赤い和傘を右手に持ち、男の影のようにくっきりとした黒く透けている存在が、ぞぞぞと縁側に立っている。これが傘神様だと分かった。傘神様は傘を持ったまま、音をたてずに室内に入り込んだ。影が近づく。僕がおばあちゃんの名前を叫んで腕を引っ張ると同時に、傘神様の黒い手がおばあちゃんの肩に触れた。


 おばあちゃんは一瞬のうちに透明な水の姿に変わり、まるでヨーヨーが破裂したように水しぶきをあげて音もなく身体が弾けた。あっという間の出来事だったが、僕の目にはそれがスローモーションで映った。


 蛍光灯で照らされた空中に散る力強い水の動き。水中から水面を見た時のような光の揺らめき。水を通して映る木目の天井。瞬きをした時には雨風はぴたりと静まり、傘神様もおばあちゃんの姿も消えていた。


 その傘神様が、今度は僕の所へやって来るのだ。

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