第3話 居場所
冬美が目を覚ますと、既に時刻は二十二時を回っていた。ソファから起き上がり、テーブルの上に何も用意されていない事を確認すると、麗香の自室に向かった。部屋に入ろうとしたが鍵が掛かっており、ノックをしても反応が無い。次に玄関へ行き、靴箱を確認すると、麗香の仕事用の靴だけが無かったので、まだ仕事から帰ってきていないようだ。
冬美はキッチンへと行き、コンロに火を点けた。ポケットに隠していたタバコの箱を開けると、最後の一本だった。
「……チッ」
コンロの火を消し、潰したタバコをゴミ箱に投げ捨てた。吸いたくなくなったわけではなく、惨めになったからだ。今は家主が不在で、出ていこうとすればいつでも出ていける。今日だけでなく、出ていくチャンスは数え切れない程あった。
それでも冬美が家を出ていかなかったのは、この場所が心地良かったからだ。労働をせずとも、温かい食事や熱い風呂、更には自分を見てくれる存在がここには揃っている。最後に痛みを感じたのが、遠い昔のようであった。
情けない。それが、冬美が今の自分に対する評価。何の苦労もせず、ただ与えられるだけの存在に成り下がった事に、悲しくもなった。痛みと苦しみに耐えて生きてきた冬美は、報いを知らずにいた。それ故に、この幸福に満ちた生活を受け入れられない。
それから数十分後の二十三時。仕事を終えた麗香は、帰りが遅くなったお詫びの品を手に持って、帰宅した。
「ただいま! ごめんね、ちょっと仕事場でトラブルが―――」
扉を開けた先で見たものは、玄関の壁に寄りかかって座る冬美の姿であった。麗香は冬美に駆け寄り、冬美の頬に両手を当てて自分に顔を向けさせた。お互いの顔が向かい合うが、冬美の瞳は麗香の瞳を見ようとしない。
「……怒ってるの?」
「……別に」
「じゃあ、なんで目を合わせてくれないの?」
「どうでもいいじゃん」
麗香は冬美とおでこを合わせ、否が応でも目を合わせた。
「冬美が今思っている事を私に話して」
まるで宇宙のような綺麗で静かな麗香の瞳に見つめられ、冬美の口が開いていき、詰めていた言葉が漏れていく。
「……安全な場所で温まっているだけの自分が、受け入れられないんだ……このままで、いいのかな?」
「いいんだよ。もう、いいんだよ。冬美は、ずっとここに居ていいの」
麗香は冬美の肩を掴み、自分の方へと抱き寄せた。その温かさに、冬美も包まれにいった。乾いた心に白湯が注がれ、心臓部を中心に全身へと流れ込んでいく。
心の底から安心しきっていた冬美は、ある日の出来事を思い出した。それは、冬美が麗香に拾われる前の出来事。
「……野良猫がいた。毛もボサボサで、片耳が千切れてた野良猫が。同族の群れにも馴染めず、ベンチの影にひっそりと隠れて、いつも独りだった。ある日、野良猫は拾われて、飼い猫になった……数日後、野良猫は死んでいた。いつも隠れていたベンチの影で、冷たくなっていた……どうしてか、他人事だと思えなくて、桜の木の下に埋めた。桜が咲いた時だけでも、誰かに愛されてほしかったから」
野良猫の亡骸が脳裏に浮かぶ。まるで、次はお前の番だと訴えかけるような目で。いずれ訪れる終わりに、冬美は恐怖を抱いた。
そんな冬美の恐怖を払拭するかのように、麗香は冬美の耳元で愛を囁く。
「やっぱり、君は優しいんだね……でも、他人の不幸を自分の事のように思うのはやめなさい。あなたはあなたで、あなたの想いがある。共感出来るのは良い事だけれど、自分の想いを自分で汚すのは駄目。自分の幸せを考えて、そして求めて。いくらでも私があなたに幸せを贈るから」
「……うん」
冬美の妄想は消え、穏やかさを取り戻した。
「……落ち着いた?」
「……うん」
「よし。じゃあ、ご飯にしよっか! と言っても、時間が時間で、開いてるスーパーが無くてね。今日はコンビニのお弁当。でもその代わり、美味しいデザートを買ったから、食後に食べましょ!」
冬美の手を引き、麗香はキッチンへと歩いていった。袋をテーブルの上に置き、買ってきた弁当をレンジで温めようとした時、ふとゴミ箱の中に目が入った。ゴミ箱の中には見慣れない赤と白の箱が捨てられており、それがタバコの箱だと気付くと、纏う雰囲気が一変する。
「冬美君。これ、何かな?」
「あ」
麗香はレンジのボタンを押すと、素早い動きで冬美の懐に入った。冬美は後ろへ下がろうとするが、それよりも速く麗香は行動し、冬美を肩に担いだ。
「お弁当が温まるまでの一分間。お仕置きね」
「ちょ、ちょっと待って! タバコは前から吸ってて、結局今日吸わなかったし!」
「問答無用! とりゃぁぁぁ!!!」
迫真の声とは裏腹に、優しくソファに冬美を放り投げると、そこへ麗香もダイブした。上に乗られて抵抗出来ない状態で、冬美は麗香に頬ずりや激しいキスをされてしまう。蕩けた麗香の声と、冬美の断末魔が家中に響き渡った。
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