脳インプラントのメンテナンス日
冷たい床に響く靴音で、私は目を覚ました。研究機器の微かな電子音が、静寂の隙間を縫っていた。
「また床で眠っていたのかね」
声の降るほうへ顔を向ける。寝ぼけ眼に、先生の姿が映った。片手でつまんだ紙袋をデスクの上に放り投げていた。
「ラボの床、気持ちいいんですよ。それに、研究の進捗が気になってしまって…… 」
「朝食だ。食べたまえ」
先生は、自分で
デスクの上の紙袋から2人分の食事を取り出して、広げた。
野菜のたっぷり入ったフムス・サンドウィッチに、カボチャのスープ。コーヒーも、まだ淹れたてだった。
先生は、ヴィーガンだ。動物性の食事を一切摂取しない。彼に絶対服従を誓う私もまた、その生活スタイルに習っている。今のところ、これといって苦はない。
「豆乳を忘れたな。取ってきてくれるか」
先生はフムス・サンドウィッチを頬張りながら、私に命じた。
私は席につく間もなく、ラボを出て居住スペースへ向かう。
先生は自宅の一角に研究所を構えている。ドア一枚へだてると、そこは先生の家庭なのだ。
本当は私もそちらで寝起きをするよう言いつけられているのだが、つい研究に熱が入り、ラボの床で気絶する日々を送ってしまっている。
キッチンに入ると、先客がいた。女性だ。振り返って、私の顔を見てはっとする。
先生のひとり娘だった。私はどうやら、この子に嫌われているらしい。ほぼ同居に近い生活を数年に渡って送っているにもかかわらず、まだ一言も会話を交わしたことがない。
「おはよう」
もはや義務的な感覚で挨拶を送る。彼女は何も言わず、ハムとチーズをひっつかんでキッチンを去っていった。
彼女は、ヴィーガンではない。
冷蔵庫から豆乳を取り出してラボに戻ると、先生はすでに端末に向かい、仕事を始めていた。
デスクの上には、食べかけのサンドウィッチが四散している。
「先生、豆乳を取ってきましたよ」
「今日は君の誕生日だったね、忘れていたよ」
先生はまた、私の言葉を無視する。
ちらり、とデスクに置いた豆乳を一瞥し、自分の話を続けた。
「つまり、年に一度のメンテナンスの日だ。座りたまえ」
まだ朝食に口をつけておらず、腹が減っていたが、先生への絶対服従には勝てない。言われるがまま、端末のそばに座る。
私は先生の助手であり、弟子であり、被験者なのだ。そして先生は私にとって師であるとともに、恩人だ。先生の研究のおかげで、私は生きながらえていると言っても過言ではない。
「この装置を頭に着けなさい。これで、インプラントの電極にアクセスする」
そういって先生は、ヘルメット状の装置を私の頭に固定した。
インプラントとは、私の脳に突き刺さっているAI搭載型マイクロチップのことだ。
私は生まれつき、脳に障害を抱えている。他人より知能が劣っている。記憶が途切れ途切れになる。言葉がうまく口にできない。
それらのコンプレックスを解決してくれたのが、この脳インプラントだった。未発達な大脳皮質の働きをAIがサポートし、知識を補い、思考を活性化してくれている。私の劣等感を克服し、あまつさえ一介の研究者として生活できているのはインプラントと、その開発者である先生のおかげに他ならない。
「幼少期の記憶は戻ったのか」
ディスプレイから目を離さず、先生が訊いた。
私は黙って、首を横に振った。チップ埋め込みの手術を受けるより以前の記憶は、戻る気配がなかった。父の顔も、母の声も思い出せない。
先生は「そうか」とだけ呟き、また黙々とメンテナンスを続ける。
「お前も、もういい歳だな」
知的な沈黙時間がしばし流れたのち、先生が端末を触る手を止めて言った。
コーヒーを一口すすり、もったいぶった溜息を吐く。
「どうだ、そろそろ身を落ち着けてみては。いつまでも戻らない記憶を追いかけても仕方ないだろう。チップの効果で、生活には苦労しなくなったんだ。ここらでいったん、家庭を持ってみろ」
そう言って、ポケットから一本の鍵を取り出した。
「娘の部屋のやつだ」
私のほうへ、突き出す。
「行って、抱いてやれ」
私は、さすがに躊躇した。今日に至るまで、先生の娘とはまともに会話を交わした覚えすらない。それどころか、すれ違うたびに醜悪なものを見る目を向けられている。先生の言葉に、胸の奥で何かが軋むような感覚を覚えた。
命令とはいえ、自分を嫌っている相手を妻に迎えるのは、さすがに気が引けた。倫理的にも、感情的にも、この状況は受け入れがたい。しかし、先生への絶対的な忠誠心が、その葛藤を押しつぶそうとしている。
「あれは死んだ嫁に似て、素直じゃない。本心と態度が真逆になるんだ。君のことも、本心ではきっと、慕っているはずだ」
嘘だ、と思った。心の奥底で、この状況の異常さを叫ぶ声が聞こえた。
いくら私が愚鈍とはいえ、自分に向けられる不快な感情に気づけぬほどではない。娘の目に宿る嫌悪感は、紛れもない事実だった。
しかし、突きつけられた鍵の向こう側、無言で睨む鋭い目つきが、拒むことを許さない。先生の命令と、自分の良心との間で引き裂かれそうになる。
先生には、絶対服従だ。その染み込んだ固定概念が、私の倫理を超越した。その瞬間にも、自分の行動の正当性に疑問を感じずにはいられなかった。
鍵を受け取り、ラボを出る。心臓が早鐘を打ち、冷や汗が背中を伝う。
重い足を引きずって、娘のドアの前に立った。扉の向こうで待ち受ける状況に、恐怖と罪悪感が込み上げてきた。
すまない。心の中で幾度も繰り返す。
ひどい罪悪感に苛まれながら鍵を開け、勢い任せに部屋へ飛び込んだ。自分の行動に嫌悪を覚えながらも、先生への忠誠心が体を動かしていく。
娘はベッドに腰掛け、窓の外を眺めていた。その姿を見て、一瞬
こちらを振り返るより早く、一足飛びに駆け寄り、押し倒す。自分の行動に戸惑いながらも、体が勝手に動いていく感覚。
娘の顔が恐怖に怯える。つんざくように、悲鳴。その表情を見て、自分の行為の重大さを痛感する。
平手が、私の鼻を叩いた。もう一撃、振りかぶっている。その手を、抑えつける。暴力的な行為に及んでいる、自分。激しい自己嫌悪。
どう考えても、彼女は本心から私を拒んでいる。娘の恐怖と嫌悪の表情が、如実に物語っていた。娘への理解が間違っているのは、先生のほうに違いない。その認識が、さらに深い罪悪感となって私を襲う。
自分が過ちだらけの行為に及んでいることを悟り、戸惑う。先生への忠誠と、自分の良心との間で引き裂かれそうになる。
その隙をついて、娘はもう一方の手で何かをつかみ、私の前に突き出した。
凶器か、と思わず払いのける。
リノリウムの床に叩きつけられ、それは割れた。
手鏡だった。
「見てみなさいよ、自分の顔を!」
娘は激しく、わめいた。
言われるまでもなかった。目で追った拍子に、割れた鏡の断片に映りこむ自分の姿を、私の視界は捉えていた。
「あんた、あの男のおかげで、まともになれたとか思ってそうだけど。全然ちがうんだからね。インプラントなんか無いほうが、あんたはまともなのよ!」
「床で眠るのも、あいつの菜食主義に付き合えるのも、あんたの性格じゃなくて習性よ。インプラントのおかげで脳障害が治ったんじゃない。インプラントのせいで、あんた、不自然に知能が高くなってしまっているだけなのよ」
私は現実を受け入れられず、のどの奥で呻いた。
その声は、私の耳に「もお」と響いて聞こえた。
「あんた、牛なのよ! 子どもの頃の記憶なんて、戻らなくて当然なの。牧場で、草食べてただけなんだから。あんたは、あのマッドサイエンティストに改造されて、人間の記憶を植え付けられた畜産牛なのよ!!」
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