あのおでんが食べたくて

わちお

心に沁みる、そんな味

月曜日の朝、一週間で最も気怠いはずの朝にいつもより早く目を覚ましたのは台所から聞こえてくる鍋のぐつぐつ、という心地よい音と白だしの暖かく食欲をそそる匂いが漂ってきたからだ。


「ひょっとして、今日の夜は...?」

わくわくしながら、料理の仕込みをする母にそう尋ねると、期待通りの答えが返ってきた。

「そう、おでんよ」


この瞬間、どこか鬱蒼とした朝が、幸せに包まれた温かい空間に様変わりした。

出汁に浸かってその身をほぐしているおでんの具に思いを巡らせる。


噛み締める度にたんまり溜め込んだ出汁を溢れ出させる柔らかい大根や、とろとろともちもち、ふたつの食感を併せ持つあつあつのちくわぶ、そして冬の布団のようにふわふわで、ぎゅっと噛むと歯が深くまで沈んでしまうはんぺんなどは、想像するだけでもよだれが溢れてしまうような心地になった。


「行ってきます!」


「いってらっしゃい、気をつけてね」


がちゃ


ドアを開けて、ひんやりと冷たい外の世界へ踏み出す。いつもよりも軽い足取りで始まった一日には、ささやかながらも不思議で、温かい魔法がかけられていた。


* * *


温井ぬくい君、悪いんだけどさ、うちの部で請け負ってる資料がまだ完成してなくてさ、ちょっと残って手伝ってくれない?」


いつもなら断れない部長からの頼みも、今日は魔法の力で断ることができる。


「すいません、今日はおでんなので」


「いやいや、そこをなんとか頼むよ...」


わかっていない部長に、声を大きくして伝え直す。


「すいません!今日はおでんなので!!定時で失礼いたします!!!」


部長を声量で圧倒し、堂々の退社がいせんを果たす。今日を締めくくるフィナーレを他のことに邪魔されるわけにはいかない。


空はすっかり暗くなっていて、街中に輝くネオンの光と、ちらちら降り出した雪が冷たい世界を鮮やかに彩っていた。


早く家に帰らなければ...

その一心でひたすらに走った。呼吸が荒くなり、幾多の白い息が、星空に登っていく。

足が寒さと疲れで震えはじめる。けれど止まってはいけない、そう本能が告げるのがわかった。


止まったら、挫けてしまうから。

前に進めなくなってしまうから。

だから足は止めない。進まないと行けないから。


次第に辺りからは光が消えて、街の喧騒も全く聞こえなくなって、自分の荒い呼吸しか聞こえない真っ暗な世界に白い雪だけが、しんしんと降り続けていた。


そのままに足を動かして、近づいてきた家めがけて最後の力を振り絞る。

頑張れ、おでんはすぐそこだ。自分を鼓舞して、ついに家のドアノブを掴み、ドアを開けた。


がちゃ


一切の灯もついていない、少しの物音もしない小さな家、いつも出迎えてくれるのは、この光景だった。

大きく息をついて、ゆっくりと夕飯の準備に取り掛かった。


ガスコンロと鍋をテーブルに持ってきて、おでんの入った鍋を温める。


食器棚から、1人分のお椀と箸を出して、リビングの電気をつける。

鍋の中から、ぐつぐつという音が鳴り始めるのを合図に鍋に直接箸をつっこんだ。


『こら、自分の箸で取るんじゃない。こっちの長いのを使いなさい』


昔はそうして、よく怒られたのをまだ覚えている。味の染みきっていない大根を頬張ると、不意に、昔の光景が脳裏によぎった。


テーブルには熱い鍋と、2つのお椀、そして笑い声が転がっていた。

あの時のおでんは、味の染みた温かい具のひとつひとつが美味しくて、心を芯まで癒してくれた。

このおでんは、あの頃食べたおでんには、遠く及ばない。


ふと、リビングの母の写真が目に映った。

その写真の母はこちらに向けて微笑みかけているようだった。


明日は、母の命日だった。


頑張って作ったつもりだった。あの頃の味を思い出そうとしただけだった。

そして気づいた。あの『味』は、もう再現することは出来ないのだと。


「また...一緒に食べたいなぁ...」


こぼれ出た声はひどく、弱々しく震えていて、それ以上の言葉が出ることもなかった。


おでんは少しだけ残しておくことにした。

明日行くことにした墓参りに持っていくためだった。このおでんを持っていって、伝えるためだった。


こんなおでんを作れるようになったんだと、まだまだ味は及ばないけど、たまごだって、はんぺんだって、こんなに味が染みているから、と。


辛い時は何度もあった。けれど、決して挫けず前に進んだ。


止まったら、挫けてしまうから。

前に進めなくなってしまうから


強く箸を握り直しておでんを頬張った。

その夜のおでんは、塩辛い涙と、暖かい記憶によって、とても心に沁みるものとなった。


外の雪はかわらず無音で降り続けていた。


寂しい晩餐を優しく見守るように。



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あのおでんが食べたくて わちお @wachio0904

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