第23話


 清霞の母親たる翡翠の名を与えられた母と、皇帝は紛うことなく、政略結婚だった。

 皇帝の母たる皇太后の外戚関係にあり、皇太后が自身の権力を細部まで行き渡らせるべく入宮させた姫。皇太后の口利きで、皇后のための翠峰宮に初めから住まうという破格の待遇で、翡翠は後宮に入った。皇帝よりも年上だったものの、箱入り娘だった翡翠は年下の破天荒な皇帝をすぐに愛するようになった。

 しかし、皇帝の方は違った。

 皇帝は母親たる皇太后の言いなりになることに辟易していた。当然母親に用意された女のことも好きにはなれなかった。とはいえ、大したカリスマも持っていないただの遊び性分が抜けなかった皇帝は言われるがままに、惰性で翡翠との間に子を作った。

 愛の欠片のひとつもない場所で、清霞は生まれた。

 清霞が生まれたその時から、世界は汚れていた。

 清霞が不幸だったのは、調色師としての目が破格の才能を持っていたことだった。

 世界の色が清霞には「見えすぎた」。

 清霞の調色師としての瞳は人の感情や機嫌。あらゆる物事に色を見出した。形のないものにも色の名前を付けた。

 そんな瞳を通して見えた城の中の世界は、嘔吐を催すほどに、どす黒く、汚かった。多くの思惑が絡み、負の感情が集まって飽和し、肉欲が日夜混ざりあう。人の皮の下から、汚泥がどろりと溢れるように幾重にも色が虹色に流れ、混ざり合い、穢れていく。どんな色も混ざり合えば、最後は黒になるように。

 中でも自身を生み出した母親と父親は他とは比べ物にならないほどに穢れていた。

 ――ああ、この腐りかけの色から産み落とされた自分が綺麗な世界なんて望めるはずがない。

 いつも目を覆っていたかった。

 清霞には、「綺麗」だなんて言葉の意味がわからなかった。

 ある日、城の古い書庫で見つけた本に、別世界に行く方法が書かれていた。

 清霞にはそれが魅力的だった。こんな世界と縁を切れるのならば切ってしまいたいと、本当に思っていた。ダメで元々、死をも厭わないダイブの先で、清霞は藍の瞳に出会った。

「――綺麗」

 心の底から綺麗という言葉が湧いたのは、その時が初めてだった。

 空と海を内包する、美しい青色。どこまでも沈んでいけるように深く、どこまでも飲み込んでいけるほどに透き通っていて、それまでの穢れがすべて洗い流されていく。

 清霞は「綺麗」の意味を知った。

 綺麗というのは、藍のことだ。

 藍が、綺麗な世界だ。

 会えた時間はわずかだったけれども、清霞は生きていこうと思えた。たとえ別世界だとしても、あの遠い場所で星のように藍がただ一人輝いている。それだけで幸せを感じた。

 その願いが通じてしまったのか否か、藍は何の因果からか、この世界に来てしまった。

 青い瞳の青年の話を小耳にはさんだ時は有頂天になった。

 皇子の立場なんて捨てて、藍とともに生きようとさえ思った。

 だけれども。

 すでに手の施しようがないほどに、清霞の見る世界は汚れていた。

 再会して絶句した。

 藍の青い瞳の輝きが、この世界の汚さに飲み込まれていこうとしていた。あまりにも清霞の見ている世界が汚いから。それにかき消されるように。嵐の中を漂うように、藍の青い瞳は清霞からずっと遠く、幽かだった。

 ――ああ。僕の綺麗な世界が汚されようとしている。消えようとしている。ダメだ。だめだ。決して消させるものか。今まで誰も僕にくれなかった生きる意味。誰もくれなかった希望。やっと手につかんだそれを邪魔させるものか。

 すぐに腹は決まった。

 品評会というくだらない祭りの後がいい。最も油断し、最も権力に酔っている瞬間に汚い世界を壊してしまおうと。それであの輝きを守れるのならば、造作もない。

 だって、藍の美しい青に比べたら――

「お前の色は世界に要らない」

 清霞は彩宝殿を包む炎を受けて、ギラギラと紅く光る剣の切っ先を皇帝――自分を一度も愛したことのない父親に向けた。

「ひっ……ま、待て。お前、言うことを聞け! そうだ。金か? 女か? どんな色が欲しい? ん? 欲しい色があるのなら、調色師なんて何百人も動員できる。皇帝になってそうすればいいではないか。だってもうお前が皇帝になることは決まっているだろう!!」

 ――みっともない。ああ、汚い。

「……お前の中の血が赤いのが信じられない。お前の人間性は小汚いドブネズミにも劣るというのに」

 清霞はちらりと心臓から血を噴き出して転がっている死体に視線を移した。皇后――自分を一度も愛さなかった母親だ。その母親の身体も蓋を開けてみれば、存外、紅い血と肉をしていた。もっとヘドロのような色をしていると本気で思っていたのに。感心すらしてしまう。

「さて、そろそろ」

「清霞!」

 その声に目を見開いて、清霞は入り口を見た。

「清霞……」

「――藍」

 なぜ、ここに。どうせ燈夏の側にいて来ないと思っていたのに。

 燃え盛る炎の中、どこからどう入り込んできたのか、藍の身体はボロボロだった。頬は煤けて、腕はどこかで切り傷ができたようで、血が滴っていた。

 ――宗柊が吐いたのか。

 藍はフラフラと清霞へ近づき、その荒んだ目元に触れる。いつもは翡翠のように穏やかな色が、今は炎のせいで赤黒く染まっていた。藍は顔を歪めて、掠れ声で絞り出した。

「……目の前のことにばっか気を取られてて、清霞の苦しみに気づけなかった。清霞が俺と出会ってくれていたことにも気づけなかった……ごめん」

 清霞は首を振った。

「気がつかれないようにしてたんだから正解だよ」

「でも、ずっと、会いたかったのに……」

 藍の青い瞳から溢れた一筋の涙が、頬を伝って零れ落ちた。

「会ったら、言いたいことがたくさんあったのに……もっと、何か、したかった、のに」

 清霞は切なげに笑って、片手で藍を抱き寄せた。藍は肩口に顔を埋めた。

 皇帝が喚いた。

「おお前、こいつを殺せ! さすれば貴様を次の皇帝に――」

「――黙れ」

 清霞は躊躇いなく剣を横凪ぎに払った。一瞬の間をおいて、切り傷が皇帝の首元に浮かび上がった次の瞬間、血が噴き出した。皇帝の身体がぐらりと傾き、その場に伏す。

「藍」

 清霞に名を呼ばれて、藍は顔をあげた。もうそこに、あの優しく爽やかな好青年の廉清霞はいなかった。頬に飛んだ返り血がついた側から乾いて、清霞の肌にこびりついていく。

「来てもらって、悪いけど。もう戻りな。そろそろ彩宝殿ももたない」

「一緒に戻ろう。清霞」

「それは……それは、できない」

「……なんで? 俺。お前と会って良かったって思いたいよ。なぁ。俺のことを綺麗だって言ってくれただろ。本当に嬉しかったんだよ。俺に綺麗って言葉をくれたんだよ。お前は。最初に。だから俺はここまで生きてこれたんだよ。清霞」

 清霞は泣きそうになりながらも、優しい笑みを浮かべた。

「僕もだよ。藍が綺麗って言葉をくれたんだから」

「……帰ろう。清霞」

 清霞の瞳から涙がこぼれた。清霞は唇を噛み締めると、藍の腕を引いて、運搬用の地下通路へと引き摺って行く。扉を開けると、そこへ藍を放り込んだ。

「清霞! 清霞! なんでだよ! 清霞!」

 清霞は最後に、遠い記憶を掘り起こして、藍に微笑んだ。きっとあの思い出と同じ綺麗な笑顔を向けられていたらいいと願いながら。藍は絶えず清霞のことを呼び続ける。しかし、清霞はゆっくりと鉄扉を閉めて、鍵をかけた。

「……本当に汚れてるのは、僕自身なんだ。どんな綺麗な色も映せない。受け入れられない。僕自身の目が、憎かった」

 清霞は剣を横なぎ向け、その刃を自身の瞼に充てた。そのまま一文字に剣を引く。痛みに呻きながら、清霞は剣を投げ捨て、その場に背中から倒れた。清霞の瞼から赤い血が流れ、それは徐々に清霞の視界を奪い、紅く染め上げた。血が溜まり涙の代わりに血が頬を流れていく。

「良かった……もう、お前の青色を汚さなくて、すむ」

 だんだん視界が霞んでくる。煙を吸いすぎたのだ。じきに彩宝殿は崩れ、清霞もろ共すべて焼け落ちるだろう。すでに視界の端から、清霞は闇に落ちていく。けれども怖くない。藍の双眸は、瞼の裏に焼き付いている。

 それは夜空に輝く星のように、暗闇を歩く清霞を照らす。

「……ああ。綺麗だね。藍」


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