第22話

 燈夏はすぐに運ばれ、刑部の置かれた草庵坊での一室で治療を受けていた。藍が廊下で息をついていると、刑吏の朱嘉が回廊の向こうから駆けてくるのが見えた。

「朱嘉。宗柊の取り調べの方はどうだ?」

「完全黙秘だ。藍にしか話さんと言っている。燈夏の容態は?」

「なんとか処置は終わった。あとは安静にしてる必要があれば、命に別状はないって」

 朱嘉は一瞬、ほっとしたがすぐに表情を引き締めた。

「そうか。なら、来るか?」

「……うん」

 刑吏たちに連行された宗柊は、取り調べを受けているものの、いまだ一言も喋らないという。このまま藍を連れていかなかれば、舌を嚙み切って自決してしまいそうだった。朱嘉は断ってもいいと言ってくれたが、藍は朱嘉の立ち合いの元、宗柊の話を聞くことにした。

 燈夏が寝かされている部屋からは少し離れた部屋へ向かう。扉の前には何人もの刑吏が立っていた。朱嘉に案内されて中へと入る。

 簡素な部屋に几と椅子が二脚あるだけだ。そのひとつに宗柊が括り付けられていた。その姿を目にして、藍はひゅ、と息を呑んだ。宗柊は恐ろしい形相をしていた。地獄を這いずる餓鬼のように目玉をぎょろりと巡らし、藍の姿を捕えると、へ、へと汚く笑った。あの寡黙な清霞に従っていた宦官だとは思えない。

 朱嘉が声を張り上げた。

「お望みどおり連れてきてやったぞ。さぁ、言え」

 宗柊はゆっくりと口を開いた。

「殿下は長い病に侵されていた。目の病だ。それは調色の力が上手く働かず、いくつもの色が混じりあい、世界のすべてが砂嵐のように汚く見える病。殿下は常にそれと戦っていた」

 藍はそこで一度、止めた。

「待って。一度も清霞からそんな話を聞いたことはないぞ」

「はっ……言うわけないだろう。貴様なんぞに」

 宗柊は鼻で笑い飛ばす。そのまま言葉を続けた。

「殿下は側近の私にだけ、打ち明けてくださった。その日からなんとか……っ、なんとか殿下の病を治せないものかと、私は調色師を時折殺して、その目を奪い、研究をし続けていた」

 朱嘉は厳しい顔で尋問を続けた。

「だが、ここ最近は件数が増えていた。それも品評会に向けて。なぜだ」

「――貴様が来たからだ」

 抑揚のない声で機械仕掛けの人形のように、藍を非難した。

「……俺?」

「私たちは、長い時間をかけて徐々に病を治していこうとしていた。だが、お前がこの世界にきてしまった。お前が殿下の前に現れたせいで、殿下は品評会までに期限を早めてしまったのだ」

「――え」

 どくん、と嫌な予感がした。

「殿下は長年病に苦しまれる中で、それでも遠くの世界に存在している貴様だけが希望だった。星のような青い輝きを持つ少年だけは、こんな世界でも何にも染まらず、汚されずに輝いてくれるのだと、いつも仰っていた」

 慌てて藍は言った。

「待って。ちょっと待てよ! そんなの、まるで俺と清霞が会ったことがあるみたい――」

 藍の脳裏に、あの日の少年の思い出が蘇った。遠い昔、空き地でひとりぼっちだった藍に声をかけてくれた美しい少年。もう名前も顔も声も思い出せない少年。廉清霞だ。清霞が藍に出会い、それを燈夏に聞かせたのだ。

 藍の瞳が揺らいだ。心臓の鼓動が速まる。唐突に理解した真実に頭が追い付かなくなる。

「貴様と再会した殿下は絶望した。結局、殿下の希望の星だったお前も、この汚れた世界にかき消されそうになっていたからだ。だから殿下は、自分の青い星を守るために、品評会までに治療方法が見つからなければ、すべての元凶を排除するとご決断された」

「な――どういうことだ!」

 朱嘉が混乱したように、叫んだ。

「私は止めたかった。治療法が見つかれば、いや、白瀬藍さえ始末すれば元の平穏が戻ると思って……」

 ぶつぶつと呟く宗柊を、朱嘉が胸倉を掴んで揺すった時、部屋の扉が勢いよく開いて、刑吏が泣きそうな様子で飛び込んできた。

「大変だ! 彩宝殿が火事になってるぞ!」

「なんだと! おい! 宗柊! 貴様! 殿下は何をした! 元凶とはなんだ!」

 まさか、と藍は呟いた。宗柊は壊れたように小さく笑った。

「は、は、は、元凶は皇帝と、皇后。殿下を生み出してしまった、最初の二人。殿下の目を濁らせた、最初の二人」

 今度は糸が切れた人形のようにケタケタと耳まで口角を上げるように、不気味に笑った。

「ひ、ひ、ひ、貴様が殿下を出会わなければよかったのに。遠くの星であれば良かったのに。貴様が殿下に再会したから、殿下は壊れたんだ!」

 最後は笑っているのか、泣き叫んでいるのかわからない奇声をあげ、そのまま泡をふいて事切れてしまった。最初から、毒を飲んでいたのだ。

 ――清霞。

 頭が真っ白だった。ただ、あの時の少年が清霞だとわかった時、からきしだった泉が湧いて溢れるように、掠れてばかりだった思い出の景色が、色鮮やかに藍の中に起こされた。

 ああ。覚えている。

 夏のうざったい匂いも。清霞の冬景色のような衣も。その声も。言葉も。今ならば、はっきりとわかる。

 ――行かなければ。

 弾かれたように藍は部屋を飛び出した。

 後ろで朱嘉が叫んだ。

「藍! 行くんじゃない! お前がそこまで命を賭ける必要があるのか? 命を賭けるほど過ごした時間があるのか? お前が死んだら、燈夏はどうする!」

 それには答えず、藍は回廊を走った。燈夏の部屋の前を通ろうとした時、杖をついてこちらへ向かおうとする燈夏にぎょっとした藍は思わず立ち止まった。だが、燈夏は藍を見ただけで静かに口にした。

「……行くのか?」

「うん」

「もしも。もしも俺が行くなって言ったら、藍はどうする」

 目を伏せた燈夏の懐に藍はえいや、と飛び込んだ。そのまま頬を両手で包みこんで、小さく口づけた。呆気にとられる燈夏に藍は目を細めて、いたずらっぽく笑う

「絶対戻ってくる。だから、いい子で待ってろ」

 草庵坊を飛び出すと、彩宝殿の辺りで、確かに太い柱のような煙が幾本も空に向かってたなびき、ぼわぼわと赤い光がドーム状に放たれている。いよいよ動悸が、内臓がまろびでそうなほどに激しくなる。

 確かに清霞と過ごした時間は藍にとって短い。他人から見れば、命を賭けるほどはないのかもしれない。だけれども。

 ――清霞は、初めて、俺の青色を綺麗だと言ってくれたんだ。ただそれだけ。それだけだよ。

 その一瞬が、藍にとってどれほどの奇跡でどれほど美しい一瞬だったかは、きっと世界で藍だけしか知らない。


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