第6話


 熱が引いた藍は燈夏の部屋から、弟子たちと同じ離れに引っ越した。ちょうど離れのうちの一室が空き室で、そこに居候することになったのだ。

 手間取りながらも身支度を整え、朝餉を食べ終えてから外へ出た。すぐ目の前にある中庭には小さな池があって、二分するように朱色の橋がかかっている。離れの外壁にもたれて、池の蓮の葉をぼんやりと眺めていた。

 ここ数日で藍の何もかもが変わってしまった。

いつもならば、この時間はカフェに出勤して、モーニングのバイトをしていたはずだ。そのせいか、まるでずる休みしているみたいに非日常感が抜けず、そわそわと落ち着かない。

 しばらく待っていると、離れから菊花が出てきた。

「おはようございます! 藍さん。体調はいかがですか?」

 菊花はひっつけられたおさげ髪が真面目そうな、きりっとした顔立ちの小柄な少女だ。女にしては珍しく褶に袴を着ている。とにかく作業をするときは汚れてもいい服にしておくらしい。

「元気元気。もう元気百倍! 看病してくれてありがとう。菊花」

「よかった。藍さんがうちに来た時本当にびっくりしましたよ。あの師匠が人を抱えて帰ってくるんですもん。槍が降るんじゃないかって皆で話してました」

閉じて藍の顔を見つめた。

「……何?」

「藍さんって、顔に不思議な装飾をしてますよね。……綺麗な夕日の色……。その色使ってみたい……」

 見惚れるようにサングラスを熱っぽい視線で見つめられる。藍は慌てて、後ずさった。

「こ、これは駄目だから! 俺のめちゃくちゃ大事なもんなの!」

 サングラスのレンズの色が無くなるだなんてとんでもない。レンズに色がついているからこそ、青い瞳を覆うために、かけているのに透明になっては意味がない。

 菊花は頬を膨らませた。

「えぇ。もったいない。その色いらなくなったらすぐ言ってくださいね!」

「……はいはい」

「じゃあ、こっちです! 掃除用具の場所を案内しますね!」


 掃除用具は屋敷の一番隅にしまわれていた。これまでは弟子たちが持ち回りで掃除をしていた。それを藍に任せることになったのだ。屋敷内の案内も兼ねて、菊花は一つ一つの掃除場所を藍に説明した。

棟から棟へ向かうとき、必ず中庭を通る。

 朱色のアーチ状の端を渡っているとき、ふと、先ほどの話を思い出して藍は尋ねた。


「あいつ……燈夏は、俺を当然のように拾ったんだ。何か言うまでもなく。あいつはいつもあんな感じなのか?」

「ん-、納得はできちゃうかもしれません。私も他の弟子も、調色師になろうと思ってここの弟子になったわけじゃなくて、悪徳の工房に売られそうになっていたところを、師匠に拾ってもらったんです」

「工房?」

「調色師の営利目的の組織です。調色師と言ってもその腕前は千差万別ですから。師匠みたいに高級品を扱う調色師もいれば、工房を立ち上げ、安価な大量生産品の調色を行う調色師たちもいます。調色師への待遇が酷い工房もかなりあって……当時、貧しい暮らしをしていた私の家族は、お金と口減らしのために、そういう悪徳な工房に私を売り飛ばそうとしていたんです」

 貧しい調色師を安い賃金で雇い入れ、雇い主が私服を肥やす工房。その辺りの醜悪さは調色師の世界と言えど、他と変わらない。

 調色の力を持つだけの人間ならば、胡黄国ではそう珍しいことではないのだ。藍からしてみれば魔法のような魅力的な力だが、この世界では調色師になるだけなら簡単だし、調色ができても調色師にならない人間も多い。

 燈夏のように調色師として独り立ちして立派に稼げる人間は一握りだ。

 イラストレーターや芸術家のようなものだ。藍にはまったくそういう専門の職の世界のことはわからないが、どこも大変だと月並みの感想を漏らした。


 少しして、蔵のような風貌の棟に着いた。重々しい両開きの扉には金属製の錠前が付けられていて、菊花は懐から持ち出した鍵で開けた。

「ここは色液の倉庫みたいなもので。今まで作られた色液で、現在使用していない瓶はすべてここに保存されてます。倒さないように気をつけてください」

 菊花に続いて中に入る。

 蔵の中は木製の陳列棚が等間隔に置かれている。棚には木箱が隙間なく詰め込まれ、一見、何の倉庫かまるでわからない。窓はなく、倉庫の奥は随分と薄暗かった。

「すげえ。これ全部が色瓶なのか?」

「はい。師匠が作った色や、私たち弟子が作った色までたくさんあります。お客さんから依頼された色瓶の保管庫はまた別にあるので、ここは完全な私たちの私的利用や試行のための倉庫です」

 菊花は小さいサイズの箱を取って差し出した。箱の中は正方形に区切られていて、一つ一つの部屋に硝子瓶が収められている。

「これ、全部菊花の?」

「お恥ずかしながら。これでも、全然、師匠の技術にたどり着かないんですけど……」

 と照れ臭いに笑った。

「調色師ってそんなに差がでるもんなの?」

「もちろんです! 例えば師匠の調色はすごく繊細で、私にはまだまだ――ちょっと見ててくださいね」

 菊花は箱の中から橙色の色液が入った硝子瓶を手にとって、コルクを開けた。口を陳列棚へ向け、燈夏のように手をかざす。

 瓶の中の色液が光を帯びる。菊花は巻き取るように手をくすくすと動かした。吊り上げられるように色液がするすると帯になって立ち上る。

「燈夏の時とは違う……」

 一反木綿のように色の帯は空中を漂い、菊花が棚板を指さすと、ぺたりと端から張りついていった。確かに燈夏の腕前の差が顕著だ。燈夏は小さな色玉を操り、最後は粉にして、少しずつ色を乗せていた。それと比べると、雑だと感じてしまうのは否めない。

 一列ほど色をつけたところで、菊花は手を下ろす。

「都に住んでいない藍さんは知らないと思うけど、師匠って本当に有名なんですよ。調色師にも得手不得手があるけど、師匠は特に『青色』が有名なんです。都では『碧の人』って呼ばれてるくらい」

 ――青色。

 思わず、藍は自身の目元を指先で触れた。

 菊花は藍の目を見て、思わず感嘆のため息を漏らした。

「その顔の装飾の下の青色の瞳」

 藍は目を伏せて、サングラスのエッジを指で押しあげた。

「……やっぱ、藍から見ても変な色してる?」

「変っていうか……綺麗すぎるんです。ほんとに。まさか宝石や自然じゃなくて、ただの人がそんな色を持ってるだなんて、にわかには信じがたい。調色師であれば、誰もが喉から手が出るほど欲しいと思わせる色をしてる。まず間違いなく、手練れの調色師であればあるほど、大金を積んで藍さんの青色を売ってもらおうとすると思います」


 貧しい者の中で珍しい色を持つ者は、その色を調色師たちに売って生活をしている者もいるという。工房であれば、桃色のために桃農家と契約して、年間で桃を買い取る工房もあるらしい。

「だから、藍さんがうちに連れて来られたとき、一目見てすぐに理由がわかりました。師匠は多分、藍さんのその瞳の青色に惹かれたんだと」

 そう告げる菊花の顔もまた、他の調色師たちと同じく、藍の瞳に対する執着的な感情が覗いていた。

 その美しい色を手にしてみたい。瓶の中に閉じ込めたい。

 それが調色師たちの本質なのかもしれない。藍は頭に銃口を突きつけられているような、薄ら寒い感覚を覚えて息を呑んだ。


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