第7話
「燈夏~? いる~? 掃除しに来たんだけど」
菊花と別れてから、藍は燈夏の部屋を訪れた。中を覗き込んで、遠慮がちに声をかける。燈夏はいない。
「……あ……若草色の、服……完成したんだ」
部屋の中央には、衣桁にかかった裙が美しい台形を成して広げられていた。その後ろにもう一つ、甘い匂いが漂っているような濃い桃色の衫襦。この二枚で芙蓉の花なのだ。
そこにまるで一輪の花が咲いているようだった。格子窓から差し込む朝の白い光を浴びて、清廉だった。ゆらゆらと花の蜜に誘われる蝶のごとく、藍は襦裙に近づいた。
いかに腕の良い調色師が重宝される理由がわかる気がした。
ただの若草色の裙ではない。朝露を乗せたような瑞々しい光沢を持ち、ひらひらと裾が揺れるたびに、色の見え方が微妙に違う。まるで本物の葉を纏っているように、繊細優美。この裙を纏う女の活力の湧く美と誠実さを想像させる。
「……すごい」
ずっと見ていられる、と思った。水族館で時間を忘れて水槽を眺めている時みたいに、心がその若草色に掴まれる。
ふと記憶違いなのか幻想なのかわからない思い出が脳裏をよぎった。
そういえば、あの日出会った少年も不思議な衣だった。複雑に色が混じりあった、冬の空を溶け込ませたような色彩。灰から白、白から濃灰へと微妙に変わるくすみ色。
――あれは、もしかして、本当にあったこと?
藍は記憶をもっと掘り起こそうと眉間に皺を寄せた。が、やはり新しく思い出せることはない。
「だけど……もしも、思い出が俺の妄想じゃなければ、この世界にいるのか? あの人が」
部屋の戸が開いた。藍の心臓が飛び上がって、振り向く。
「何がいるんだ?」
「……なんだ、燈夏か。びっくりして損した」
燈夏は藍の抱える掃除用具に目を向けた。
「すっかり体調はいいらしいな。よかった」
「あ、うん。燈夏とここの人たちのおかげだよ。ご飯も美味しいし、どこの誰とも知らない人間を医者に見せてくれるし。俺、お前に出会わなかったら、野垂れ死んでたかも」
「おおげさな……と言いたいところだが、そうも言えないのが複雑な気持ちだよ。お前無一文だったし、道ひとつもわからないし、どうやって来たかもかもわからないしで、本当に文字通り、身一つだったからな」
「……お世話になりました」
両手を合わせて拝むように頭を下げた。燈夏は、ぽんと藍の頭に手を置いて、わしゃわしゃと撫でた。ちらりと上を見ると機嫌が良さそうで、わずかに微笑んでいた。
燈夏は若草色の裙に視線を移して、満足げに頷いた。
「これで完成?」
「ようやく。これを纏えば、人は芙蓉の花になる」
確信めいたような表情の燈夏は紛れもなく、一流の調色師なのだろう。
だから。
ずっと心に留めていたことを、藍は切り出した。
「お前に渡したい色がある。燈夏が腕のいい、評判の高い調色師だって見込んでのことなんだけど」
「それは?」
藍はサングラスを外し、前髪を搔き上げた。
「青色。俺の瞳の、青色」
「な――お前、自分で何を言ってるのかわかってるのか」
「当たり前だろ。燈夏ならこの青色を有効活用してくれそうだし……俺はこの嫌いな青色とオサラバできるし、一石二鳥だと思うんだよ」
別に燈夏にとっておかしなことではないはずだ。調色師に自分の持つ色を売って金を得る小遣い稼ぎもあるらしいし。青色を失くしたあと、瞳の色には他の人と同じ、目立たないような黒かこげ茶当たりの適当な色を入れてもらえばいい。
「菊花から燈夏が『碧の人』って呼ばれてるくらい有名な人だって聞いた。水臭いぞ。俺の青色が欲しいなら、初めからそう言ってくれればよかったのに」
にこりと藍は笑った。まるで笑い話のように。だが燈夏は固まっていた。
「……それは他人が勝手に付けたものに過ぎない。俺には過ぎた名だ。それに金が要るわけでもないだろ。なぜ手放す必要がある」
「いや、別にただ嫌いなだけだって。ほら、よくあることだろ。ちょっと気に入らないところがあって、それを綺麗に葬れる方法があるんなら、別にそれをすることは変じゃないだろ」
「――しない」
「……は?」
「しないと言った。お前の青色を俺は取らない。これ以上この話をするのは、ごめんだ」
「な――」
燈夏は拒絶するように目を伏せた。藍は動揺に視線を泳がせる。「だって、お前、この色のこと綺麗だって」
燈夏は悲痛な面持ちで諭すように言った。
「……嘘だらけの顔だ。ただ嫌いだから、気に入らないからという理由だけの顔には見えないぞ」
――なら、どんな顔だって言うんだ。
心の中に土足で踏み込まれた気がして、かぁっと藍の顔が真っ赤になった。身体の体温があがった。唇を噛み締めて俯く。それ以上は踏み込んでくるな、と全身の毛が逆立っていた。
「別にいいだろ……っ! 理由とか、そういう、面倒くさいの、どうでもよくない? お前は綺麗な色を手に入れられるし、俺は青色を捨てられるし、それでいいじゃんか! 調色師ならそれくらい簡単だろ……!」
言い過ぎた、と思った時には、もう駄目だった。
「……藍」
燈夏の声に耳を塞いで、掃除用具を床に置いたまま、藍は駆けだした。
「ごめん。頭冷やしてくるわ」
ぐるぐると自分の中で抑え込んでいた黒い感情が渦巻いていて、今にも口から吐き出してしまいそうだった。ここに立っていることが烏滸がましくて、床がぱかりと開いて穴に落ちてしまいたかった。
――ああ。ほんと。こんな色なんて持ちたくなかった。全部、全部これのせいだ。
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