第5話


 高熱に倒れた藍は、そのまま三日間、寝込むことになった。特に身体のだるさがひどく、そのために眠り込んで、目が覚めると長時間睡眠のせいで頭痛がして、また眠り込む。それを繰り返していた。

 真夜中。四更を過ぎた頃、藍は衣擦れの音に、すっかり重たくなった瞼をあげた。

 寝台の帳を少し開ける。

 燈夏はちょうど衣桁に薄絹の裙を掛けていた。調色師は元の色を上から完全に別の色で塗りつぶすこともできるが、たいていの一級品は、色の付いていない真っ白な布に一から色を入れるのだという。

 ――よくもまぁ、あそこまで集中できるもんだ。

 藍は満足げに笑った。ここまで人が同じ空間にいることは滅多にない。藍は一人暮らしだったし、友達が遊びに来ることもほとんどなかった。最初こそ、燈夏の部屋で過ごすのはストレスだろうと心配していたのだが、蓋を開けてみれば、そんなことは全くなかった。

 心地よい。

 硝子瓶の底がことりと置かれる音。部屋の灯籠の炎の揺らぎ。燈夏の衣擦れの音。空間の穴を感じさせない、静かな雑音が、ひとりぼっちで異世界に飛ばされた藍にはありがたかった。人が忙しい時に余計なマイナス感情を抱かずに済むように、藍は寒々しい孤独に追い詰められずに済んでいた。

 帳を開けたまま、燈夏の後ろ姿を見つめる。

 ずっと眺めていても飽きない。触れ合っているわけでもないのに、胸の内が温もりで満ちていく。それは藍が生きてきた中では、初めての感覚で、少しくすぐったい。

 燈夏は立ち上がって身体の向きを変える。目が合って、きょとんとした。「起きてたのか」

「さっき、目が覚めた。……ふぁ、なんかもう寝てばかりでごめんな。出会って早々、ぶっ倒れて、三日間も食っちゃねして、燈夏からすれば、はた迷惑な居候だろ」

「いい。病人は寝るのが仕事だ。それに菊花が言っていた。『元気になったらきっちり働いてもらいます』って」

 菊花は燈夏の弟子の少女だ。燈夏は弟子を数人抱え、離れのひとつに住まわせていた。その中でも菊花は一番弟子で、藍によく食事を持ってきてくれる、利発そうな少女だった。

「調子はどうだ?」

「随分と良くなったよ。明後日くらいからは、動けそうだ。お前こそ、寝なくていいのか」

 揶揄って言うと、燈夏は罰が悪そうに肩をすくめた。しかし、藍だって三日も観察していれば言いたくもなる。それほどまでに燈夏の生活は破綻していた。

 昼間は依頼者の来客対応。その合間に調色作業をこなす。来客が無ければ、日が沈むのにも気が付かずにひらすら作業、作業、作業。夜になっても作業、作業作業。休憩しようとして趣味――と言ってもやることは変わらずに調色――をし、そのまま力尽きるまでまた作業をこなす。

 時たま弟子のひとりが食事を口に放り込みにくるが、それ以外はほとんどの時間は調色に注いでいた。

「まだ平気だ」

 どうで直らないから言わないでくれと、𠮟られた子どものような、面倒くさそうな顔をする燈夏は、その美しい見目に似合わず面白い。

「ま、俺は怒る係じゃねぇし、人のことを言えるほどきちんとしてないし、いいけど。今は何の色をつけてんの?」

「芙蓉の葉だ」

 藍がそちらに興味を示したことに気を良くしたらしい燈夏は、いそいそと衣桁を寝台の近くまで持ってくる。まだ真っ白な薄絹の裙は、それだけでも見事な出来だ。

 床に置かれた硝子瓶は二十を超えていて、そのすべてのコルクが開けられていた。

「やっぱり、緑が多いな。なぁ、ほんとにこれ全部使うの?」

「使うから出した。すべて別々の芙蓉の葉からとった色だ」

「え! これ葉っぱの一枚一枚の色を全部違う瓶に入れてんの?」

「もちろん。ひとくちに葉と言っても、微妙に違う。それに、これで全部の色でもない。この数でも、まだほんの一部しか色をつけられない」

「うわぁ……ゲシュタルト崩壊しそう」

 眉間に皺を寄せて、じっと硝子瓶を見つめる。しかしそのどれもがほとんど同じ若草色にしか見えない。素直に燈夏に言うと、「だろうな」と当然のように頷いた。それから鮮やかな山吹色に、明るい空色まで用途のわからない色まで揃えてある。

 燈夏はその上に手をかざした。

 ぷくぷくといくつかの瓶からシャボン玉のような色玉が湧いてきて、数珠つなぎに空中へと立ち昇る。

「あん時とは、逆だ」

 その様子をじっと見つめながら、藍は息を吐くように呟いた。燈夏が口角をわずかにあげる。

 燈夏の手が色玉を誘導するように動く。その動きをなぞるように、色玉は舞い降りる。裙の裾まで近づくと、色玉は弾け、蝶の鱗粉のように衣にかかった。

「色がついた……」

 色玉は燈夏の指先と目線の誘導によって、次々と弾け、衣を染める。細かな刺繍で空間を埋めるように、または繊細な点描画のように、いくつもの色を重ねて、色彩がじわじわと滲み広がっていく。

 藍は褥を握り締める。そうでもしないと、このあまりにも繊細な手業の緊張感に耐えらなかった。

 唇を一文字に結び、ぴんと張りつめた糸のような鋭い集中力の宿る顔は見惚れるほどに美しい。蛇使いの魔術師のような燈夏の姿は、妖しく、それでいて神秘的だった。

 藍は思わず、自身の目元を指先でなぞる。


 ――どうせ。どうせなら、この青もお前に渡してしまえたら。


 硝子瓶の色液が燈夏の手で瑞々しい芙蓉の葉へと姿を変えていく。その様を羨ましそうに藍は見つめていた。


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