第4話


 燈夏のことを目にしたときに、藍の脳裏には一瞬、古い思い出が蘇った。

 幼い頃、ちょうど中国風の衣を着た少年と、町はずれの空き地で一度だけ会ったことがあった。

 藍自身でさえ疎んでいた青い瞳を初めて「綺麗」と言ってくれた少年の顔を、藍はもう覚えていない。それどころか、今となっては孤独と自責から逃げたいという願望が作り上げた夢の話だと思っていた。

 あまりにも朧気な記憶だから、年を重ねるたびに霧の中に消えていくようにその美しい思い出は掠れていって、今ではもうどんな話していたのか、どう別れたのかもわからなくなってしまった。

 大切な思い出だったはずなのに、その大切さすらも掠れて感じられなくなった。


「――俺……」


 藍が目を覚ましたとき、そこは夜道ではなかった。天井がある。柔らかい檜の天井だ。漆のつるりとした艶が、壁に下がる灯籠の形を模した灯りで照らされて照っていた。

「夢じゃ、ない」

 アパートの自分の部屋の天井ではなかったことに落胆し、疲れたように目を閉じる。

 まだ頭がぼんやりとする。そのうえ、身体が高熱を罹ったようにだるく、皮膚が浮くようにぼわぼわと熱かった。別世界に飛んだ後遺症のようなものだろうか。

 ちらりと視線を下へ動かした。藍が寝ていたのは寝台だった。道端に転がされいなくてほっとする。口元までを衾で覆われ、その上に袍が何枚か重なっていた。手足の先に熱がこもって寝苦しい。藍は小さく唸りながら、衾をどかした。


「具合はどうだ? 藍」

 声を聞きつけた燈夏が覗きこんだ。

「……燈夏」

「意識ははっきりあるな。医者に見せたが、ただの風邪らしいから、今は安静にしておけ」

「ここは?」

「俺の部屋だ。まだ藍の部屋の掃除ができてなくてな。埃のあるところで寝かせるわけにはいかないし、少しの間、我慢してくれ」

 寝台の淵に燈夏は腰かけた。


「……燈夏。さっきのあれって何? 魔法とか、術とかそういうの?」

 燈夏は一瞬、何を言っているのだ、と怪訝そうにしたものの熱の譫言と捉えたらしい。

「胡黄国の調色師であれば当然になせる技だ。調色師を知らずに都へ来たのか?」

「――この国ことも、そのなんとか師ってのも知らねえよ」

 浅く呼吸しながら、吐き出した。恐らく変だと思われるだろうが、今の茹だった頭の藍にそこまで頭をまわす気力はなかった。

 幸い、燈夏はわずかに目を細めただけだった。

「この国は胡黄国。大陸の西に広がる国だ。この辺りは皇帝の暮らす宮殿の傍にある街でな。かなり栄えている」

「……山の中とかじゃなくて、良かった」

「は? ……調色師はそうだな――」


 燈夏は難しい顔をして口元を押さえ、考え込んでいた。「ちょっと待ってろ」と言って部屋の反対側へ向かった。しばらくして戻ってきた燈夏の手には何枚かの織物布が腕にかかっていた。それから先ほども見た、淡黄色の液体が入った硝子瓶を藍の顔の側に置く。


「調色師はあらゆる色液を作り、物に色を付ける職のことをいう。例えばこの布の赤色は俺が色液を作り、色付けした。こっちの布も。布だけじゃない。家の壁だったり、人の髪、あらゆる物に色を付けることができる」

 染色家のようなものだろうか。あちらは布限定だが。

「さっきのは……」

「あれは色を作っていたんだ。俺たち調色師は、物が自然に持つ色を吸い取るように抜いて、そのまま物の色を液体で保存する。そういう力を持っている。さっきのは塀の色を俺がそのまま抜き取って、液体に変えたんだよ」

 気だるげに腕を上げて、布に触れる。美しい布地だ。色ムラがなく、素人目で見ても一級品だとわかる。

「……すげー」

 適当に相槌を打った。

 視線を動かすと、部屋のあちこちに布やら衣やらが散乱しており、几には硝子瓶の空き瓶が転がっている。燈夏は顔に似合わず、部屋を散らかすタイプらしい。


「あの盗賊たちは、お前の目の色を見て、どこかの調色師に売ろうとしたんだろう。調色師はその業上、美しい色を持つ者に対しては金に糸目を付けない」

「俺の目……あ、俺のサングラス!」

 がばりと起き上がって、あたふたと辺りを見回した。

 サングラスがない。憎々しい青い瞳を無防備にも人の前に晒していた。かあっとただでさえ熱を持つ頬が赤くなる。咄嗟に目元を手で覆った。

「おい。慌てるな。顔の装飾なら寝苦しいだろうから俺が外したんだ。今は几の上にある。無くなったりはしてないぞ」

「――……っ、ごめん、あんまりこっちを見ないでほしい」

 燈夏が慌ててサングラスを持って来た。ひったくるように藍はそれをかけて、深く息を吐く。脱力して、どさりと後ろに倒れた。

「青色が嫌いか?」

 藍の胸の内を覗き込むように、燈夏が尋ねた。逃げるように藍は目を閉じる。

「そういうのを考えることは、もうやめたんだ。どうせこの色が俺から剝がれることはない。一生、死ぬまで、切っても切れない。そういう色なんだよこれは。考えるだけ無駄だ」

 だから藍はまるで、この色が存在しないように扱ってきたのだ。青色を消し去る黒のカラコンに、それを濁らせるカラーサングラスで塗り潰した。間違えて塗ってしまった色の上から、別の色で隠すように。

「お前は?」


 調色師ということであれば、気に入らない色のひとつやふたつはあるだろうと、話を逸らすように言った。

 燈夏はぴたりと、その場に固まった。

 そんなに変な質問だったか、と声をかけようとした時、燈夏は手を伸ばして、藍のサングラスのエッジに指をかけて外した。藍の青い瞳が露わになる。

「やめてくれ――」

 サングラスを取り返そうとして、燈夏の表情を見て固まった。

「俺も青色は好きじゃなかった。見ていると、身体の底から冷えていく。頭から手足の先まで動かず、すべてが零になっていく心地がするから。その先が見えない、未来のない、終いの色」

 藍は顔を苦しげに顔を歪めた。

「あっそ。なら尚更、それ返せよ」

 燈夏は藍の頬に掌を添えて、親指で赤くなった目元を撫でる。

「……だが、藍の青色は好きだ。初めて会ったとき、ほうき星が落ちてきたのかと思った。初めて、青色が美しいと思ったんだ」

 藍の目が大きく見開かれた。

「月光がお前の瞳に吸い寄せられるように、その目に差し込んで、輝いていた。後にも先にもお前の青色は見たことが無かったよ」

 何も言えなかった。突然、滝のように注がれた燈夏の純真な感情に、藍は唇を震わせた。今までどんな好意も悪意も受け入れられなかった藍のがらんどうな心に、燈夏の言葉だけはあっさりと入り込んできた。藍でさえ理由がわからず、ただ戸惑った。渇ききっていた心がみるみるうちに溢れていく燈夏の感情に、耐えきれなくなる。

 青い瞳が湖に波紋が広がるように水膜が張り、重力に負けて大粒の涙が零れ落ちた。

 燈夏はぎょっとして、慌てふためいた様子で、袖で拭った。

「ど、どうした? どこか痛むのか? み、水。水を持ってくればいいか?」

「い、いい! 別に、そういうのじゃない……そういうのじゃねえから」

 藍は唇を噛み締めて、胸を押さえた。成人男性が、最悪だ。わけがわからない。また熱も上がってきた気がする。一生懸命に目尻を拭ってくれる燈夏の手を払い、褥に倒れて、壁の方を向いた。

「寝るのか?」

「寝る!」

 怒ったように言った藍に、燈夏はわずかにしゅんとした。「この装飾はどうする?」

 藍はぐすぐすと鼻を鳴らしながら、小さく呟いた。

「今日は、邪魔だし、別に……いい」

 それを聞いた燈夏は穏やかな笑みを口元に浮かべて、目を細めた。手を伸ばして、藍の頭を撫でる。

「そうか。ならこれは几に置いておく。いい夢を見ろよ」


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