第3話


 テレビの電源をつけるように、パチンと藍の意識は目覚めた。一瞬にも永遠にも思える時間だった。人が眠ってから起きるまでの間の現実の出来事は何もわからないように、何らかの時間がごっそりと抜け落ちている感覚に、藍は困惑し、次に視界に映る景色を理解して、もっと困惑した。

「……どこだ。ここ。」


 藍は寂れた家屋の中に立っていた。部屋の格子窓は色が剝げ落ち、蜘蛛の巣が隅に張っている。

 今にも崩れ落ちそうなほどにぼろぼろで、家主からとうに見捨てられたようだった。

 まるで山奥の廃村にでも迷い込んだかのような荒れ果て具合。

 しばらく固まって、ようやく目の前の景色を理解したあと、信じられないものを見る顔で、両の掌を見つめる。

「い、今、俺……事故、にあったはずじゃ? 夢? いや、違う……そんなんじゃねぇ」


 おかしい。少し前に藍はトラックにはね飛ばされたはずだ。

 目の前に迫るトラックの顔もけたたましく響くクラクションも目を覆いたくなるようなレーザーライトの光も鮮明に覚えている。

 それに死に直面した藍の身体はまだ、生々しい恐怖に震えていた。

 だが、実際はどうだ。藍は怪我の一つもなく、立っている。

 動揺に後退れば、パキン、と何かが割れる音がした。足元に転がっていた陶器の皿の破片を踏んだのだった。

 明らかに古い年代のそれに、藍の背筋を嫌な汗が伝った。

 いったん深呼吸をしてから、仄かな明かりの差し込む部屋の入口へと向かう。埃に混じって鼻を突く、香草を燻したような異国の匂いに藍は顔をしかめた。

 戸が外された入り口に立って、軒先から空を見上げて、藍の目は驚愕に見開かれた。


「……満月」

 どろりとした濃い闇に覆われた夜空の真ん中に、まん丸の満月が浮かんでいた。

 甘ったるい蜂蜜のように官能的な黄金色で満たされた満月。

 その迫力に圧倒されて立ち尽くしていた藍はハッとして、口元を覆った。

「雨が降ってない……いや、それどころか振った気配さえない……場所も、何もかもが、やっぱ、おかしい」

 嫌な予感が針のように藍の脳裏を刺す。言葉にすることすら躊躇われる疑問が、胸の内に湧いてきた。


 ――あの瞬間、どこかに、飛ばされた?


 突飛な発想だった。

 しかしそれでしか説明もできない。

 あの事故の瞬間、トラックと衝突する寸前に、何らかの要因でどこか別の場所に飛ばされてしまったのだ。それならば、このおかしな状況にも説明がつく。

 およそ受け入れがたい事実に、ぐにゃりと視界が歪んだ。


 入り口から壁伝いに迂回しながら、ぬかるみと雑草がぼうぼうと生えた中庭を通り過ぎた。藍が降りたった隣の家屋を覗きこんだ。

 ぎょろりといくつかの目玉が暗い部屋の中で光った。すぐに露わになって、まるで時代劇に登場する風貌をしたごろつき達が、藍を見た。その手には、刃こぼれした短刀を握り締め、彼らの周りには粉々になった壺や箱が散乱していた。

 鉢合わせちゃダメな人間だ。

 男たちが藍を襲おうとするのと同時に、藍は弾かれたように駆け出した。


「……っ、なんっで、どーなってんだよ」

 背後を見る勇気はない。まだ、がくがくと震える足を車輪のように動かすので精一杯だ。

 そのうえ、白瀬藍は、少し器用で長時間働くだけの体力があるというだけで、特段足が速いわけでもなく、ましてや悪者から逃げるなんて経験は皆無だった。

 とにかく曲がり角という曲がり角をすべて曲がった。だが、別世界に来たばかりの藍に地の利はなく、途中で挟み撃ちにされる。細い路地に入りこんで、抜けた先はだだっ広い砂地の大通りだった。

「うぁっ……くそっ離せ!」

 ついにシャツの襟を掴まれた。そのまま前へ押し倒されて、額を地面にぶつける。

 たちまち周りを男たちが囲んだ。藍を値踏みするように目を細めて、一人が最も図体のでかい男に話しかけた。


「頭。この男の目の色、上物だ。調色師に高く売れる」

「手足はばら売りにしてもいい。今日の盗みの中じゃ一番だ」

「服も剥ごう」

「この色ならたんまり金を出してくれる」

 すんなりと言葉がわかった。話の内容からして、男たちは盗賊らしい。いや、それよりも。

「……なっ。おい、冗談じゃねぇ! 離せ!」


 思い切り睨みつけながら、藍は声の限り叫んだ。しかし通りには人っ子一人おらず、男たちが欲に塗れた目で藍を嘗め回すように見ていた。


「この青は売れる」

「青色を売ろう」

「青色だ。こりゃ希少な青色だ。二つの目玉でどれくらいの飯が食えるだろう」


 ひひ、と下卑た笑いに、藍は顔を歪めて唸った。

 ――また、この目かよ。この目のせいで。俺は。

 悔しい。目の色ひとつで自分の価値を雑に決められてしまうことが、悔しい。素っ裸で放り出されたような屈辱だ。

 これで殺されるなんて、たまったものではない。

 嫌だ。これならばさっきの事故で吹っ飛ばされていたほうが、ずっとマシだった。

 藍は足掻くように、身を捩った。

 盗賊たちが藍を縛ろうと麻縄を取り出したときピーっと甲高い警笛の音が通りに響いた。男たちが警戒するように辺りを見回した。


「こんな時に……頭。刑吏の奴らだ。捕まるぞ」

「なんだって今……ちっ。おい。ずらかるぞ」

「この男はどうしますか」

「荷物だ。置いていけ!」


 盗賊は捕まえていた藍を地面を放ると、闇に紛れるように側の路地にこけつまろびつしながら、逃げ込んでいった。

 ばたばたと彼らが残していった足跡の上で、砂埃が舞った。

「なんだ?」

 咳き込みながら藍は身体を起こす。足に力が入らなくて、仕方なしに警笛が聞こえた方に視線を移した。

 影の合間を縫うように現れたのは、一人の青年だった。長い銀髪を一括りにした、端正な顔立ちの青年だ。眼光の鋭い切れ長が美しい。ゆったりと襟の広い袍は薄青だった。一歩引いてしまうような冷たさを醸し出していて、藍は緊張に唇を一文字に結んだ。


「危ないところだったな。あいつらは最近この辺りに出ていた盗賊だよ。空き家から金目のものを盗って売り飛ばしてる。ついこの間お偉いさんの蔵をやられて、ようやく刑吏が重い腰をあげたばかりでね。怪我はないか?」

 青年は恐れもせずに近づいて、藍に手を差し出した。

「あ……助けてくれて、ありがとう」

 正直なところ、もう少し座っていたかったが、先ほどみたいなことが起きた夜道でそうも言ってられず、しがみつくようにして、ゆっくりと立ち上がった。

 サングラスの隙間から覗いた藍の瞳を見て、青年は何かに気づいたようにわずかに瞳孔を揺らした。

 藍は気まずそうにサングラスのエッジを押し上げて、膝についた砂を払う。


「本当にありがとう。……えっと――」

「崔燈夏。お前は……珍しい恰好だな。胡黄国じゃ見ない衣だ。地方でも……見ないな」

 怪訝そうに尋ねる燈夏に、藍は慌てて言った。

「え! あ、ああ……まぁ結構遠いところから来たもんで……はは」

「名前は?」

「白瀬藍。藍でいい」

「藍。いい名だな。それで? こんな夜に一人でふらついて、どこか行く当てでもあるのか?」


 シーパンのポケットに手を入れて、そういえば、鍵やスマホの類も、事故の直前まで背負っていたリュックも無かったことに気づいた。

 藍は身一つで、この世界に飛ばされたのだ。

 さぁっと血の気が引いていく。

 財布とスマホさえあれば、たとえ根無し草だろうと生きていけると思っていたが、まさかその二つさえも無い状況に陥るとは藍も思っていなかった。

 何か言わねばと口を開きかけて、しかしどこから話せばよいものかと、そのまま閉じる。 この国でもこの時代でもない、別世界から来たと言ってもきっと信じてもらえない。怪しい者だと警戒されてしまえば、藍は行くところがない。


「……ない」

 ただ一言を絞り出す。

 燈夏はしばらく黙った後、ひらりと広い袖口を翻して背を向けた。

「それなら、うちに来るといい。人一人くらいの寝床は貸そう」

「え、でも……」

「適当な空き家で野宿でもするつもりか? やめたほうがいい。都の昼は盛況だが、夜は何が出るかわかったもんじゃない。この辺りに慣れないのなら来い」


 燈夏は振り返って、不安げな藍を見ると、ふっと表情を和らげて、藍を安心させるように笑みを浮かべた。鋭い目つきが緩む。口調の固い、壁のある青年の印象が解けて、手を引かれるように、藍は素直に頷いた。「わかった」

「あ、その前に俺の用事を済ませてもいいか。すぐに終わる」

「そりゃあ全然。こっちが世話になる身だし……何するの?」


 燈夏は懐から小さな硝子瓶を取り出すと、コルクを開けて、築地塀へと近づいた。右手を塀へと差し出し、救いあげるように指先を動かした。

 燈夏の指の先を視線で辿って、藍はぎょっとした。

「――壁が」

 真新しいクリーム色の壁から、小さなシャボン玉のような玉がぷくぷくと湧いて、空中に舞った。玉の一粒一粒が小さな蛍のように光を帯びていて、燈夏と藍の顔を仄かに照らす。

 まるで夢のような不思議な光景に、何を尋ねるわけでもなく、藍はただ目を奪われていた。

 燈夏が再び右手を手繰るように動かした。同時に光の玉はなだらかな軌道を描いて、次々と燈夏が左手に持つ硝子瓶の中へと飛び込んでいく。収まったそばから、とぷん、と液状に溶けては、徐々に瓶の中を満たした。

 やがて瓶の肩までいっぱいになったところで、燈夏は光の玉を操っていた右手を下ろした。光が消える。瓶の中は絵の具のような、築地塀と同じクリーム色の液が作られていた。


「……今のは」

 ――魔法? は? 何々? 意味わかんねぇ!

「これでいい。手間取らせたな。織物に使おうとしてた淡黄色が手元になくて、取りに来たんだよ。この辺りはまだ新しい壁で、色の保存状態がいいしね」

「ま、待って。色? 壁? 燈夏が何を言ってんのか、俺さっぱり……」


 ぐるぐると目が回る。ぐわんぐわんと脳が揺さぶられて、沸騰しそうなほどに熱い。言葉を咀嚼しても上手く飲み込めなくて、一層藍は混乱した。

「藍? 大丈夫? 顔色が悪いぞ」

 視界が白んでいく。なんだか腹のあたりが散々船酔いをした後のように気持ちが悪い。

「いや、ごめん……なんか、疲れ――」


 スイッチを押したように、藍の意識はそこで途切れた。

 ――もしかすると、俺は思ったよりもへんてこな世界に来てしまったのかもしれない。

 燈夏の声が遠くなる中、「こりゃまずい」と思考を投げ出して、やけに冷静になっている自分に苦笑した。


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