第2話
授業の終わりを知らせるチャイムが鳴った。
広い講義室の空気が緩んだ。藍も窓際の席で、ふうと息をつく。窓の方を見ると、桟に埃が溜まっていて、掃除のずさんが何となく読み取れた。
手早くリュックに教科書とファイルを詰めて立ち上がったところを、背後から友人が呼んだ。振り向きざまに、癖でサングラスのエッジを押し上げる。
「白瀬~。今日暇? 俺ら外コミュ学科の女子と飯行くんだけどお前も来ない?」
「パス。俺、今日バイトあるし」
「ええ? お前またバイト? 昨日も一昨日もバイトだったろ。シフト入れすぎじゃねぇ?」
「今、稼ぎ時なんだよ。夏だし」
そう言えば、友人は、それ以上は追及してこず、肩を落とすだけだった。
「そっかぁ。まじかぁ。俺、お前が来るって女子に言っちまったよ~」
「聞いてもないのに?」
「聞いてもないのに」
「じゃあお前の失態だよ」
呆れながら話を切り上げて、背を向けた。
「次は来てくれよ~」
「暇だったらな」
そう言う友人に適当に手を振って、藍は階段を駆け下りる。
駐輪場に向かう途中に、近くのトイレに駆け込んだ。中に誰もいないことを確認してから、洗面台でコンタクトを外した。
濃い黒のコンタクト。
目薬を取り出して、慣れた動作で点眼しながらぼやく。
「このカラコン、結構ゴロゴロするなぁ。やっぱ、いつものカラコンの入荷待って買えば良かったかなぁ」
鏡に映った藍の顔に並ぶ双眸は、子どもの頃から変わらない、日本人離れした青色をしていた。
藍は苦々しい表情で鏡の中の自分と目を合わせた。
「……」
顔の知らない父親の血を色濃く反映させたこの瞳は、結局、そのままの色を保ったまま、藍は成長した。
幼い頃は揶揄されていたこの瞳を、徐々に成長するにつれて、今度はみんな持て囃すようになった。
ブルーアイズは珍しく、同時に、ハーフ然とした通った鼻筋や、薄い唇は成長するにつれていわゆる美しい造詣だった。
伏し目がちの視線は、気だるげでミステリアスだと囁かれ、容姿で人に好かれることが少なくない。
しかし、それで藍が生きやすくなったかと言われるとそうではなく。
子どもの頃に嫌というほど理解した、人の容姿に対する数多の視線が怖いのは相変わらずだった。
特に、どんなに好意的な視線でも、自分の青い瞳に言及されることが苦痛だった。自分の目が無防備に人の前に晒されていることが耐えられなかった。
黒のカラーコンタクトをして青色を隠して、その上にカラーサングラスをかけてさらに隠して、それでようやく藍は安心することができるのだ。
その日のバイトが終わったのは夜の十二時を過ぎた頃だった。居酒屋バイトは、夜間の時給が高いし、賄いも食べられる。藍がいくつか掛け持つバイトの内の一つだった。
店員と軽く挨拶を交わして帰路に着く。自転車を漕ぎながら、眠たげな目を擦った。
「さすがにこうも毎日、店締めの時間まで続くとしんどいな」
だが、そう簡単に弱音は吐いていられない。藍には金が必要なのだから。
小学生の頃、放置気味だった藍の母親はついに蒸発した。父親と同じように姿を跡形もなく消したのだ。
頼れる親戚もなく、児童養護施設に預けられた藍は、高校卒業とともに、奨学金を借りて大学に滑り込んだ。
多分、どんな境遇でも立派な人間になってみせるという、藍のプライドだったのだと思う。
入学した後も、想像以上に物入りで、授業の後はバイト漬けの日々だ。
一日たりとも、藍に気を抜ける日はない。
一瞬でも休んでしまえば、なんとか保ち続けている気力と体力がそこでぷつんと切れてしまいそうなのだ。
「……あとで課題終わらせねぇと。あと光熱費って今月はどんだけ持ってかれんのかな。……うわ。考えたくねぇ……」
いつも何かに追われている気がする。
ある時は人の視線だったり、ある時は生活だったり、大学の課題だったり様々で、ずっと心臓の鼓動が速い。身体の中の血液の流れは激しく、巡る神経が乱れている。エナジードリンクを飲み続けているみたいに、スイッチが入りっぱなしだ。
それゆえに、藍は立ち止まることができなくなっている。
行き詰まった時は袋小路。
立ち止まった瞬間に、藍の心臓の音は止み、手足がぴくりとも動かなくなるだろう。そんな強い不安が毎日、藍を突き動かしていた。
「げ」
雨粒が鼻先を掠めた。
見上げると、夜闇に紛れて厚い雨雲が空を覆っていた。
一気に、湿った匂いがつんと香って、すぐに雨音が強くなった。雨雲は遠くまで終わりが見えず、しばらく振り続けるらしい。
立ち漕ぎになって、自転車のスピードを上げる。
途中ですれ違った車のライトの光の中に見えた雨の斜線は幾本も伸びていて、気が付けば本降りになっていた。
藍の視界がうっすらと白んだ。
あとは交差点を渡ったら、藍のアパートはすぐそこにあった。長い前髪を後ろへ撫でつけて、ラストスパートとペダルを力強く踏む。
横断歩道に入って、ふと、目の前がパッと明るくなった。
車のレーザーライトが目に飛び込んできたのだ。自分の倍以上もあるトラックの巨躯が藍を目掛けて突っ込んでくる。
――あ。まずい。
そう思って身体の向きを変えようとした頃には、もう遅かった。
最後に見たのは、点滅する、青色の歩行者信号だった。
――んだよ。青じゃねぇか。
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