色は匂へど蒼星に散る

葉月菜の花

青色は出会う

第1話


 蝉の鳴き声が耳障りな、蒸し暑い夏の昼間。蜃気楼で覆われた街外れの空き地に、藍はひとりぼっちでしゃがんでいた。

 ぽたり、と前髪の張り付く額から、汗の雫が落ちる。

 やがて、どこからか蟻の行列がやってきて、地面に空く小さな穴の中に一匹ずつ吸い込まれていった。

 それを見て、何をするわけでもなく、藍はただ蟻の数を数えた。

 無機質に、ただ時計の長針が規則正しく動くように。


 藍が通っていた小学校はすでに夏休みに入っていて、すでに登校はできなくなっている。けれど家にはいたくなくて、ふらふら彷徨って、いつもこの寂れた空き地にたどり着くのだ。

 空き地にはブランコはおろか、まともな遊具はない。隣の家の庭からはみ出した庭木のわずかな木陰があるのみ。


 少し向こうへ行けば、近所の子どもたちが皆集まる公園がある。週末には親を連れている子も多く見られ、平日には小学生のたまり場になっていた。

 けれども、藍はそこでは遊べない。


 汗が目に入りそうになって、藍はごしごしと目元を擦った。

 そこに覗く、くりくりとしたリスのような大きな双眸は、澄んだ空と深い海の色を溶かしたような、美しい青色をしていた。

 藍の友達たちや子どもたちは、この目を気持ち悪いと言う。


「じっと見ないでよ。他の子と違って目立つし、はっきりいってキモいんだよね。見られてるのわかっちゃう」と追い払われた。

「宇宙人じゃん! ちょうどいいし、お前、敵役な! そーれバックドロップ!」と暴力を振るわれた。

「目見えてる? これ何本かわかるー?」

「お前の目って菌が入って感染してるんでしょ? 近づかないでよ。うつっちゃう!」


 藍はいわゆるブルーアイズだった。

 フランス人らしい、父親譲りだといつかの母が憎らしげに言っていた。

 らしい、というのは、藍も会ったことがなく、結局のところ真実がわからないままだから。

 母親は未婚の母だった。母親が行きずりの末に出会って、恋に落ちた外国人との間にできてしまった子どもが藍。母親が妊娠に気が付いたころにはすでに中絶可能期間を過ぎていて、父親の頼みで藍を生んだのだ。

 しかし藍が生まれてしばらくして、父親は帰ってこなくなった。そして、そのまま父親は一度も姿を現したことはない。

 母親は自分を捨てた父親のことをひどく恨んでいた。そしてその怒りの刃は、同じ青い目を持つ藍へと向いた。


 母親はほとんど家にいない。

 昼間はどこか別の男のところにいて、夜は水商売で稼いでいた。滅多に家に帰ってくることはない。時折、藍が眠っている明け方にやってきて、しばらくの生活の金を置いていく。

 まともな会話をした日を、藍はもう思い出せない。


「暇」


 何度、そう口にしただろうか。

 子どもたちには馴染めず、放置子の藍を助けようとする大人は周りにいなかった。

 ひたすら、時がたつのを待つばかり。

 毎日、数を数える。時を刻んで、この先の途方もない時間が早く過ぎていくことだけを考えていた。


「……なんで、皆と同じ目じゃないんだよ」


 藍は自分の青い瞳が大嫌いだった。

 自分が母親に愛されていないこと。周りが自分を迫害していること。鏡で自分と目が合うたびにその事実を突きつけられる。

 ――この青い瞳さえなければ、きっと幸せだったのに。

 無心で時をやり過ごす間、ふと満杯になったコップの淵から水がゆっくり零れ落ちるように、藍もこの目を憎むことが時折あった。


「こんなところで何してるの」


 珍しい。この空き地に子どもがいることなんて滅多にないのに。

 空耳かと思って、顔をあげた藍は、いつも伏せてばかりだった目を丸くさせて、ぽかんと口を開けた。


「……誰?」


 藍よりも少し年上の少年だった。

 裾の長い袍が、真夏の空き地にはあまりに不釣り合いで、すぐにこの辺に住む子ではないと藍は確信した。


 ――不思議な服。冬をまるごと着てるみたい。


 雪景色をそのまま写し取ったような、美しい白灰の袍に、すうっとうだるような熱が背中から引いていく。衣は雪雲が空をひしめき合うように、灰から白、白からねずみ色と、見つめている間に、ゆっくりと色が変わっていくかのように錯覚させられた。

「綺麗」

 ついて出たそれは、目の前の少年にぴったりの言葉だった。

 気持ち悪いと揶揄される自分とは、大違いだ。

 途端に藍は少年の目に映っていることが恥ずかしくなって、かあっと頬が熱くなった。下を向いて、唇を嚙み締めた。


「ねぇ。顔をあげて。僕は君と顔を合わせて話がしたい」


 落ち着き払った声に、顔を引き上げられる。

 恐る恐る視線を上げると、すぐそこに少年の顔があって、興味深そうに藍を覗き込んでいた。


「青」とぽつりと少年が呟いて、息を呑んでいた。

「あ……ご、ごめん」

 視線を逸らそうとしたところを、やんわりと包み込むように両手で顔を固定される。

「この目の中の青色は、何かの色を付けたの?」

「う、ううん、違う。俺のは、生まれつき。ち、父親の血が入ってるからって、母さんに言われた」

 自分で言っていて胸が苦しくなって、ぎゅっとズボンの裾を握りしめた。

 生まれつきの皆に嫌われる青色は逆立ちしたとて、変わることはないと、わかりきっているのに、目の当たりにするたびに、何度でも自身の生を呪う。

 この美しい少年も、次はきっと気持ち悪いって言うのだろうと藍は耳を塞ごうとした。


「綺麗だね」

「え?」


 信じられない顔で、思わず少年の口元を見た。人に見られたくなくて伸ばし気味の前髪が、夏の風で横になびいた。

 初めて向けられた言葉だった。

 あまりにも似つかわしくない賞賛に怖くなって、首を振って少年の手を払った。


「違う! そんなんじゃない。皆、俺の目は気持ち悪いって言う。俺もそう思う! 俺の目、キモいもん」

「なっ……誰だよそんなこと言ったの! そんなこと、あるもんか! その色は特別なんだよ。上を見てみればいい。僕の言ったことが本当なんだって、わかるはずだ」

 少年はそう言って、再び藍の顔を掴んでぐっと持ち上げた。そのまま、まっすぐ上を指差す。

「空」

「は? そら?」

「そうだよ。その青色は自由な空の色。そしてどこまでも広がる深い海の色。君だけが持つ特別な色。僕は君のその青色が大好きだ。とても綺麗だと思う」

 少年はにこりと笑って、藍の隣に座った。

「ついでに僕は空も好き。海も」


 藍は目元を触る。

 信じられなかった。自分の瞳と空の色が同じだなんて、認められなかった。これだけ嫌われる色を、広大な空の色と一緒にするには無理がある。


「そんな色してないよ。俺の色は。もっと……なんていうか、変」

 そう吐き捨てた藍の肩に、少年の肩が触れた。彼の袍が汚れしまわないかと、藍はわずかに身を固めた。

「同じだよ。それでも信じらないのなら、空の青と君の青が馴染むまで、一緒に空を見ていようよ」

「そんなんで色が同じになるわけない」

「なるんだよこれが。知らないけど」


 知らないのかよ、と心の中で悪態をついた。けれど少年を突き放すことはできなくて、半ば無理矢理、藍は空を見つめていた。

 別にそれで同じ色になるとはにわかにも信じがたかったが、真夏の目が覚めるような青一色の空は、ともすれば宇宙まで透けて見えるような鮮やかさで、地面の穴を見ているよりもよほど気分が良かった。

 それを言うと、「それは当たり前だね」と呆れたような笑顔で少年は笑っていた。


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