夢を見るまで
合野
夢を見るまで
眠りにつくとき思考がどのような線を描くか辿ったことはあるでしょうか。布団に入って今から寝ようとなって、今日はこんなことをしたな、あれを食べたな、明日はどうしようとか考えますね。あるいは、猫ってかわいいな、とか仕事行きたくないなとか。思考は連想ゲームのように緩やかに他の思考へと移ってゆきます。猫ってかわいいな、近所の川べりの公園にいる野良猫はまだ元気かな、そういえばあの川原で毎年やってる夏祭り今年も開催するのかな、といったぐあいに。しかし、そのまま連想ゲームを続けて朝を迎えるわけではありません。始めはつながっていた思考がだんだん曖昧になり、関係ないと思われることに飛び移っていきます。祭りは人が多いけどせめて花火だけでも見たいな、ここら辺にいい観賞場所はないかな、そこで頭の中の地図を広げてみるとその模様がだんだん好きなアイドルの顔に見えてきます、そのアイドルの歌のワンフレーズを思い浮かべますが、思考はその中から「空」という言葉だけをつまみ上げ、ああ空を飛んでみたいなあと思っているうちに実際に空を飛んでいます、地上を見下ろしていると真横を飛行機が通り抜け、目線を前に向けたときに大きなお寿司が浮かんでいるのが見えてそちらへ飛んでいきます、大きなお寿司、いくらもまぐろもエビもあります、両手を広げてお寿司に抱き着こうとする、こうしていつの間にか夢の世界へ沈んでいくのです。なぜそのような過程を私が知っているのか。それは思考の軌道を辿ってゆっくり夢に足を踏み入れる直前に目が覚めてしまったことが数度あるからです。そして私はその時ぬいぐるみのようなものが目の前にあるのを見ました。
それは生成り色で、八百屋で見た小玉スイカくらいの大きさでした。丸みのある形に、動物の足を思わせる四つの突起がついていました。顔に当たる部分はなく、質感は柔らかい布のように見えます。装飾は一つもありません。それが仰向けに寝ている私の胸の上に鎮座していました。
入りかけていた眠りの領域から急に引き戻されたようで頭は涼しく冴えていました。私はそれを見て、こんなぬいぐるみが家にあったかなあと考えました。私の部屋には小さなころから買い与えられてきたぬいぐるみがたくさん置かれていて、自分でもすべてを把握しきれないほどだったのです。そして何とはなしにそれをつかもうとして、目を疑いました。ぬいぐるみが動いているように見えたのです。私は無意識のうちに息を止めていました。薄い暗闇の中で目を凝らしました。
ぬいぐるみは確かに四つの足を動かして歩いていました。私の顔の方へ向かってきます。それに触れられた部分は触れられた感覚がありません。とても軽いのでしょうか。胸から首、顔までやってきました。私は何も言うことができず、顔の上を歩くそれをじっと見ていることしかできませんでした。心臓が早鐘を打っているのが分かりました。ついに頭の先までやってきてぬいぐるみが何をしているのかわからなくなりました。
そこで記憶は途切れています。そのあとは眠ってしまったようです。目覚めたとき、私は昨夜の夢への軌道と不思議なぬいぐるみのことをはっきりと思い出すことができると気づいて、どこまでが夢でどこからが現実なのかわからないなと思案しました。この世に歩くぬいぐるみなんてあるわけがない、それはわかっているのですが、それにしてもあの質感や暗い自室の空気の感じはどうしても現実としか思えませんでした。
しかしこのことも、妙にリアルな夢を見た、という経験として長いあいだ雑多な記憶の隅に紛れていたのです。
二度目はそれから三、四年たった高校三年生の時でした。大学入試を一か月後に控え、日夜勉強に明け暮れていました。私は焦っていたのです。今の成績だと志望大学への合格は厳しいと言われていました。国語と数学はできましたがそれ以外はてんで駄目でした。私はものを覚えることが苦手なようで、いくら血眼になって教科書を眺めたところで英単語も歴史上の人物の名前もろくに頭に入りません。勉強をさぼってきたつけが回ってきているのを痛感しました。もう十二月なのに。C判定ももらったことがないのに。そう考えることでさらに頭の容量がすり減らされているようでした。
その日も深夜まで世界史の教科書とにらめっこをしていました。両親には体が冷えるから早く寝なさいと言われていたのですが、そんな余裕があるはずもありません。部屋の電気を消したまま勉強机のライトだけつけて、夜なべ覚悟で机に向かっていたのです。今日は百年戦争の範囲まで絶対に寝ない。そう決めていました。
高校の先生は、人名や出来事の名前だけを覚えるのではなく歴史の流れを理解するのがいいと言っていました。イギリスのエドワード三世がフランスヴァロワ朝のフィリップ六世に対して王位継承権を主張、それから毛織物産地のフランドル地方をめぐる領土問題もあった……最初はイギリスが優勢、エドワード黒太子、クレシーの戦い……ジャンヌダルクはイギリス人?いや、勝ったのはフランス……フランスってパリ?シャルル七世、ペスト、誰が?それともなにを?
はっ。そこで意識が戻りました。危ない危ない、居眠りをしてしまうところだったと目をこすって教科書に向き直ると、そこにまたあのぬいぐるみがありました。
ヨーロッパの地図と説明文、その上に丸くて淡い色のあれがいました。体が震えたのは寒さのせいだったのでしょうか。
忘れかけていた記憶が一気によみがえりました。中学生の時に私の体をゆっくり歩いて行ったあのぬいぐるみです。これが頭の方にやってきてその後眠ってしまったのでした。
私がじっと見つめるのにもお構いなしでそれはふわりと肩に乗ってきました。
「あっ?」
そこでひらめいたのです。もしかしてこのぬいぐるみは眠りと関係しているのではないか。私は頭を振ってじたばたしながらそれを両手でつかみました。つかんだ感覚はなく、なにか空気の塊のようなものが手を押し返しているだけでした。
それは抵抗するでもなく、私の両手にすっぽり収まっていました。本当にぬいぐるみのようです。
「おまえは……」
持ち上げて観察してみたもののやはり顔に当たる部位は見当たりません。どうしてこんな重さ、形のものが動くことができるのでしょう。あるいはこれも夢なのでしょうか。
夢ならそれでいい、と私は勢いのままぬいぐるみに尋ねていました。
「私を眠らせようとしている?」
それは、はい、と答えました。声を出したわけではなく、ぴくりとも動きませんでしたが、なぜか私には分かりました。頭の中に「はい」という文字が瞬時に入力されたようでした。その時の私にはその感覚が不思議とも思えませんでした。
「人間の頭にくっついて、それで眠らせる?」
──はい
やっぱりあの時にすぐ寝てしまったのはぬいぐるみのせいだったのです。
「毎晩?」
──はい
そこで、私は思いつきました。両手でぬいぐるみをしっかりつかんで尋ねました。
「あの、今日眠らないようにできない?」
本当に切羽詰まっていたのです。ここで寝てしまったら、時間の無駄になってしまいます。自分には時間がない、できるならずっと勉強していなければならない、そう考えるほど私は焦っていました。
それは戸惑うように少しのあいだ何の反応も示しませんでした。次の瞬間に私が理解したのは、眠りをもたらすそれと人間の関係についてでした。
それらは情報を食べるというのです。頭の中にあるいらない記憶や知識を食べるのだと。眠ることで頭が整理されるだとか寝る前に覚えていたことが朝起きたらさっぱり思い出せないだとかはこのぬいぐるみの仕業であるということでした。
そしてそれは、自分たちの食事に気づかれないように頭の中に夢を注入します。蚊が私たちを刺すときにかゆみの成分を注入するのと似ていました。
いわば互恵関係です。人間は頭の中のいらないものを整理し、それらは情報を食べられる。とてもありがたい存在のはずです。しかし私にとっては違いました。朝も晩も教科書と向き合い続ける生活、その中にいらない情報などありません。せっかく頭に入れたものを食べられてしまううえ、時間までも奪われてしまう。その時に私にはこの上ない悪者でした。
「もう私から食べた?」
私はそれをにらんでいたでしょう。
──少しだけ
悲しくてため息をつきました。これでは穴の開いた袋に水を注ぐのと同じです。
「後でまとめて食べさせてあげるから、今だけは寝たくないの」
──わかった
それだけ伝えると、ぬいぐるみは私の体から離れてふわふわ飛び、壁をすり抜けて消えて行ってしまいました。あんまりあっさり退場したので今のが夢だったのではないかと思えました。
それにお願いした効果はてきめんでした。眠気がやってくることは一切なく、百年戦争の顛末についても、覚えられたかどうかはわかりませんが一通り理解しました。世界史の勉強をいったん切り上げようとしたころには東の空が白んでいました。少し休憩しようとベッドに横たわり目を閉じても夢がやってこないので、ああ、今日眠らないように出来ないか聞いたからか、と思いました。身を起こして窓を開け、息を吸い込むと泉水のように冷たく澄んだ真新しい空気で肺がいっぱいになりました。それから私は英語の単語帳を捲り始めました。
ひたすら机に向かい、手を動かし、疲れて眠る生活を続け、いずれやってくると思っていた日ももう目の前、最後のラストスパートという時期になっても成果は大して上がりませんでした。ほんの数か月前までは輝かしいキャンパスライフを思い浮かべながら勉強していましたが、今は第一志望に落ちたらどうしよう、それどころか一つも合格をもらえなかったらどうしようとまで考えるようになっていました。
ぬいぐるみとはあれ以来会うことはありませんでした。もしまた会えたら、受験本番まで一睡もさせないでとお願いしよう、それで受験が終わってからまとめて眠ろうなんて考えがありました。最後の悪あがきです。
しかし、そこで私はもっといい方法を思いついたのです。
眠る時間を勉強にあてたところで上がる点数などたかが知れています。それよりももっと、効率的に合格へ近づく道が存在しました。
その方法を思いついてから、私は眠る前の意識の混沌、ふとした時に彷徨う夢とうつつの狭間、そういった瞬間にあのぬいぐるみが目の前にまた現れないかと努めて気を張り探すようになりました。そしてその時は訪れました。
三度目の邂逅はまさに第一志望の大学の入試の前日、凍える寒さの夜でした。明日に備えて早く寝なさいと言われ、私は日付の変わる前にベッドに潜りました。肩まで布団をかぶって目をつむると自分の微かな熱が広がっていくのを感じましたが、眠気は遠く夢の端っこすらつかむことはできませんでした。もちろん緊張のせいでしたし、あのぬいぐるみにどうにかして会いたいと強く思っていたからでもあるでしょう。もぞもぞと寝返りを打ち、翌日のことで頭をぐるぐる回し、眠りに一歩近づいたり離れたりを繰り返すうちにそちら側へ引き込まれていく道中、私ははっと目を見開き、生成り色が視界いっぱいに広がり、来た!と思いました。
勢いよく上半身を起こすと何かが顔からぽとりと落ち、それがぬいぐるみでした。
「待ってたよ!」私は両手で持ち上げました。
──?
私はベッドの上で姿勢を正し、声をひそめました。
「あの、お願いがあるの。そっちにとっても悪い話じゃないはず」
それははいともいいえとも言わず、じっとしていました。とりあえず話を聞かせろということだと解釈しました。
「私、明日受験があってどうしても受かりたいの。だから少し協力してほしくて」
──協力
「会場にいる受験生たちを、私以外みんな眠らせてほしいの。そうすればみんなの点数が下がって私が受かる。おま……あなたはたくさん食べられる。どっちにとってもいいことでしょう」
──そこまで食事に困っていない
言われて、そうか、と思いました。だからこの前は寝たくないと伝えればすぐに去っていったのです。せっかくの作戦も頓挫かと落ち込む私にそれは言いました。
──しかし、できないということもない
「つまりできるってこと?」
──はい
私はそれを抱きしめました。空気の塊には柔らかさも暖かさもありませんでした。
「ありがとう。これで助かる」
──明日、仲間をたくさん呼ぶ
「仲間がいるのね」
ぬいぐるみは再びはいと答えました。このぬいぐるみたちにも共同体や社会があるのだろうかと思いました。私は試験会場と、詳しい方法を伝えました。終わってふと時計を見ると零時を過ぎていました。もう寝ようと思い、布団をかぶりました。おやすみと言ってもそれは答えませんでしたが、目をつむればすぐに降りていきました。
いま思えばこのころの私にはまだ善悪の区別に対する意識が低かったようです。
目覚ましが鳴るとぱちりと目が覚めました。よい寝覚めでした。私はてきぱき動いて準備しました。受験票や筆箱や腕時計は前日にリュックサックの中に入れておきました。朝ご飯を済ませたり着替えたり両親から励ましの言葉をもらったりして家を出ました。事前に調べておいた時刻の電車に乗り、二度オープンキャンパスの時に歩いた道をたどりました。周りには自分と同じで感情を押し殺したような、どこか体が力んでいるような高校生がたくさんいました。美しい大学の敷地に足を踏み入れ受験番号で振り分けられた試験会場を確認しました。私の会場は広い教室で、高校のと比べると四倍くらいはあるだろうと思われました。整列された六人掛けの長机の両端に受験生は座らされ、試験の始まる直前まで知識を頭に詰め込もうとしている様子でした。
私は昨夜ぬいぐるみに伝えた段取りを思い起こしました。段取りと言っても単純で、試験開始の合図から少し経ったら受験生を眠らせる。試験終了と言われたらやめる。私は決して眠らせない。試験会場については私を目印にして探す。ということでした。
いつの間にか時間が過ぎると問題用紙解答用紙が配られ、試験が始まりました。知らない英単語の中に埋もれた、なんとか理解できそうな文脈を掘り起こす作業をしていると、段取り通り無数のぬいぐるみがやってきました。大きさは私が以前見たものと変わりませんでしたが、色と形はそれぞれに異なり、幼いころの記憶のような色合いで、なんとなく動物に見えなくもない形をしていました。それらが次々と壁を通り抜けてくる様は工場見学のようでした。
しばらく戸惑ったように教室の空を漂っていましたが、次第に一つ一つ受験生に近づいていき、ヘルメットよろしく頭に覆いかぶさりました。どうして私以外の生徒にはその姿が見えないのでしょう。ぬいぐるみをかぶった受験生たちはゆっくりと船を漕ぎ始めたり、いきなり突っ伏したり、しばらく眠気と戦って敗れたりしていました。眠らせる相手のいないぬいぐるみたちは帰っていきました。やがてこの教室で手を動かしているのは私だけになりました。耳にしみるほどの静寂です。ちらりとホワイトボード前の試験監督をうかがい見ると、怪訝そうな顔をしつつも中断させることはできない、といった様子でした。作戦の成功に浮かれつつも四つ目の長文を読み進める途中で試験終了の合図があり、ぬいぐるみは頭から離れていきました。
受験生たちは目を覚まし、試験時間が終わったことに気づいたようでした。一瞬教室がざわめきました。平静を装っている者が多いなか、落ち着かない様子で周りを見回す者や頭を抱える者、すすり泣く者もいました。
二科目目の国語も始まり、同じようにぬいぐるみがやってきました。さっきと比べると抵抗を試みる姿が多くみられましたが、最後はみな眠りました。国語は得意なので余裕をもって最後まで解き終わりました。試験が終わると、荷物片手に教室を飛び出していく受験生がいました。諦めたのでしょう。教室全体に重い空気が立ち込めているようでしたが、受験会場とは常にそうなのかもしれません。
最後の科目は苦手な世界史だと、気合を入れて始めました。ぬいぐるみたちも手慣れた感じでまた受験生たちを眠らせていきましたが、ひとつはぐれたものがいました。そう、さっき飛び出していった生徒の分でした。淡い青色に人の手のような形をしたそれは、しばらく教室を周遊したのち、私の方へやってきました。眠らせる相手がいないからでしょう。
私は慌てて、近づいてきたそれをつかみ、小声で
「話を聞いていなかったのか!」
としかりつけました。投げ捨てられたぬいぐるみは床でバウンドしました。
時間のロスはありましたが何とかぎりぎりで解き終わり、ほかの受験生たちは悲嘆に暮れた様子で、私は作戦がすべてうまくいったことを悟りました。その場でガッツポーズしたくなる気持ちをこらえました。
手ごたえを感じながら帰る道は心が軽く、皮算用とはわかっていながらも大学ではどんなサークルに入ろうかなんてことを考え始めました。昼下がりの電車は空いていました。車内がいつもより明るく感じられました。私は端の席に腰かけ、ドア脇の壁に頭を預けると勉強の疲れがやってきたのかすぐに瞼が重くなってきました。
ずっと正座していると足がしびれて惨めな気持ちになります。白い床はいやに冷たく、布越しに体温を奪われていくようでした。することがないのでうつむいていると自分の左手の甲に青あざがあるのを見つけました。キリンのようです。なんでこんなところにとひと撫ですると途端に鈍く痛み始めたので気づかなければよかったと思いました。それから、今自分が夢を見ているのだと理解しました。
夢だと分かってみる夢は少し気まずく、かかわりのない親戚の葬儀を思い出しました。白くやたら天井の高い部屋をどうにかして退出したいと考えましたが、寒さのせいか身動きが取れませんでした。しばらくそうしていると、正面の壁をすり抜けてこちらへやってくる大きな物影がありました。モップのような長い毛足が見え、高さは十メートルはあろうかと思われました。全体が見えるとそれは人型をしていましたが、頭はなく胴体から四つの手足が伸びているだけのシンプルな形でした。巨大なぬいぐるみという感じもしました。
「おい」
それは確かにそう言いました。工事現場のような低く凄みのある声でした。しゃべれるのか、と私は驚きました。
「おまえか、うちのこらをいいようにつかい、ろうぜきをはたらいたのは」
怒っているということははっきり伝わってきたので何か言おうとしましたが、口を開けても声は出せませんでした。巨大なぬいぐるみはこちらへ一歩近づきました。遠目に見ると灰色だった体はよく見ると様々な色が混じりあっていて、毛羽立った表面が細かく震えていることまで分かりました。
「ひるまからでかけてくやつがおおいとおもったら、へんなところにあつめてやがる」
首を横に振りました。声が出せたらとりあえず、違う!と叫んでいたでしょう。
「うちのこらがしごとできなくなったらこまるのはおれだけじゃない、おまえらもだ」
壁から今度は小さなぬいぐるみが出てきて、ふわふわ飛んで巨大ぬいぐるみに近づき撫でられてまた消えていきました。その手がこちらにも向かってきました。
「もうおまえのところにはうちのこらをよこさない。これはばつだ」
言われたところで目が覚めました。「罰?」顔を上げると最寄りの駅だったので慌てて降りました。
さっき変な夢を見たなという感じはしましたがそれより、寝過ごすところだった危ないと安堵が勝り夢の内容はすっかり忘れてしまいました。思い出したのは次の日の夜です。前の日つまり試験のあった日の夜私は眠れませんでした。しかし神経がまだ興奮状態にあるのだろうと思いあまり重く受け止めてはいませんでした。ただ二日連続で眠れないとなると話は変わってきます。私はかなり寝つきがいい方ですから、修学旅行であっても連日眠れない夜を過ごすという経験はありませんでした。ベッドの上で数分おきに右に左に転がり布団をかけなおしたり枕の位置を変えてみたりしていたずらに時間を費やし、ふと受験のことを考えたりしているとそういえばあのぬいぐるみはどうなったのだろうと思いました。毎夜私のところには来ているはずですがこれまでその姿を見たことは数度、しかしまた機会があるなら礼の一つでも言いたいのです。今晩も眠れないまま明け方のよく響くカラスの鳴き声を聞くのか、ぬいぐるみは私を寝かしつけに来ないのかと不安になっていると、水がしみこむように電車の中で見た夢の記憶が一気によみがえりました。
ビルほどもある大きなぬいぐるみが怒った様子で私に語り掛けていました。おまえのところにはうちのこらをよこさない、と言っていました。もしあれがぬいぐるみたちの親玉だったとしたらその意味することは……と考えると頭から血の気が引きました。しかし、いいように使い狼藉を働いた自覚はありました。自分はとんでもないことをしてしまったのではないかと私はやっと気づきました。
第一志望校を受験した日、変な夢を見た日からすでに数年が経ちました。私は一度も眠っていません。あの巨大なぬいぐるみの与えた罰はそういうことでした。
受験には落ちていました。数千人いる受験生のうち数百人を蹴落とした程度でボーダーラインに手が届くほど私は頭がよくなかったようです。第三志望だった大学に合格していたのでそちらに進学しました。いま考えると、ずるをして受かった大学より自分の実力相応のところに行けたことはむしろ良かったかもしれません。入学当初こそ第一志望校への未練を捨てられずにいましたが、講義を受け友達を作りゼミに入りとしているうちに自分のいるべき場所はここなんだと確信を持てるようになっていました。
眠れないというのは受験の直前でもない限りありがたいことではありません。何日間睡眠をとらないと人間の体はおかしくなる、という話はどこかで聞いたことがあります。体を休めるとか頭の中を整理するとかいう効能があるからでしょう。私は眠れない代わり、毎夜ベッドに寝転がり上を向いて深く息を吸い、数時間の間なるべく頭を空っぽにしてそれでようやく体力を少しずつ回復しています。眠れていたころのことを思い出し、とりとめのない連想ゲームで心を漂わせたりもしますが夢の贋物すら得られません。嫌なことや不安な気持ちがあると全く体は休まらず、日と日の境界が曖昧で、自分はもしかしたら死ぬまでの長い時間ずっとこの頭に意識を宿し続けなければならないのかと途方に暮れます。それでも体を壊さずにいられるのはそれもまた与えられた罰なのか、あるいは私に眠りに関する何か特別な才能があるのかわかりません。もしなにか才能があるなら、ぬいぐるみの姿を見ることができたのもそのおかげなのかもしれません。
私はいまでも自分のしたことや夢の中で言われたことを反芻しては、どうにかして償い許されることはできないのかと考えます。何がいけなかったのでしょう。受験生を眠らせたことでしょうか、ぬいぐるみを投げ捨てたことでしょうか、その両方でしょうか、あるいは他でしょうか。自分が道から外れた行いをしてしまったのだということは分かってきましたが、では正しい、かくあるべき道が何であるか一向に明らかになりません。
大人になってくるとしぜん人と関わることが増え鏡を目の前に置かれるように自分を見つめなおさねばならなくなってきて、己の幼さや不誠実さの輪郭が明瞭になるごとモラルや社会性は自動でインストールされるものではないのだと突き付けられます。自分の手で獲得するものなら周りの人たちはどこでそれらを獲得し、私はどこで見落としてきたのだろうと思います。私はいま、周囲との関係の中で大人になるために欠けていたパーツを探し出しそれを補う作業をしている最中です。すでに手遅れの感もありますが、自分を修復していくのはパズルをそろえるような楽しみも少しはあり、それがまた同時にかつての悪行の償いにもなればいいなと思いますがこればかりは分かりません。私はまさしく夢のようにぼんやりした世界を脱しようとしているようです。
だから、そのさきで眠ることができればいいなと思います。
夢を見るまで 合野 @gou_no
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