キスはダメ


 教室の外は授業前なのもあって人が少なかった。遅刻ギリギリで登校してきた生徒が居るくらい。


 それでも話を聞かれたくないし、教室が並ぶ廊下を通り抜けて、屋上に続く階段の方に向かった。ここなら誰も居ないし。



「こんな場所まで連れてきて、いったいなんだよ?」



 階段の踊り場に着き、掴んでいた腕を離すと健は面白いものでも見るように私を見下ろした。唇に笑みをたたえて余裕たっぷり。連れて来られた理由くらい分かってるくせに。



「健。美雪と本気で付き合う気はあるの?」



 静かな廊下に私の声が響く。

 

 健が本気で美雪と付き合う気があるならいい。祝福するよ。だけど、ただ単に弄ぶつもりでいるならヤメて欲しい。美雪は健のことが本気で好きなんだもん。遊びで付き合っても傷つけるだけだから。



「は?ねぇよ。あんなん1回ヤッて終わりだろ」



 だけど、健は片眉を上げてバカにしたように小さく吹き出した。


 やっぱり。健は美雪のことを平気で傷つけるつもりなんだ……。あっさり遊びだと認めて笑う健に腹が立ってくる。



「ヤメてよ。そんなの。ちゃんと本気で付き合ってあげて」 


「んじゃ、セフレとして付き合うわ」


「何それ。ほんと……、健は女の子の体にしか興味がないんだねっ!!」


「だから?別に俺が女に体だけを求めようが、誰と付き合おうが、お前には関係ねぇだろ」



 怒りを込めて言った私の言葉に怯むことはなく、健はズボンのポケットに手を突っ込んで目を細めて笑った。その通りだし、それでも許せないし、言葉が出てこない。



 確かに健の恋愛に私が口を挟む筋合いなんてないよ。美雪だって喜んでたくらいだもん。でも、美雪が泣かされるって分かってるのに、このまま黙って見過ごすことは出来ないよ。



「まぁ、でも、お前が代わりに相手をしてくれるなら考えてやってもいいけどな」


「相手?」


「お前とやってみたい」



 首を傾げた私の頭を健が笑顔でポンポンと叩く。あり得ない交換条件つきで。


 どうして私が健とそんなことをしなくちゃイケないの……!うん。分かった。なんて言えるはずがないじゃない。



「な、何それ……」


「あぁ、わりぃ。キスもしたことねぇお子ちゃまには無理だよな?」



 狼狽える私を健はバカにしたように鼻で笑う。チビだの、童顔だの、お子様だの、言いたい放題。


 あぁ、ダメだ。目頭が熱くなってきた。健はいつも私に意地悪なことばっかり言うんだもん。チビで童顔なのを物凄く気にしてるって知ってるくせに。



「バカにしないで。私だってキスしたことくらいあるもん」



 涙が零れ落ちそうになるのを我慢して健を睨む。でも、私の小さな抵抗はあっさりと打ち砕かれ、健はケラケラとお腹を抱えて笑い出した。



「嘘吐くなって」


「嘘じゃないっ!」


「お前みたいなお子様を相手にする男なんて居るわけねぇだろ」


「居るもん。本当にしたことがあるんだからっ」



 嘘はついてない。涼としたし。5歳のときにだけど……!



「誰とだよ?」



 真剣な顔で言ったからか健は笑うのをヤメた。それでも半笑い。


 健は私と涼がキスしたことを知らないんだ?『涼とだよ』って言っても信じてくれるかな?


 子どもの頃からいつも3人で行動してたし、健のことだから『嘘つくなよ』って鼻で笑いそう。



「誰とでもいいでしょ」



 言うか言わないか迷った末に言わないことにした。大事な思い出だし、知らないなら秘密にしておきたい気もして。


 健はそんな私を気怠げに肩を揉みながら見下ろしてくる。何とも言えない表情だ。疑ってるみたい。お互い無言だし、ただただ沈黙が流れる。



「……言わねぇならキスしてやる」



 その状態が1分ほど続き、健は痺れを切らしたように小さく息を吐くと、指で私の顎を掴んだ。顔を上に向けさせられて強制的に視線が交わる。



「キ、キス?健と私が?」


「そ。俺とお前が」



 目尻の釣り上がった健の目が、からかうように私の瞳を覗く。呆然としてたら親指で唇を撫でられた。背筋がゾクッとして我に返る。



「ちょ、ちょっと、ヤメてよっ」



 慌てて健の肩を押し返す。だけど、両手でやってもビクともしない。その間も私の制止する声を無視して健の顔が近づいてくる。


 え、ちょっと……。健ったら本気?キスなんてしたくないよ。涼以外とは。



「い……、んんっ」



 嫌だって言おうとしたら誰かに背後から口を手で覆われた。包み込むように抱き締められて、頭がトンッとその人の胸板に当たる。



「ダメだよ」



 静かな廊下によく通る声が響く。その声の主が誰かなんて見なくたってすぐに分かった。だって、隣でずっと聞いてきた声だもん。



「……は?涼?」



 いきなり現れた涼に健が驚いたように目を見開く。私と同じで傍に来たことに全然、気付いていなかったみたい。瞳を揺らして少しだけ動揺してる。



「ヤメてくれない?」


「何が?」


「キスなんかしちゃダメだよ」



 涼はいつも通りやんわりとした口調で健に言った。物凄く冷静に。だけど、いつもと少しだけ声色が違う。怒ってるような。



「ぷっ……はははははっ!冗談だよ。するわけねぇし」



 私がそう感じたのと同じタイミングで健が急に笑い出した。ケラケラ大声で笑いながら私の肩を軽く叩いてくる。


 そんな健の態度に悔しくて涙が零れた。冗談であろうとなかろうと酷いよ。健にとっては軽いノリでも私は真剣に嫌だったのに。



「最低……」


「悪かったって」


「許さない」


「そんな怒んなよ」


「怒るに決まってるでしょ?」



 眉を顰めてとがめみても健は気にする素振りすら見せずに笑い続ける。反省している感じが全くしない。



「いい加減にしなよ。健」


「別にいいだろ。未遂だし」


「良くない」



 ヘラヘラ笑う健を涼が咎める。それでも健は笑い続けていて。じとっとした目で睨むと逃げるように「先に教室に戻るわ」と手をひらひら振って教室に戻って行った。



 ――♡――♡――♡――



 健ったらほんと冗談がきついよ。いつもいつも意地悪ばかり言うし……。


 

「……祐希」



 安心したら一度止まった涙がまた込み上げてきて、それが頬に伝った瞬間、涼から名前を呼ばれた。焦って息を飲む。


 そうだ。健のことに気を取られてすっかり忘れてたけど……。私、涼に抱き締められたままだ。



「あ、あの、涼。えっと。ごめんね?ありがとう」



 慌ててお礼を述べながら、そろっと下から顔を見上げてみる。すると思っていたより涼と距離が近かった。目が合いドキッと胸が音を立てる。


 気まずいやら恥ずかしいやらで1人ソワソワ。顔が熱い。だけど、涼は黙ったまま口を開こうとしない。離してもくれないし。


 もしかして、まだ怒ってる?どうして怒ってるんだろう……。



「ごめんね。怒ってる?」


「まさか。怒るわけないよ」


「本当に?」


「うん。それより大丈夫?」



 涼は体を離すと私の顔を覗き込んできた。心配そうに揺らいだ瞳が目に映る。


 そっか。怒ってるんじゃなくて私を心配してくれてたんだ?本当に涼はいつも優しいなぁ……。これ以上心配させちゃダメだし、笑わなきゃ。


 そう思うのに、1度出てしまった涙は空気を読まずに頬を伝っていく。息を止めても唇を噛み締めても止まってくれない。



「心配させてごめん。大丈夫だから」


「大丈夫に見えないよ」


「本当に平気」


「平気じゃないよね」


「ううん。ただ止まらないだけだから」



 一生懸命、笑いながら頬に伝った涙を手の甲で拭うと、涼は悲しそうに眉を寄せた。そんな涼の顔を見て胸がギュッと締めつけられる。


 涼は私のことを大事にしてくれてるのに、私は涼に辛い顔をさせてる。何をやっているんだろうって自己嫌悪。



「泣かないでよ。祐希」


「う、ん」


「健には後で注意しておくから」


「ありがとう」



 ゆるゆると口角を上げて笑う。すると涼は小さく息を吐いて目を細めた。そのまま腕を引かれて胸の中に抱き寄せられる。



「え、涼……?」



 突然の出来事に頭がついていかない。


 私、どうして涼に抱き締められてるの?ってかここ学校……。確かに今は授業中だし、誰も通らない。通らないけど、恥ずかしい。



「ごめん。暫くこのままで居させて?」



 でも、涼はあたふたしている私を逃がさないと言わんばかりに、更に力強く抱き締めてきた。


 恥ずかしいとはいえ、涼に抱き締められたのが嬉しくて素直にコクリと頷く。



 何だか懐かしい。昔もこうやって私が泣く度に抱き締めて慰めてくれたっけ?大好きな涼に抱き締められて、いつも嬉しかった思い出がある。


 年を重ねるごとにそれも減っていって、こうやって抱き締められるのは小学生以来。


 涼は私の幼なじみで16年間の付き合いで顔も昔の面影が残ってて。今も女の子みたいに可愛い。抱き締め方だって変わっていない。



 でも、子どもの頃とは違って涼の胸の中は意外と広くて……。凄くドキドキした――。



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