Siren's siren≪セイレーンズサイレン≫
パンドラ
温もりすら残されなくて
知りたいだなんて、思わなければよかった。
物語上の空想劇。そんなどうでも良いものに心を躍らせてしまった。
私はここからどうすればいいの?
ねぇ。教えてよ。この期に及んで縋ってしまう。
助けてよ。ここから私を救ってよ。
ねぇ。答えてよ。どうして黙ったままなの?
どうしてこうなったのか、私は後悔を続けることでしょう。
一生、忘れることはできないでしょう。
◇ ◇ ◇
「決して知ろうとしてはいけないよ。所詮私達は捕食者なのだから」
お母さんが私に教えたのは、私達セイレーンの鉄則だった。
人間を惑わし捕食する、私達セイレーンは他種族と関わりを持つことはなかった。
閉鎖的な種族。生まれた時から死ぬときまで、その在り方を定められている。
私たちは歌うたい。聞いた生物を意のままに操る魅力の歌を歌う。
声に魔力が宿っている。同じセイレーンでなければ、惑わされて我を忘れてしまうのだと。
だから、知ろうとしてはいけない。知る意味がないから。
よその種族は私たちを恐れる。圧倒的な捕食者。五感の一つを支配する者。
誰も私達からは逃れられない。その耳を潰さぬ限りは。
「いいね。私達はこの島から出ることはない。外の世界を知る必要もない」
外の世界。私も種族の一員として、決して知ろうとは思わなかった。
知る必要もなかった。あの日までは。
私たちは人を喰らう。でも、人ばかりを食べているわけではないの、たまに食べられるご馳走のようなもの。
たまに私たちの島の近くを通る船を見つければ、歌って惑わせておびき寄せてる。
そして貪り食う。本当にたまにしかない、数少ない楽しみ。
その日は、そんな楽しみの日だった。
海岸沿いで、難破した船から人を引きずり落として皆が喰らっている。
美味しいご馳走、分け合う暇もなく、皆夢中になっている。
私は一人、遠くからその光景を眺めていた。
なんだか不思議と今日は乗り気になれなくて。一緒に行こうって誘われても、食事に参加する気にならなかった。
見ているだけなのも退屈なので、海岸線沿いを歩くように散歩することにした。
海岸線には、船から零れ落ちた荷物が散乱している。食料だったり、衣服だったり。
私たちにとっては大事な娯楽。だから、人間が引っ掛かった日にはみんなお祭り騒ぎしているの。
向かうのは、私の秘密の場所。色々なものが流れ着きやすい場所が海岸線沿い岩場の裏にある。
私はそこに流れ着いた小物を眺めるのが好きだった。殆どがガラクタ同然のものばかりだけれど。
「……そこに誰かいるのか」
そこには、一人の人間の男が流れ着いていた。
よくよく見ると人間の腹には木の板が刺さっている。荒波にもまれた時に刺さったのかもしれない。
人ぐらい大きなものがここに流れ着くなんて、とても珍しいこと。不思議なこともあるのだと、少し興味を引かれた。
「良かった。人がいるんだな。俺の悪運もまだ尽きてないみたいだな、はは……」
人間の顔を見ると、目が潰れている。これも荒波に揉まれて水中で怪我したのだと思う。
だから、私の事を人間だと勘違いしているみたい。
実際に見れば、鳥の羽がある怪物だとわかるはずなのに。
「頼む、後生の頼みだ。俺はもう死ぬだろうが、これを
そう言って彼が懐から取り出したのは、一つの瓶だった。中を覗いてみると、何かが入っている。
「手紙だ。濡れねぇようにボトルに突っ込んだが、割れてないみたいで助かったよ」
流れ着いた男の人は心の底から安堵した声をしている。
不思議な男。本当に、不思議な人。
もう死ぬのに、どうあがいても死ぬのに、どうしてここまで幸せそうなの?
どうして泣け喚いて助けを請わないの?
「誰かはわからないが、頼んだ。ああ、よかった。これで、思い残すことはねぇ……」
私は不思議すぎて、黙ったまましばらく彼の様子を見ていた。
静かに息を引き取るその時まで、幸せな表情のままだった男の人を。
どうして? これから死ぬという人間は、恐怖のあまり泣き叫ぶものだと思っていた。
これを私に渡したから、幸せな気持ちで死んでいけたの?
これに一体どれだけの意味があるの?
たかだか瓶の中に入った紙切れに、どれだけの価値があるというの。命を失っても惜しくない何かがあるというの。
せっかく一人で味わえるご馳走が目の前にあるのに、私の興味はもうそこにはなかった。
私の興味は手元のちっぽけな光るガラス瓶と、その中身にばかり注がれていた。
結局ご馳走を食べることなく、私は家に帰った。
家には一足先にお母さんが戻っていて、今日の戦利品の残りをさばいていた。
「お母さん」
「ん? 途中からどこかに行ってたと思ったら、どうかした?」
「文字って読める?」
「文字?」
「文字を読めるようになりたいの」
お母さんは私の突飛な話に首を傾げた。
「本でも拾ったの?」
「本」
本。それを見つければ、文字が読めるようになるの。
探してみよう。海岸にはいろんなものが落ちている。きっと、本も落ちているはず。
また外に出ようとした私を止めるように、お母さんが出口を塞ぐ。
「駄目よ。本なんて」
「私、本なんて拾ってないよ」
「そう? でも、駄目よ。外の世界の事なんて知っても、何の意味もないんだから」
それ以上強くは言われなかった。
……お母さんがそういうってことは、この島で文字を読める必要はない。
だから、この島にいるうちは、この“手紙”の本当の意味を知ることはできない。
あの人が残した、命にも代えられる何かを、知ることはできない。
私は島を出る決意をした。
どうしても知りたかった。泣き叫ぶだけでない、初めての人。あの人が残したものが、どれだけの価値があるのかを、知りたかった。
命乞いする人々が叫ぶお金だとか、権力だとか、そういうものでない。命にも代えられない何かがここにはあるのだから。
「……じゃあね、皆」
別れの前に何かすることはなく、私は翼を広げてひっそりと島を出た。
何かすれば、決心が鈍ってしまうかも。誰かに悟られてしまうかもと思ってしまった。
外の世界に興味があるなんて知られたら、どれだけ怒られることか。外の世界に行こうとしてるなんて、どれだけ驚かれることか。
結果的には、それでよかったのかもしれない。
だって、嵐に飲まれて、酷い目にあったのだから。
飛んでいた最中、あまりの強風に羽がへし折れ、そのあとはきりもみしながら荒れ狂う水面に落ちた。
最終的には背中の翼がもげ、腕が折れ、ぐちゃぐちゃの状態で浜辺に流れ着いた。
私たちの島でなかったのは運が良かったのか悪かったのか。多分良かったんだと思う。
そこで一人で何もできず死ぬのかなと思っていたら、彼に助けられたのだから。
小さな小屋の中、私は目を覚ました。
丁寧に怪我は処置をされて、私は粗末なベッドに寝かされていた。
「ああ、起きたんだね」
柔らかな笑みを湛えた青年がそこにはいた。
「君、大丈夫? この近くに流れ着いていたんだ」
私はそっと無事な方の腕で懐にしまった瓶を探る。良かった。割れてはいないみたいだった。
「……もしかして、喋れない?」
私は問いに静かに頷いた。
喋れないということにしておけば、何かと都合がよかった。
私はセイレーン。喋れば、一言でバレてしまう。
人にバレればどうなってしまうか。人食いの怪物なんて、殺されてしまうに違いない。
そっかと少し痛ましい表情を見せた彼。
少し胸がチクリとする。
何か話題を逸らそうと視線を周囲に彷徨わせると、棚に見慣れないものを見つけた。
どうやら、紙が束ねてあるもののようだ。大変珍しい。
「ああ、本が珍しいの?」
本! 今本と言った!
思わず一冊手に取ってみる。これが、話には聞いていた本。
「僕の仕事でね。写本師をしているんだ。それらは仕事で書き写した本だよ」
本を、書き写している?
それを聞いて、思わず本を開いてみる。
確かに、何度も見た文字がそこには羅列されていた。
「……どうかした?」
「……っ! っ!」
「文字を指さして……?」
私は文字が読めない。でも、読めるようになりたい。
ああ、言葉にできればどれだけ早いことか。
じっくりと考えて、彼はようやく答えを見つけたみたい。
「ひょっとして、文字を読みたいの?」
「っ!」
全力で頷く。
「確かに、文字が読めれば喋れなくても会話ができるようになる……わかった。文字を教えるよ」
ありがたい話だった。本当に、この人に拾われたのは幸運だった。
私の目的はこの瓶の価値を知ることなのだから。
瓶の中身を読めれば、きっと私が求めているものがわかる、はず。
あの男の人が、最後まで笑って死んでいけた理由を。
「わかった。それじゃあ、今日はもう遅いから寝よう。明日から、文字を教えてあげるよ」
次の日から、言われた通り文字の勉強が始まった。
最初は、写本を眺めるだけ。文字を一つ一つ書きながら、読み上げてくれるから、音と文字を一致させる作業。
これにはそう時間はかからなかった。
彼の文字は素人の私が見てもとても分かりやすい字だったから。
だから、彼の文字ならばすぐにわかるようになった。
私は声を出せないから、それを彼に伝えることはできないけれど。
代わりにと言ったら違うかもしれないけれど。私は文字の練習を頑張った。
こっちはとても大変で、彼のように綺麗な文字は全然かけない。
彼が私の手を掴んで書く練習もさせてくれた。
貴重な紙を使って、写し取る作業すらさせてくれた。
「大丈夫、焦らないで。ほら、必要なら幾らでも用意してあげるから」
そう言って、拾っただけの私に親切にしてくれた。
どうしてもうまくいかなくて気分が落ち込んだ時は、買ってもらった竪琴を奏でて落ち着いた。
私はセイレーン。音の領分は私たちのもの。竪琴は昔から馴染みのある道具だった。
日ごろのお礼として、彼にリクエストを貰っては、喜んで曲を披露して。毎回拍手をもらう。
「すごいすごい! 吟遊詩人の弾く音楽を聴いたことがあるけれど、君ほど上手な人は見たことないよ! 宮廷にだって行けるんじゃないかな!」
弾いた曲を褒められるのは、なんだか私自身を肯定してもらえる気がして嬉しかった。
私が人間じゃないってことを偽っている後ろめたさが、ずっと後ろ髪を引いているから。
曲を弾いている時だけは、そのことを忘れて音と彼との世界に没頭できた。
また、別の日にはとてもおかしなことがあった。
仕事をしている彼を後ろから眺めていて、息抜きに振り返ったときのこと。
「ん? どうかした」
「……っっ!」
「何を笑って……ああ、インクがっ!」
インクが手についていることにも気づかずに、顔を手で拭って大変なことになっていたこともあった。私はそんな彼の顔を見て声を出さずに笑って、彼は照れくさそうに濡れた布で拭う。
気が付けば、無理なく笑えるようになっていた。
彼と一緒にいると、落ち着くからだろうか。
島にいた時とも違う。心の穏やかな時間があった。
町はずれの森の中にある、私達の小屋。私たちの楽園がそこにはあった。
「……読める、読めるよ!」
彼からその言葉を引き出せたのは彼と出会ってちょうど二年の歳月が経った日の事だった。
折れていた腕もすっかり治っている。羽は、幸いなことに生えてくる気配はなかった。
生えてきていたら、またもがないといけないところだった。彼と一緒にいるためには。
私が書いた文字は、まだまだ毒を飲んだ虫がのたうちまわるような見た目だけれど、彼には伝わったみたい。
自分の事のように喜んでくれて、思わずお互いに抱きしめ合う。
もう、私たちは家族よりのような、それよりも親密なような間柄になっていた。
それだけの時間を共にしたし、それだけの努力をお互いに見てきた。
「うん。読めるよ。ほら、他のも書いて見せて?」
『これ が わかる?』
「ああ、わかるよ。きちんと読めるよ!」
はっきりと意思疎通ができる。たったそれだけのことが、何よりも嬉しかった。
ずっともどかしかった。感謝を直接伝えたかった。感情を言葉にしたかった。
思わず涙が出てくる。分かり合える喜びの何と素晴らしいことか。
この二年間、彼と一緒にいて感じたことは。伝えられなことのもどかしさだった。
彼には感謝している。私に文字を教えてくれて、親切にしてくれて。
だから、文字かけるようになったら伝えようとずっとずっと思っていたことを書く。
『ありが とう』
私が書いた文字を見て、彼は私と同じように目に涙を浮かべた。
ずっとずっと伝えたかった言葉。ようやく伝えられた。
お互いに抱き合って、泣きながら笑って、よくわからない二人だけの時間を過ごす。
どれだけの時間が経ったのか。間違いなく幸せでしかなかった時間に区切りをつけたのは、彼だった。
「……それで、君はこれからどうするの?」
『どうする って ?』
「もう、君は文字を覚えた。なら、僕と一緒にいる意味はなくなったんだ。だろう?」
言われて、気が付いた。
確かにそうだ。私はこの二年間で大事なことを忘れてしまっていた。
いつの間にか、夜になったら瓶を眺める習慣もなくなっていた。あの波打ち際に倒れている男の人を思い出すこともなくなった。
本当に、私は、色々なことを忘れてしまっていたのだ。
愕然とした。それほどまでに、彼と過ごす日々は楽しかったのだ。
思わず、大事にしまっていた瓶を胸元から取り出してみる。
後生大事に持っていたそれは、今見るとただのガラス瓶。あの日見た輝きは、もう感じなくなってしまっていた。
「……それは?」
彼がガラス瓶に気が付く。
「ちょっと、いいかな」
呆然としている私の手から彼はガラス瓶をそっと取って、そのまま中身を取り出した。
今となっては、カピカピになった古びた紙。それ以上にも、それ以外にも見えなかった。
「これは。これは……」
私には読めない汚い文字を、彼はどこか懐かしそうな眼で眺めている。
読み終わると、また収まったはずの涙を浮かべていた。
「これを、どこで?」
『海岸で』
「そっか。そっかぁ……」
彼はどこか遠いところを見つめるように、空を見上げた。
涙が収まるのを待ってから、彼は顔を下ろす。それでも、目の周りは赤かった。
「ごめん。少し、話を聞いてくれる?」
私は頷くしかなかった。
「場所を変えよう」
そう言って、私たちは小屋の外に出た。
外は夜で、空には満月が浮かんでいる。虫たちの音色が森の中に響いていた。
丸太を椅子にして、向かい合うように座る。
乾いた薪を真ん中に放る。
「父さんは船乗りだったんだ」
パチパチと焚き火が私達の間で熾る。
「家に全く帰ってこない人でね。母さんは仕方がないってずっと言ってたけれど」
黙って頷くことで相槌を打つ。
「挙句の果てに、禁断の島に行ってくるだなんて。セイレーンの住む島に向かったっきり、音沙汰すらなくなったんだ」
そう言いながら、彼は手元の手紙を見た。
きっと、そうなのだろう。あの人は、そうだったのだろう。
沈黙が場を支配する。爆ぜる薪の音だけが夜闇に響く。
「ありがとう。この手紙を届けてくれて。これで、踏ん切りがついたよ」
そう言って、彼は焚火に手紙をくべてしまう。
思わず立ち上がってしまう。
私が、私が知りたかったものが灰になって消えていく。
いや、それよりも――。
「……それで、話を戻すと、君は今後どうするんだい?」
焚火から彼へ視線を動かす。
彼の眼は、どうしようもなく真っすぐで、何か覚悟を決めたような顔つきになっていた。
迷っていた何かが失せたような……。
「迷っているのなら、まだ一緒にいてくれないかな?」
少しだけ考える。
考えて、考えて、私は頷いた。驚くほど軽く動かせた。
幾ら考えても、頷く以外の考えが思い浮かばなかった。
「よかった。島に帰るって言われたら、どうしようかと思った」
思わず、動きが止まる。
島、島?
私は自分の出身地の話をしたことはない。当然、島から来ただなんて――。
何か言おうとして、すぐに思いとどまる。代わりに文字を書こうと枝を拾うと、必要ないと制止される。
「知ってるよ。何年一緒にいると思ってるの」
もう一度彼の眼を見る。とても優しい目だった。
「この手紙を見て、確信したんだ。お父さんは島に着いたって。なら、瓶がこちら側の海岸に着くはずがない。海流がそうなってるんだ」
彼の部屋にあった本を思い出す。そういえば、彼の部屋には物語や学術書の他に、海に関する本が多くあった。
写本用のものかと思っていたけれど、あれらは彼の私物だったのだろう。
だから、彼は理解している。この瓶を持っているものは、あの島からやってきたものしかいないって。
私が、あの島から来たんだと。彼が求めていた、禁断の島から。
「声を、聞かせてくれないかな?」
「……ごめんなさい?」
謝罪の意を込めて、彼の言う通りに言葉を発する。
私たちの声は人を魅了する。声に魔力が乗っているから。
けれど、悪意を持って発しなければ効果は示さない。
私たちは音の支配者。自分で出した音を制御できな未熟者なんて、赤子だけだ。
「うん、綺麗な声だね」
この日の彼の笑顔は、二年間で一番晴れやかだった。
パキリと焚き火の中の薪が割れる。
「どうして、島を出たの? わざわざ、あんな大変な思いをして」
「その瓶を私に渡した男の人は、死ぬ瞬間まで笑っていたの。だから、命に代えても惜しくない何かがそこにはあると思って。それが知りたかったの」
「父さんが。そっか、最後まで笑ってたか。なら、よかった」
今度は少しだけ悲しそうな彼の笑み。
父親の最後を知って、どんな気持ちなのだろう。 私にはわからなかった。
炎が揺れる。薪が全て燃え尽きて灰になるまで、私たちはそうやって炎を見ていた。
彼は私がセイレーンであることを受け入れてくれた。
彼と二人きりの間だけは、私は声を出せるようになった。
「ねぇ、どうして私を恐れないの? セイレーンが怖くはないの?」
「怪物が怖いかというのなら、怖いよ。でも、君は怖くない」
「私の声も?」
「操ってくれるのかな?」
挑発的に言われると、何も言い返せなくてそっぽを向く以外の選択肢がない。
そうすると悪戯が成功したみたいに彼が笑って、つられて私も笑う。
そんなひと時の甘いやり取りを、思う存分行える幸せを嚙みしめる。
でも、文字の勉強は引き続きやっていた。これが、彼との繋がりを最も感じていられたから。
彼と過ごすにつれて、どうしてあの人が最後まで笑えていたのか理解ができる気がした。
文字を知った今ならば、本当の意味で知れる気がした。
ただ、ある日唐突に彼が姿を消した理由はさっぱりわからなかった。
「……どこ? どこに行ったの?」
私は必死に探し回った。小屋の中、小屋の周り、近くの町にまで足を運んで。
どこにも彼の姿はなかった。
夜になって、朝になって、また夜になって、また朝になって、またまた夜になって……。
時間が解決してくれることもなかった。とある日を境に、彼は一向に帰ってこなくなった。
ある日、彼がいない間に小屋に埃が溜まってることに気が付いたから、掃除することにした。
本は湿気や汚れは厳禁だと彼が言っていたから、清潔にしないと。
帰ってきて、がっかりしないように。
棚にしまってあった一冊から、はらりとページが抜け落ちる。
拾ってみると、そこには彼の文字が記されていた。
内容を、見た。
思わず駆けださずにはいられなかった。
嘘だと言って欲しい、嘘だと笑って欲しい。
やっぱりやめたんだと、いつもの優しい顔で笑って欲しい。
本から抜け落ちた紙は、私への手紙だった。
『君の事を知ってから、どうしても考えることがあったんだ』
そんな一文から始まる手紙だった。
私の家族の事が気がかりだったこと。私が疑問の答えを求めて外に出たことで、どんな風に過ごしているのだろうかと。
自分にはもういないものだからこそ、気になったそうだ。
だからこそ、私の事を伝えに行くと。
正式に私の事を娶るため、許可を貰いに行くのだと。
本当の意味で、私と一緒にいるために。
涙があふれて止まらなかった。そんなことどうでもよかったのに。
私には、君がいてくれればそれでよかったのに。
形式なんて必要ない。ただ、ただ側にいられればそれでよかったのに。
『もしも、これを君が読んでいるなら、きっと事故に遭ってしまったのだと思う』
当然だ。セイレーンは人食いの怪物。
海域も荒れ狂うばかりで、危険が付きまとう。
普通の人が向かって生きて帰ってこれるはずがない。
それでも、彼は止まれなかったのだと思うと涙が止まらない。
私が勘違いさせてしまったの? 話せばわかると思わせてしまった?
私が、私が彼を認めて、求めて、温もりに甘えていたのが悪かったの?
私がもっと、彼にただいてくれればいいって伝えれば止まってくれた?
『残すべき言葉があるんだ』
私が悪いのなら、幾らでも謝るから。ごめんなさいって、言葉にするから。
『命の使い方を知りたいって、君は言っていたよね。なら、これだけは覚えていて欲しい』
命の使い方なんて、もうどうでもいい。
答えは既に分かったの。君のおかげで、知ることができたの。
私はそのためにあるんだって、そのためだけに生きていられるって胸を張って言えるぐらいに。
『どうか、笑っていて欲しい。それが、僕が命を使う理由だから』
海岸線、私は水平線の先に見えない何かを見て、ただひたすらに泣いた。
割れたガラス瓶が、波打ち際で物悲しく揺られていた。
Siren's siren≪セイレーンズサイレン≫ パンドラ @pandora
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