第6話
「唐揚げさんは知ってる? 統合失調症の家系の遺伝率」
「いえ、知りません」
「まぁ、普通は知らないわよね」
「それがどうかしたんですか」
俺はその後ろのめりのいい方に少しいら立つように声を荒げてしまった。奥様は落ち着いた様子で。
「うちの旦那も統合失調症なの。当時は精神分裂症と呼ばれて差別の対象だったんだけど、それを信仰の対象に転嫁することで、ビジネス化することにしたの」
「でも旦那さんは今はあんなに元気じゃないですか?」
「あの人はああ見えて何もできない人なの。私の支えなしでは」
「そうなんですか」
「たとえ、宗教家じゃなかったとしても本来の人間ってそういうものだと思うの。人は人との関係なしに生きていくことはできないの。孤立に陥った人間は静かに狂っていくの。統合失調症でなかったとしても。統合失調症はそれがよりそれが顕著になっただけの病気なの」
「そういうものですか」
「もし、あなたがお金が必要ならいくらでも出すわ。だから彼女のそばにいて頂戴」
「そういうわけには・・・」
「お願い」
「・・・」
「お願い」
「わかりました」
どうしようもなかった気がした。
なぁ、冬木さん。10年後、東京だって介護地獄になるらしいぜ。郷里に置いてきた両親もその時には80を迎える。俺もそうしたらさすがに東京にはいられないかもしれない。その時、俺たちはどうしたらいいんだろうな。
そんなことを思いながら、スパナを回し、相変わらず嫌味しか言わない嫌味製造機みたいなくそ上司に死ねと思いながら、「ご指導ありがとうございました」と言い、いっぱしの社会人を気取りながら、中身は子供のまま、40代を迎えてしまった。そりゃ~、酒の味も女の味も知っているけど、自分の本質はまだ子供なのだと思う。それは子供を育てたことのない大人になるという関門を超えたことがない、大人の思春期を超えたことがないからだと思う。好きなことをやるために上京し、好きなことをやるためにルームメイトと同棲し、結婚し、好き放題やって別れて、その結果、40代を迎えて、子供というものについぞ触ったことがない。そりゃ、思春期を超えられなくて当然なのだ。
そういう奴って多いと思う。大人なのに、子供とニンテンドウスイッチで話せちゃう大人。それが俺。金があるだけの子供。俺なんてビルメンだから、金は最小限だけど、時間だけは大量にあるから、好きなことができちゃう。都内に住んでるから車も持ってないし、そんなに困らないし。
「音大にはいかなくていいのか?」
「今日は休講なんです」
「そうなんだ。だいぶ体調良くなったみたいだな」
「おかげさまで。ご苦労おかけしました」
「それはご両親に言えよ。俺は別に苦労なんてしてない」
「これからどうするんだ?」
「とりあえずご飯食べに行きませんか?」
「あぁ、行きつけの店ならあるぞ」
「ええ、行ってみたいです」
「あんまり騒ぎにしないでくれよ。行きづらくなるから」
「わたしを何だと思ってるんですか」
「統失のちょっと厄介な女の子」
「唐揚げさん酷いですよ」
「冗談だよ」
冗談でもねえけどな。あの父親の件もあるしな。遺伝か。統合失調症は遺伝する。ちょっと留意しておく必要があるんじゃないだろうか。ネットで調べた限りだと。片側が統合失調症だと35%。両方だと70%が次の世代で罹患するリスクがあるらしい。怖い話だ。
統合失調症になるということは、一般就労が不可能になるということではない、と医者は言っていた。世の中にはわからないだけで一般就労している人もいるという。それはある種の希望だ。でもA型事業所で小遣い稼ぎをしたり、生活保護を受けたり、グループホームで余生を過ごしている人がいる人がほとんどだろう。多くの人が高い空を見ず、何もできないのが現状だ。誰だって宇宙には行けないように誰だってギリギリなのである。
彼女にとってB型事業所と年金が正しいのか、ピアノの練習をして、講師になるのが正解かはわからない。だが俺にはB型の本性とは障碍者を食い物にするだけの箱モノのようにしか思えないのである。A型は最低賃金が出るらしいからそうではないのかもしれないけど、少なくともB型には嫌悪感を抱いた。よくよく調べれば生活保護の人が正気を保つための居場所として利用しているとか書いてあるが、確かにそういうところとしては機能するのだろうなとは思った。賃金も最低でいいし、体力も保たれるし。とくに精神の障害を持っていると大変なんだろうと思う。必要な組織なんだろうと思う。
でも、冬木さんに至ってはまだ不要なんじゃないだろうか。
彼女には可能性があるような気がする。その可能性が尽きるまではもう少しチャレンジしてもいいんじゃないだろうか。ピアノが弾けて、日本の最高学府である東大も出てて、おそらくは英語などもしゃべれるのだろう。そのスペックの高さなら、何度でもやり直せる。そんな気がした。
もしかしたら自分の隣で働いている誰かが統合失調症である可能性だって十分考えられるわけだしな。120人に1人って数は相当数いるってことだぞ。絶望する数じゃない。なにより東京育ちのZ世代。最強じゃないか。仮にピアノがダメでも、他の道は模索できるだろう。
そんなことを考えていると、いつもの喫茶店についた。いつも朝飯を食っている喫茶店だ。
ここで作業着で飯を食って仕事に出かける。
「こんにちは」
「たかひささん、今日は彼女連れかね?」
「色々あるんだよ」
俺は否定も肯定もせず、ドアを開け、冬木さんを室内に招き入れると、ソファー側に座らせた。
「好きなもの頼んでいいぞ。でもモーニングだからあんまり遅い時間になるとランチになっちまうんだよな」
「唐揚げさん、たかひさっていうんですか?」
「そうだよ」
「なんで教えてくれないんですか?」
わなわなと彼女は震える。まるでチワワのようだ。いや、八尺様か。
「いう機会がなかったから」
「唐揚げさんの本名を教えてください」
「あっ、ああ。神田隆久と言います。」
「どういう字ですか?」
「とりあえず物を頼もう。あとボールペンとメモを」
そうして彼女にモーニングが届けられ、名前の書かれたメモがその手に握られてしまったのであった。
店から出た後、坂を下りながら、映画館に行った。俺が見たい映画というよりは、彼女が見たいと言っていた映画がやるというのでその付き添いだった。お母さん以外と映画に行くのは初めてなのだという。俺は一人でも映画に行くのは苦痛ではないし、研究と称して、映画を見に行くことはあった。冬木さんは券売機で障碍者向けのチケットを購入し、付き添いの人も一名までなら1000円になることを教えてくれた。つまり二人で2000円?安いな。
そんなことを思いながら、スタッフに障碍者手帳を見せて、上映された映画(その映画はデートムービーにはあまりにも凄惨だった)を見て、すげえ映画を見たなという感想を持った。
「すごい映画だったな」
「そうですね」
「あの映画の女版が私なんでしょうね」と彼女は言った。
そうかもしれない。精神障害(おそらくは統合失調症)があるアーサーが、ジョーカーへと生まれ変わるまでの物語はまさしく無敵の人の物語だが、アレの女版ができたとしたら、そうなるのかもしれない。
俺は何も言わないことにした。
「どうする。飯でも食ってくか?」
「そろそろお薬の時間があるので帰ります」
「そうか。お疲れさん。」
「唐揚げさん、私たち青春みたいですね」
「青春?青春なんて輝かないもんだよ。俺なんてもう40超えたいいおっさんだぞ」
「生きてるだけで丸儲けだ。でも死ぬことは許されない。生まれちまった以上な。そういう不条理の中生きてるんだ、俺たちは。でもいつか一晩くらいは生きててよかったと思える夜がくるさ」
「そういうもんですか?」
「あぁ、人間そういう風にできてるから。悲観しなくていい」
「人生死にたくなるってことは病気ってことだ。そういう時は俺に泣きつきに来いよ。近くにいなかったら電話しろ。出なかったらLINEでもいい。タイミングが悪くても返事はするから」
「優しいんですね」
「一回は結婚してるからな」
「そういうことじゃないんだけどなぁ」
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