第9話
その日の夕方、菜月の部屋のドアが突然乱暴に叩かれた。その音に驚いた武彦は、急いでソファの影に隠れた。菜月は一瞬だけ困惑したが、すぐに深呼吸してドアに向かった。
「誰ですか?」
「武彦いるだろ!開けろ!」低く荒々しい男の声が返ってきた。
菜月は一瞬怯んだものの、ドアチェーンをつけたまま慎重に開けた。そこには、武彦とどこか面影の似た中年の男が立っていた。だが、その目は血走り、酒の匂いが漂っている。武彦の父親だろうか。
「何の用ですか?」菜月はできるだけ冷静に問いかけた。
「何の用って、うちのガキが迷惑かけたんだろう。さっさと返せ!」男は不機嫌そうに叫ぶ。
菜月はその勢いに押されそうになりながらも、武彦の怯えた様子を思い出し、毅然とした態度を崩さなかった。「武彦くんはここで安心して過ごしています。あなたは何をしていたんですか?彼をこんな状態にするなんて、親として責任があるんじゃないですか?」
「はあ?うるせえ!あんたに関係ねえだろ!」男は壁を叩くように拳を振り上げた。
その音に反応して、隠れていた武彦が小さく叫び声を上げてしまった。それを聞きつけた男は、ドアをこじ開けようと力を入れる。
「おい、武彦!そこにいるんだろう!出てこい!」
菜月はとっさにドアを押さえ、必死に抵抗した。「出て行ってください!こんな状態で武彦くんを返すわけにはいきません!」
その時、近所の住人が騒ぎを聞きつけて廊下に顔を出し始めた。「どうしたんだ?」と小声で囁き合う声が聞こえる。
男は住人たちの視線に気づき、歯ぎしりしながら一歩引いた。「ちっ、面倒くせえ。覚えとけよ!」と言い捨てて立ち去った。
菜月の決意
ドアを閉め、菜月は肩を落とした。部屋の中は静まり返っていたが、ソファの影に武彦が怯えたまま縮こまっているのが見えた。彼女はゆっくりと近づき、優しく声をかけた。
「大丈夫よ、もういなくなったから。」
武彦は菜月を見上げ、目に涙を浮かべながら震えていた。「ごめんなさい……僕のせいで……。」
菜月は彼を抱きしめ、静かに言った。「謝らなくていいのよ。悪いのは、あなたじゃないから。」
その晩、菜月はこれ以上放置することはできないと決意した。明日、福祉事務所に行き、武彦の状況を相談する。彼を守るためには、自分一人の力では限界がある。
「武彦くん、これから少し忙しくなるけど、一緒に頑張ろうね。大丈夫、私がずっとそばにいるから。」
武彦は小さく頷き、涙を拭った。菜月の言葉が、彼にとって少しだけ安心感を与えたのかもしれない。
だが、菜月もまた心の中で覚悟を決めていた。この親はただの存在ではなく、武彦にとって深い傷を残した人間。その影響を取り除くには、多くの時間と努力が必要だろう。そして、最悪の事態も想定しなければならない。
君がたとえ痛くても 高見もや @takashiba335
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