第14話
翌日の、夜明け前。
ユリウスとアレックスは密やかに大聖堂を出て、広場に立った。
東の空が白み始めているところだった。鐘がなる前の広場は人の気配がない。両手を拡げて深呼吸をして、ユリウスは朗らかに笑う。
「楽しみだな」
「おう」
周囲にさとられぬよう、最低限の旅装だけを纏って。
ユリウスは、聖都レピエステの東側、すこし小高い丘のある方向を指す。
「あのあたりが良いと思う」
「ん、行こうぜ」
そうして、示し合わせることもなく、二人は同時に足を踏み出した。
市街地を抜けながら、二人は楽しそうに歩みを進める。
市中はすこしずつ目覚め始めているところだった。どこからか朝餉のやさしい香りが漂ってくる。
「カリスト猊下くんのところに行ったんだろ? 結局、バルコニーの話はどうなったんだ?」
「僕らが悪かったのさ」
「俺らかよ……」
「君も心当たりがあるだろう?
元老会は恐らくバルコニーの神樹の根が伸び始めていることは把握していた。点検修繕は必ず元老に報告が行くのだからね。そして、それを切り札として伏せておいた」
「青の大神官様のためにか?」
「彼女が法王になるためには、僕やラウルが失脚するか、名目上は僕らよりも実績を積む必要がある。
リューナール殿は順調に実績を積んでいる。もう少しすれば写本の数が十分に揃って、法王即位の認められる実績に届くだろう」
歩き慣れた二人の足は速く、とりとめのない話をしているうちにレピエステの市街地が終わりつつあった。外壁はあるものの、神官とその騎士であれば門番は何も言わずに通してくれる。
若い姿のユリウスが白の大神官であることに気づかない衛兵が、笑顔で送り出してくれた。
「巡礼ですね。お気をつけて」
「ありがとう。貴方に地底樹の神威のあらんことを」
街の外に出て、改めて息をつくユリウス。同じように伸びをしているアレックスに向かって、笑いかける。
「ようやく、この身体にも慣れてきた」
「俺ぁもっと前から慣れてたぞ」
「それは詰め所で暴れたせいだろう。団長が可哀想じゃないか。
――ともかく、リューナール殿を法王にさせるために、いつか崩落させて悲しい事故を起こすための切り札として、元老会は春の尖塔のバルコニーの危険な要素を放置した。
が、これが僕らの秘蹟の予兆で近くの神樹が育ってしまい、根が危険な箇所にまで入り込んで崩れた、と」
「そう繋がっちまうわけか。そりゃ悪いことをしたな」
「誰が悪いという話ではないよ。誰も傷つかなかった、それでおしまいにするのが一番収まりやすい。大聖堂の中はこんな面倒な話がいっぱいだよ」
しかし、ユリウスは嬉しそうに微笑む。
「でも、これから神官として皆を導いていく者は皆、そういった政治よりもちゃんと、地底樹に愛を捧げている。秘蹟の騒ぎのおかげでそれが知れただけで、十分だ」
二人はやがて、ユリウスが指し示した小高い丘へとたどり着く。
レピエステの西方に広がる海を一望できる、美しい眺めの丘だった。春の、すこしひんやりとした風が二人を撫でていく。
すでに日が昇っている。眩い朝日の光を受けて、ユリウスの身体がどこか内側から輝きはじめたように見える。
――否。ユリウスの身体は、実際に光を発していた。柔らかくて優しい、慈愛を見える形にしたような燐光だった。
「ここらで良いだろうか」
「良いんじゃねえの」
そしてユリウスが荷をおろしてアレックスに渡したところで――
「ユリウス様!」
予想外の声に呼ばれ、ひゅっと息を呑んだユリウスの燐光が止む。
「おいおい、大丈夫か」
「た、たぶん……」
背を撫でて心配そうに見やってくるアレックスの肩越しに、ユリウスの知己が丘を登ってくるのが見えた。
「ラウル、ルジェ……それに、リューナール殿まで」
「ユリウス様、アシュレイ顧問~。待ってくださいよう」
大荷物を背負ったルジェがぜいはあと息を乱しながら二人のところまで追いついてくる。ラウルとリューナールも続いて到着した。
「三人とも……どうして」
「黙って去られるなんて薄情ではありませんか」
すこし非難ぎみにそういったのはもちろんラウルだった。
「ラウル様に持たされたんですよう、これ」
半泣きになっているルジェが、背負っていた荷箱を示す。
「……苗木を、わざわざ用意してくれたのかい」
「必要でしょう?」
微笑むラウル。何もかもお見通しのようだった。
「うん。ありがとう。これでちゃんとした巡礼になる」
「私からはこれを」
次いでリューナールが布に包んだ何かを差し出してくる。受け取ったアレックスは、その重さから中身の心当たりをつける。
「写本……か?」
「ええ。こちら、ミノスの分院に届けることになっている教典です。お願いしますね」
当たり前のように宣うリューナール。
「えぇ……行き先まで決められてしまった」
「別に、お好きに巡って戴いて構いませんよ。そちらは急ぐものではありませんので。ただし絶対に損壊はしないように」
「道中の保証はできないから、真っ先に届けるのが一番無難なのだよ……」
アレックスから写本の包を受け取ったユリウスが、その重みでげんなりとした顔を見せる。リューナールはくすりと笑った。
「そういえば、お二人は、ラウル殿が巡礼を終えていないのはご存知ですか」
「リューナール殿、余計なことを」
ラウルが制止しようとするが、話が面白くなる気配を察知したアレックスがそれを留める。
リューナールはユリウスに向き直る。
「あれは、あなた……ユリウス殿が法王になるべく、自分が法王選出の際に辞退するための切り札なのだそうですよ」
「あらまあ」
口に手を当てて貴婦人のような驚き方をしたのは、ユリウスではなくルジェだった。ユリウスは少し困った顔をしてラウルを見上げる。
「ラウル……そんなことのために自分のことをおろそかにしてはいけないよ」
ユリウスから窘められたラウルは、しかし反省するどころか抗弁してくる。
「私は、何としても貴方の名誉を回復したいのです。あなたこそ法王に相応しいというのに」
「……そんなこと、しないで良いのだよ。君は君のために信仰をしてくれれば、僕はそれで十分報われるんだ」
かつて飢えで滅びつつある町でユリウスが救った少年ラウル。全てを捧げてガイエルに報いなければならないと思い込んでいた昔の自分と同じように思考が固まってしまっている。自分はアレックスのおかげでそれを脱したが、彼には残念ながらそういう間柄の人物がいない。
いつまでも自分のことを気にかけている彼を開放するためにも、やはり自分が去った方が良いのだとユリウスは悟る。もう唾を吐いたことだって忘れたり、笑い話にするだけで良いのだ。
そこに、静かにリューナールが口を挟む。
「未だ写本の実績の足りない私と、未だ巡礼の実績の足りないラウル殿。あんなことがありましたがカリスト猊下もご健勝のことですし、しばらく元老会も大人しくすることでしょう。どうか安心して出立なさってください」
「それで、いいのかい……?」
「私と父は違います。私はわたしのやり方で、教義を整備したい」
朝日を受けながらそう宣言するリューナールは、最も小柄であるにも関わらず、きっと最も威風堂々としていた。
感心したユリウスは、ラウルに向かって苦笑する。
「青の大神官は強いなぁ。
ラウル、ちゃんとご飯を食べて、もっと頑張らないと」
「――あなたが居ない世界なんて、何を食べても満たされない」
「うわあ熱烈」
ルジェがアレックスとラウルを交互に見え狼狽える。
ふんと鼻を鳴らすアレックスの前で、ラウルは一歩を前に踏み出してユリウスの手を取る。かつて自分が唾を吐いた掌に、恭しく唇を乗せ、こいねがうように言った。
「私も、お供させてはくれませんか」
ユリウスがやんわりとした、ラウルを傷つけない返事を口にする前に、アレックスがラウルを引き剥がす。
「だーめだね。ほら、ユーリ。もうやっちまいな」
「そうだね。皆、すこし下がっていてくれないか」
「何を……って、」
訝るラウル達の前で、ユリウスは指を組んで祈り始める。
束の間収まっていた燐光が再びユリウスから生じ、やがて全身を包み始める。
「地の底より我らを愛してくださる母なる地底樹アルカラル。ここに一つの……僕の願いを捧げます。
どうか、この者らに……そして、この街の民全てに、これから生まれ出る全ての子らに、久遠の幸を」
ユリウスが空を仰いだ瞬間、光が極限まで大きくなり、弾ける。無数の光に分かれたそれらは、きらきらと夜明けの空に広がっていく。
一つ一つの光がどこまでも空で煌めいている。まるで満点の星空のようだった。
「これは、秘蹟…………」
呆然とする面々の前で、肩の荷が降りたユリウスはようやく息をつく。その眼前には、いつの間にか神樹の若木が芽吹いていた。
ユリウスはその若木の丈を確認し、アレックスに向かって笑いかけた。
「ほら見たまえ、アレク。君のより大きいぞ」
「あんだよ、速さと大きさ比べなら晩にいくらでもやってやる」
「君のそういうところは本当に……いや、構わないか。もう我慢させるのも悪いからな。昨日の話の続きをしようか」
「言いやがったな。もう取り消しできねえからな」
アレックスは嬉しそうに笑った。
そんなことを言ってじゃれていると、ラウルが吐息混じりの声を発する。
「そういことでしたか……」
「ど、どういうことですかあ……?」
唖然としているのはルジェ一人のみ。ラウルとリューナールはすぐに合点がいったらしく、感心したようにほうと息をつき、指を組んで無数の輝きが満ちる空を仰いでいる。
アレックスに支えられ、ユリウスは三人に向き直る。
「そういうこと。先日のバルコニーでの秘蹟は……アレクのものだったのだよ」
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