第9話

「ラウル君。少し手伝ってほしいんだ」

 ラウルがいつも通りに礼拝堂の片隅で小さくなっていたとき。ふと顔を上げると目の前にユリウスが屈んでいた。

 吹雪が少しだけ和らいだ昼。それでも横殴りの風に乗って飛んでくる雪は十分すぎるほど世界から熱を奪っていく。

 十日ほど前、礼拝堂に人を集めて以来、ユリウスという麗しい神官は笑みを常に絶やさなかった。彼が明るく微笑めば、それだけで空気が華やぐ気がした。

「ちゃんと着込んでついておいで」

 そう言ってユリウスに連れられて向かったのは、礼拝堂の裏手、すっかり枯れてしまったかつての神樹だった。枝にも幹にも雪が付着し、白くぼやけている。

 この神樹が枯れて以来、メイナスに悪いことが続けざまに起きていると誰かが言っていた。

「人が来ないように見張っていてくれないか」

 言いながら、ユリウスは何かをよいしょよいしょと重そうに引きずってきた。途中、それが手からすっぽ抜けてよろめくユリウスを支える。ひどく軽い気がした。

 思えば、ラウルは彼が何かを口にしているのを見ていない。疑念が顔に出ていたのだろう。目が合ったユリウスは、内緒にしてくれとでも言うように、苦笑した。

「さて……見様見真似だから……うまくいくといいのだけれど」

 ユリウスが持ってきたのは、斧だった。

 その意図を察したラウルが思わず制止に入ろうとすると、ユリウスはその手を取ってやんわりと下ろさせてきた。

 冷え切って、傷んだ手が目に入る。笑顔しか見せないひとの、壮絶な苦労が垣間見えた気がした。

「見張っといて。大丈夫、悪いのは全部、僕だ。君は僕に脅されてここにつれてこられただけだ。おお、なんと極悪非道の神官よ」

 そんなことを嘯きながら、ユリウスは再び枯れた神樹に向き合う。

「枯れてから一年は経っている。乾燥も十分だろう」

 ラウルはさほど信心深いわけではない。それでもこの、目の前にある樹がとても尊いものだということだけは十分知っている。

「刃を入れる不孝を、お許しください――いや、許さなくてもいいから、どうか、咎は僕だけに」

 何も言えなくなってしまったラウルの目の前で――麗しい神官は、斧を振り上げ、神樹に突き立てた。


 ◆


「きれいな炎だ」

 さすがイオナス様の……と言いかけたところでユリウスは口をつぐむ。わざわざ自分以外の罪悪感の増すことを口にするべきではない。

 ユリウスが新たに持ち込んだ薪は、すぐに火にくべられた。

 ひとまず切り落とすことのできた小ぶりの枝を集めたもので、注意深く見ればその出所は窺い知ることができたはずだが、誰も表立って指摘はしてこなかった。

 隅に戻ろうとしたラウルを引っ張って、炎の傍に立たせる。すでに床板はすっかり剥がされており、礼拝堂の床は砂利の地面となっている。

「ラウル君。君さえ良ければ、この吹雪を乗り切ったらレピエステの大聖堂に来ないかい」

「……大聖堂」

「そう。エスレーヤは暖かい国だよ。近くに海もある。

 ……もちろん本物の海だからね」

 ユリウスは微笑む。

「ここだけの話、神官になるって言って、僕と……僕の先生の推薦があれば、多分問題なく承認されると思う。

 もし神官が合わないと思ったら、市井に降りることもできる」

 そして、ユリウスはあたりでぐったりとしている面々に「よければみなさんもどうですか」などとおどけて声をかける。誰もがつかれた顔ながらも苦笑し、首を横に振っていた。こんな寒さのこんな町でも、離れたくはないのだと。

「春さえ来れば、手づかみできるほどの銀の魚が戻って来るはずなんだ。そうしたら聖都なんて目じゃないくらいいいところになるんだよ」

 手を伸ばして炎にあたっていた老人が、ユリウスをむしろ諭すように言った。ユリウスはもっともらしく頷いて、笑った。

「それは楽しみですねぇ」

 老人はその後、少しだけ小さく低い声でラウルに語りかけた。お前さんは神官さまに着いていけばいいだろう。嫌な思いばかりさせて、悪かったな、と。

 ラウルはそれには返事をせず、ただ黙って目の前で優しく燃え続ける神樹の炎を見つめ続けていた。

 

 

 二週間。食糧が尽き始めた。

 吹雪は時折和らぐものの、雲は厚く空気は凍り、未だに次の季節の気配は無い。

 本来ならば春から夏にかけて冬越の蓄えをしなければらないときに流行病で身動きが取れず、さらに周囲の町からも助けがなかった小さな町は、それでも懸命に冬を越そうとしていた。

 少しずつ切り出していた枯れた神樹は、焚き木にすると他の木材よりもずっと長持ちをしている。長く眠るようになってしまったディアンはさすが神官といったところで、火にくべられているのが神樹であるとすぐに気づき――そして卒倒した。息があることを確認したユリウスは、何度も謝りながらもそのまま寝ていてもらうことにした。

 飢餓は、人から心の優しいところを奪っていく。少しずつ溜まっていた不満がついに表に出始める。

 ユリウスはけして弱音を吐かず、笑顔を絶やさず、町の人々を励まし続けた。そして神樹を切り倒し、火にくべ、罪を重ねていく。

 神樹を祈祷など正式な手順を踏まずに損壊することは大罪だった。葉を用いて効能の高い膏薬などを作ることはあるが、巡礼で植えられたものを神官自身が切り倒すことなど、恐らく前例が無い。

 できるだけ食べるものを切り詰め、外に出て定時の鐘を鳴らし、神樹を切る。手はぼろぼろで、全身がかさかさに乾いていく。笑みを絶やさないのは、ひどい顔をごまかすためでもあった。

 こんな自分を見たら、アレックスはどんな反応をするだろうか。人々が寝静まった後、ユリウスは炎の番をしながらそんなことを思う。

 寂しいな、と思う。もう何年も離れているような錯覚を覚える。

 日中、焼けになった町の男が「その食い物を調達してくれる連れとやらはもうどこかで野垂れ死んで、戻って来ないんじゃないか」などと言ってきた。激昂することもできず、ユリウスはどうか信じて待ってほしいと言うことしかできなかった。

 どうせ野垂れ死ぬなら二人一緒が良かった。そんなことすら脳をよぎって――

「――ッ」

 息を呑んで、はっと我に返るユリウス。

 判断力がひどく落ちている。このままでは理性を取り落としてしまいかねない。

 ユリウスは最後の最後にしようと思っていた手段を今から始めることを決めた。

「信心が足りなかったかな……もう少し育って欲しかったものだが」

 ちゃんと皆を救って下さいますようにと祈ったのに。ぶつぶつとそう言いながら、ユリウスはゆっくりと立ち上がり、礼拝堂の中心に近づく。

「あのう。ユリウス殿、何を……」

 神樹の炎のおかげか、今日は少し具合の良さそうなディアンが、ユリウスの様子を見て再び顔色を悪くし始める。

 ユリウスはそれに、平然と返事をした。

「多分このことを知っている神官は大陸で僕くらいだとは思うのだけれど、」

 ディアンと、ぐったりとした人々の前で、ユリウスは少しだけ悔みの滲むような笑顔を見せた。そして、口を開く。

「神樹、結構美味しいんですよ」

 今度は卒倒こそしなかったものの、ディアンは泣きそうな顔で天を仰いだ。ユリウスは申し訳ない気持ちでいっぱいになるが、それでも考えを改めるつもりはなかった。

 腰ほどの高さとなっている若木に、向き合う。

 かつて飢えのあまり巡礼にきた神官から苗木を奪い取って齧ったことのある、大罪の子がユリウスだった。今更恐れることなど何も無いのだ。

「母なる大樹アルカラル。どうか、咎は全て僕に」

 祈りというよりも告解のように。

 言い終えたユリウスは、神樹の若木のたおやかな幹を掴んだ。

 


 若木は細かく切って裂いて、雪を溶かしてスープにした。

 罪を犯し、禁忌を摂取して。罪深さで手の震えが止まらなかった。

 久遠に神威を汲み上げるための神樹を、切り刻み、煮る。アルカラルの聖堂では刑罰のようなものは無いが、信仰の篤い者が知れば刃物を持ち出して襲いかかってきてもおかしくはない凶行だった。こんなことをするくらいなら飢えて死ねと言う者すらいるだろう。

 材料を知り頑なに拒む者以外に、ユリウスは若木のスープを振る舞っていった。ユリウスたちの祈りを受けて多少なりとも神威を蓄えた若木は、口にした者の身体に少なからず滋養をもたらした。どうしても口にしたくないという者には、残った食糧を差し出した。

 神経の細さと飢餓ですっかり弱りきっているディアンは、それでも若木を口にすることを固辞した。それが正しい反応だと、ユリウスは思った。

 こんなものを笑顔で振る舞う自分は、どれだけの大罪を積み上げているのだろうとも。


 ◆


 約束の期日を過ぎても、アレックスは戻ってこなかった。

 神樹を切り倒し、若木を煮て食べて、それでも助けが来ずに、怒る気力も無く、ただ諦めの中で静かに泥の底に沈んでいくような空気が満ちていた。

 だが――彼が町を経ってから、二十と五日が経過した、その日のこと。

 ほとんど眠れないまま、ユリウスは身を起こした。天井近くの採光窓を見る。昨日より少しだけ明るいだろうか。

 かさかさに乾いてひび割れた唇で地底樹に呼びかける。簡易的に朝の祈祷を済ませた後、皆が起き出すのを待ってから――正確には、皆が生き延びているのを確認してから、外の鐘を鳴らしにいく。

 これは意地と、そして贖罪のようなものだった。そして、少しだけでも地底樹の神威にすがりたいといういじましい意図も。

 熱を逃さないよう扉をほんの少しだけ開けて、滑るように外に出る。そうして礼拝堂の横に据えられている凍りついた鐘に向かおうとしたところで――

 赤が、目に入った。



 予感が全く無かったわけではなかった。期待しすぎて、叶わなかったときに悲しくなることを考えて、その名を心の中でも思わないようにしていた。

 しかし今、確かな現実として、赤色の主は――赤毛をしたユリウスの騎士は、粉雪が舞う白い雪原の向こうから見る間に近づいてくる。ユリウスのために失った左目に眼帯をして、残った右目でユリウスを視認して。

 はるか遠くの彼と、目が合った気がした。

「アレク」

 小さく呼びかける。まだ声が聞こえる距離ではない。それでも、名を呼ぶ。

「アレク」

 何日も、口にできなかったその名を、何度も何度も、これまでの分を取り戻すくらいに。

 そうしている間にも、赤い人影はどんどん近づいてくる。「ユーリ」と名を呼ばれた。雪が音を吸う銀世界の中で、それでも彼の声はまっすぐにユリウスの耳に届いた。

「アレク」

 そうして立ち尽くして何度もうわ言のように名を呼ぶ間に、ついにその人物が――ユリウスの惟一の無二の騎士、アレックス・アシュレイが町の中、礼拝堂の前、ユリウスのところへとたどり着く。

「――アレク、」

 立っていることができなくなった。全身から力が抜ける。ぐらりと揺れたユリウスの身体を、雪に構わず猛烈な勢いで駆けてきたアレックスが腕を伸ばして抱き留める。

「ユーリ、ユーリ……大丈夫か」

 もう何年も聞いていなかった気がする、彼の低く強い声。触れたところから熱いくらいの彼の熱が浸透してくる。

 縋って、甘えたい。泣きながら顔を擦り付けたい。抱きしめてもらいたい――安心させてほしい。

 そんな直情的な願望がひとしきり顔を出した後。ユリウスは顔を上げた。

 乾いた唇を開いて出てきたのは、それらの言葉ではけしてなかった。

「食糧は?」

 ユリウスはきっと目を見開き、頭上のアレックスを仰ぐ。湧き上がる感傷を、しかし全て抑えつけて、ユリウスは神官としての務めを優先する。

「今から来る。俺だけ、先に来たんだ」

 言いながらアレックスは背後を示す。雪原の地平の先に、確かに黒い人影のようなものが見えた気がした。

「良かった。中に、僕よりも弱っている人がいる。すぐに用意を」

「――分かった」

 素直に了承したはずのアレックスは、しかし、逞しい腕を伸ばしてユリウスの全身を包んだ。

 ユリウスはぎゅっと強く強く抱きしめられて、そして耳元で、熱いくらいの声がした――


「もう絶対に離さねえぞ。愛してる」


 時が止まる。息ができなくなる。

 雷に打たれたようだった。びり、と全身が痺れた。なんという幸甚であろうか。

 ほんの二言三言に、ユリウスが何とか打ち立てた使命感が吹き飛ぶほどの熱量があった。

 頷きたい。縋りたい。そして――愛されたい。

 どうしようもないくらい、切ない気持ちが身体に満ちた。

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