第8話
「一応提案する。苗木を植えるだけ植えて、動けるうちに帰るべきだ」
元よりユリウスが頷くはずのない提案を、それでもアレックスは申し出る。
「神樹を植える以外に、俺らにできることはないぜ」
「うん……」
夜。家主は一番あたたかい自身の部屋をユリウスたちのために明け渡してくれたが、ユリウスはそれを固辞し、納屋のようになっている小さな部屋を借り受けた。食事も断り、残り少ない携帯食を一口だけ齧るにとどめた。
家主の男性によれば、冬さえ越えられれば、近くの川に魚が戻って来るために食糧の不安は無くなるとのことだった。しかし、バーテムの冬は長い。暦で言うならあと二ヶ月ほどは冬なのだという。
「俺らが帰る途中で、近くの分院か……町か、どこかに助けを求めれば良い」
「聞いただろう、どこも助けてくれなかったって」
「じゃあ、どうするんだ。木を植えて祈れば食いもんが湧くのか」
「……」
アレックスの乱暴な物言いに言い返す気力が無かった。ユリウスはそれでも何とか言葉を継ぐ。
「まず神樹は植える。それで、少しでも早く成長して神威を汲み上げてくれるように祈るしかない」
ユリウスは傍らに置いた、苗木を収めた荷箱をそっと撫でる。中には最後の一株が、植えられるときを待っている。これを植えてレピエステに戻れば、ユリウスは神官長として昇任することができる。
だが。
ユリウスは、首を横に振った。神樹は、けして昇任の道具ではない。そして、目の前の問題にしっかりと向き合う覚悟を決める。
「やはり……僕らで、食糧を持ち込むしかない」
「どうやって、どこから」
「バーテムの王都は……遠すぎるか」
「まだ本国のほうが近い。王都はどうせ雪だぞ」
「ふむ。大荷物で国境を越えることができるのなら、本国が確実だろうか……でも、関所を通れるだろうか」
そうやって顔を寄せ合って話し合っているうちに、いつの間にかアレックスの手がユリウスの頬に触れていた。
「俺は、お前が無事なことが一番大事だ」
少しだけ、熱を帯びた声。真剣な眼差し。
「……ありがとう、でも、」
「分かってる。お前はそういうやつだ」
その手はそのままユリウスの頬をむにっと摘んで伸ばした。ユリウスが抗議をすべく口を開いたところで、正面のアレックスと目が合う。
ユリウスの騎士。雪の光で少しやけた精悍な顔には、ユリウスへの親愛の情がいっぱいに満ちていた。
二人はもう十年ほども共にいる。そこに込められている感情に気づかないふりをするのも心苦しくなっていく一方だった。
「付き合うぜ。なんでも」
――清らかであれ。
アルカラルの教義がユリウスの心を固く固く縛る。
葛藤と逡巡の末。ユリウスはいつかのように、彼の肩に頬を預けて、感謝の心を示すことが精一杯だった。
◆
アレックスが食糧や物資を入手すべく町を発ったのは、翌朝のことだった。
「――必ず、二十日以内に戻る。何とか食いつないで、いい子で待ってろよ」
「どうか、気を付けて」
空は厚い雲に覆われており、夜が明けたはずなのに明るさに乏しい。今にも滂沱の雪粒が降りはじめそうだった。
ろくな食糧も持たないまま、アレックスはユリウスに見送られて出立した。食物に関しては鹿でも狩るなどと言っていたものの、このあたりではすでに狩り尽くしている。荷役用の馬すらすでに潰しているというのだ。さらに食糧を手に入れるための資金もあまり用意できていない。ユリウスの手紙を持たせたため、アルカラルの信仰の篤い場所であれば何かしらを調達できるはずではあったが、あらゆる面で心配が尽きない。
別れ際、冷えるからさっさと中に入れよと言われたものの、ユリウスは彼の赤い頭が雪の地平の先に見えなくなるまでその場に立っていた。
完全に見えなくなった瞬間、急に寒気に襲われる。ユリウスは身震いした。
一人ぼっちになったのは、いつぶりだろうか。
この巡礼の間、ずっとずっと、二人は一緒だった。特定の神殿騎士を帯同し続ける決まりがあるわけではないので、レピエステに戻った際に別の人物に頼むこともできた。それでも、ユリウスはアレックスと共にあった。最初から、生まれたときからこうだったと思えるくらいに。
「……いや、考えている暇なんて無いな」
ユリウスは何度か首を横に振って、感傷を追い出す。役割があるのはアレックスだけではないのだ。
残されたユリウスは、状況の把握をするべく街中を巡った。
メイナスは小さな町とはいえ、数十の家が立ち並んでいる。ただし、そのうちちゃんと人が住んでいるものは二十にも満たないように見えた。
ユリウスの訪問により、神官と知ると助けを求めてくる者。呼びかけても戸を閉ざしたまま応じない者。一戸一戸と訪ねていくごとに、ユリウスは事態の深刻さを思い知っていった。
そうして聞き取りし、備蓄なども確認した結果。当初の予想以上に町は困窮していた。暖を取るための割り木すらも底をつきつつあり、潰れた家の建材を少しずつ使っているというのだ。
このまま何もせずに静かに潰えていくつもりだったのだろうか。そう思うと胸の底がぞわりと冷える。
皆、生きる気力のようなものがどこか希薄で、もし春まで生き延びられたら、そこでようやく何かに許されるのだとでもいうような、諦めに近い思いで暮らしている。病に奪われたものが多すぎるのだ。
頬を真っ赤にした幼い子が空腹に耐えかねて雪を口にして、冷たさで泣いている。年老いた老婆が自分にはもう必要ないからと食事を抜いている。
ユリウスは言葉に詰まる。こんなとき、アレックスが居てくれれば直情径行で自分の分まで喚いてくれたのだろうなと思う。
だが、アレックスは今ここにいない。ここを救うために、ユリウスのために、雪原を進んでいる。
ユリウスは気弱な自分を叱咤し、行動を始めた。
「町の方をできるだけ礼拝堂に集めて下さい」
「は、はい……しかし、何のために?」
礼拝堂に戻ったユリウスが開口一番そう告げると、ディアンが首を傾げた。ユリウスは覚悟を決めて、答える。
「神樹の苗木をここに植えます」
「ここ……ですか?」
礼拝堂の中。ろくな明かりも無い暗い空間。丁寧な普請とは言えないつくりをしていて、どこからか冷えた空気が入り込んでくる。
「この寒さでは外の土に定着できるか分からないのです。裏に植えたものもあの有り様ですしね」
言うなりユリウスはアレックスから護身用にと預かっていた短剣を取り出し――礼拝堂の板張りの床に突き立てた。
「ひっ……」
ディアンが怯える前で、ユリウスは板の隙間をこじ開け、何とか隙間を作る。体重をかけながら短剣を押し込むと、板は少しずつひしゃげ、めくれた。その下には細かい石が敷き詰められており、ユリウスが凍えた指で何とかそれらをかき分けると、ようやく凍った土が現れる。
短剣は実用よりも装飾の意味合いが強いものと思われた。柄には優美な意匠が施されている。ユリウスは少しだけ逡巡してから、その刃を土に突き立て、苗木を植えるためのくぼみを掘り下げる。澄んだ刃は土と砂利にまみれ、輝きを失っていった。
「植樹の準備をします。その間にできるだけの人を集めてください」
立ち上がったユリウスが毅然とそう言うと、ディアンは気圧されたのか、こくこくと頷いて礼拝堂を出て行った。
◆
彼は、眠るのが嫌いだった。
眠ると、悲しい夢しか見ないのだ。
かつて商売に失敗し、妻に去られて失意の底にあった父と二人で、王都からできるだけ遠くへと逃げてきた。
そうして、自分たちのことを知る者が居ない、メイナスという小さな町にたどり着いた。幸い、心優しい人達に迎え入れられ、そこで細々と暮らし始めた。
流行病が町を覆ったのは、その少し後のこと。おぞましい熱病は、瞬く間に人々を屠っていった。
父親も例に漏れず、病に倒れた。看病の甲斐なく、ここにいない妻の名をうわ言で呼びながら燃え尽きるように事切れた。
父親を町の外れに弔った後、流行病を持ち込んだのはあの親子なのではないか。そんな声が聞こえるようになった。
憤った。反論した。それでも、自分への眼差しは暗かった。
道をろくに知らない。町を出て、どこかに行くこともできない。食べ物も尽きて、嫌われながら盗んだり奪ったりすることしかできない。
雪の重みで軋むちっぽけな家の中で、彼は縮こまって横になる。焚き木も食べ物ももう無い。夢は見たくない。でも、お腹がすくから眠るしか無い。寝ている間に屋根が崩れて、知らない間にここから居なくなってしまえばいいのに――
「おはよう」
「……ッ!?」
突然の、柔らかい男の声。がばりを身を起こすと、目の前に男がいた。
「まだ、動けるね。良かった」
夜明け頃の薄明かりの中、男は微笑んでいた。銀色の髪をした、見とれてしまうほどきれいな男だった。昨日自分が唾を吐いた相手でもある。
報復で殴らえるのかと思い身を固くするが、いつまで経っても痛みはない。
「町の人から、あまり好かれていないのかい。君のことを聞いても誰も教えてくれなかったから、探したよ。こんなところで寝て、寒かったろうに」
男は笑みを絶やさない。ゆっくりと目の前に手が差し出された。きれいな形の指は、しかし赤く傷んでいる。
「立てるかい? これから吹雪くよ。礼拝堂に行こう。今から神樹の苗木を植えるよ。少しだけだけど、食べ物も用意しているよ」
「…………」
男の本意が分からず、睨み上げることしかできない。それでも、父親よりも少し年下と思しきその男は、辛抱強く自分に手を差し伸べ続けた。
「そうだ。君の、名前は?」
「――ラウル」
思わず返事をしてしまうと、男が破顔した。
「僕はユリウスだ。おいで、ラウル。僕がいるから、大丈夫」
他人に名をちゃんと呼ばれたのは、久しぶりだった。なぜだか、急激に人恋しくなった。
ラウルは優しい顔をしたその神官の手を取った。その手は自分と同じくらい冷たいのに、なぜだか重なったところからぽかぽかと優しい熱が生じた気がした。
かすれた声で、ラウルは言った。
「俺が流行病をここに持ってきたんだ。怖くないのか」
「君が持ち込んだのかい?」
きょとんとして逆に聞き返される。
「……わからない」
よくよく考えると、自分がやりましたと宣言できるわけでもないのでゆっくりと首を横に振るラウル。
「僕はいろんなところを巡礼してきた。流行病は……どこにでもあり得る話だよ。聞いた限り、ちゃんとした薬と滋養のあるものを食べれば、回復する病気だと思う。まあ、今は無いのだけれど……。
今、僕の連れが取りに行ってくれている。心配しないで」
そう言って、神官だというその男はラウルの骨ばった手をぎゅっと握ってくれた。
そうして立ち上がり、手を引かれながら歩く。なぜだか、少し涙が滲んだ。
◆
外が吹雪き始めた。
町の者をできるだけ礼拝堂に集め、ユリウスは彼らを前に、床板を剥がした場所に神樹を植えた。
「地の底におわす母なる大樹アルカラル。ここに一柱の苗を迎えます。どうか神威をお与え下さいますよう。久遠の繁栄と、安住を賜りますよう、お願い申し上げます――」
指を組んで祈りを捧げた、その後。
ユリウスはゆっくりと立ち上がり、礼拝堂に集った人々に向き直った。
二十余人。家から出てこなかった者もそれなりにいるだろうが、町の規模に比べ、あまりに少ない。雪に閉ざされたせいで気づきにくかっただけで、すでにこの町は十分すぎるほど存亡の危機にあったのだ。
そして、さあ皆で吹雪が止むのを祈りましょう、神樹の神威を願いましょう、そう言うべき場面で――ユリウスは、強く宣言した。
「僕の連れが今食糧を確保しに行っています。彼が戻るまで二十日の予定ですが――できるだけのことをして、皆で生きますよ」
ぽかんと口を開ける面々を見て、ユリウスは明るく笑ってみせた。
これが、自分にできる最善だった。
「お家に帰っていただいても構いません。無理に食糧を供出しろとは言いません。ですが、少しで良いので皆で分け合いませんか。家に薪の無い方は、こちらでお休みになっていただければ」
銀の髪を揺らし、懇願と強要を少しだけ混ぜながらにっこりと笑ってそう言うと、誰もがしぶしぶではあったが頷いた。
ユーリはこの年になって、ようやく自分という存在の最大限に効率的な使い方を覚えた。
幼い頃は自分の顔が嫌いだった。物心ついて以来、顔しか褒められなかった。顔を目当てに汚い手が迫ってきたこともあった。巡礼中のガイエルに救われて神官となってからも、顔に言及されることが嫌で仕方なかった。顔ではなく、信仰心や行いを評価してほしかった。
いつからだろうか、自身の顔を好きになれたのは。
――きっと、レピエステを発って巡礼を始めてしばらくして、ふとした瞬間に、アレックスの赤みを帯びた瞳に映る自分の顔が、とても幸せそうにしていたことに気づいたときだ。
「――では、各自取り掛かってください。僕も手伝います」
ユリウス自身もすでにほとんど食べていない。偉そうにのたまっている間に腹がならなかった幸運を密やかに地底樹に感謝する。
自分で隠しておきたいもの以外の薪と食糧を集めてくれ、寒さがしのげるように布や綿、藁も。そう指示した後、ユリウスが礼拝堂で待っていると、それなりの量が集まった。干し肉に、芋に、乾ききったパンも。とはいえ、噂を聞きつけて遅れてやってきた者などをあわせて三十人ほどになり、単純に人数と予定の日数で分けるとやはり厳しい。
集めた薪を積み上げ、足りない分は崩れた家などから拝借したが、火を絶やさずに暖を取り続けるには足りそうにない。
ユリウスはそれでも不安を顔に出さないようにして、できるだけ穏やかに微笑んで彼らに声をかけ続けた。
神樹の若木の周りには、神威のためか柔らかい空気が生じる。植えたばかりでまだまだ神威は少ないものの、老いた者、弱った者を近くにやり、神樹から少し離れたところに火を炊いた。
締め切った空間で火を焚き続けると妖魔に命を取られると言われる。が、この普請ではどこからともなく隙間風が抜けてくるため、敢えて塞がずに隙間風を自由にさせることにした。
絶対に二十日以内に戻ると、アレックスは言った。ユリウスはその言葉を信じるしかない。それまで、何としても全員を生存させなければならなかった。
そうして、一週間が経過した。
吹雪が止む気配は無かった。心労ですっかり弱ってしまったディアンによると季節特有のものでまだしばらく続くかもしれないとのことだった。
暖房のあてのない十名ほどが常に礼拝所で寝泊まりしているが、他に、寝るときだけ家に戻る者、毎日顔だけ出してくる者など、様々だった。ユリウスは誰一人として取りこぼさないようにと一人ひとりの顔と名、そして住処を覚え、会話を欠かさないようにして状況を細かく確認していった。
夏から秋にかけて流行病に襲われて目減りしすぎてしまったという町の人々は、どの家庭も構成がいびつだった。どうしてこんな老いぼれを生かしたのかとしわくちゃにしながら涙する老人。おとうさんが居なくなってしまったことをあまり理解できていない幼子。それぞれの一家の中から病の妖魔が気まぐれにつまみ食いしたかのようだった。
ユリウスは少しでも彼らの心が安らぐように、毎日説話を披露した。幸い、大陸中を巡礼してきたため、お話の材料は豊富にあったのだ。
かつてシュレーフェンで海と湖を間違えた話で、誤った祝詞を迫真の熱演で披露したところ、声をたてて笑う者すらいた。
しかし、食糧は目減りし続ける。燃料も、残り少ない。
アレックスの約束した期日まで、まだ半分以上残っている。
飢餓は人の心を苛んでいく。自分の話程度では限界があることをユリウスは、薄々感じ始めていた。
ユリウスに倣って食事を極力控え始めていたディアンが、元々の体力の低さからか倒れてしまったのだ。
町の人々も元々衰弱している者が多く、限界が近い。
ユリウスは、予てから決めていた覚悟の一つ目を、実行に移すことにした。
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