第5話

 再度、五十年前のこと。 

 エスレーヤの隣国、シュレーフェンの王都にて。

 ガイエルというアルカラル教会の高位の神官の依頼により、彼と彼の弟子の青年の護衛を務めることとなったアレックスは、詳細な仕事内容を聞いて仰天した。

 ――第二王子の即位により王位継承権を剥奪され、シュレーフェン王国を放逐される第一王子を、隣国エスレーヤ東部のアルカラル教会の分院にまで連れて行くこと。

 第一王子ジギスムントの亡き母親はエスレーヤ王家から嫁いた姫君だった。そのため、王位の継承権を剥奪され王宮から追い出されることとなった彼の受け入れ先として名乗りを上げたのが、エスレーヤ王家の声のかかった分院だった。

 だが、帯同のための登城を許されたのは大神官と、神殿騎士一名、小間使い一名のみ。明らかに、道中での『事故』を目論んでいる指示だった。

 切った張ったなどできそうにない老人と、そこらの小娘よりもひ弱そうな青年とともに、争いの種にしかならないであろう人物を国境を越えてまで守り抜く。

「――んなもん、不可能だろ」

 抗議の言葉を否定してくれる相手は居なかった。ガイエルは鎮痛そうに目を伏せ、ユリウスは唇を噛んでいる。

「第二王子……いや、もう国王陛下か……。途中で刺客を差し向けて殺す気満々じゃねえか」

 吐き捨てるように言うアレックス。責めているわけではないものの、声には否応にも棘が交じる。ガイエルとユリウスはひたすら沈痛な顔をするしかなかった。

 それでも、そこを何とか、と縋られるかと思いきや、神官たちの目に浮かぶのは懇願ではなく、諦観だった。

「……やはり、我々だけで行きましょう」

 絞り出すようなユリウスの言葉を、ガイエルは否定しなかった。

「……は?」

 怪訝な顔をするアレックスの前で、ガイエルは再度深々と頭を下げてきた。

「呼び止めてしまい申し訳ない。今の話はこの耄碌した老いぼれの戯言でございました。どうかお忘れくだされ。

 窮地を救っていただいたこと、まことに感謝いたします」

 話を終えようとするところに、アレックスはぼそりと割り込んだ。

「そもそも……神殿騎士ってやつは、どうしたんだよ」

 ガイエルは動かなかったものの、後ろのユリウスがぴくりと身じろぎした。

 そのまま言葉を待っていると、やがてガイエルが観念したかのように口を開く。

「帯同しておりません」

「……はぁ?」

「彼には……家族がいたから。ガイエル様と私で話して、決めたのだ」

 言葉を継いだのはユリウスだった。

 ようやく、この状況の輪郭が見えてくる。明らかな死地に向かうにあたって、家庭のあるものは置いてきたというのだ。アレックスは呆れ半分怒り半分で腕を組んで嘆息する。

「所帯持ちは逃がしたってことか。

 ――で、お前らは逃げずに死にに行くってことか?」

 神官たちは頷きもしなかったが否定もしなかった。

「お前らも逃げりゃいいだろうよ」

 狂っている。率直に、そう思った。こんな性根をしているのが友人や身内なら怒鳴りつけて、殴りつけてでも根性を叩き直すところだが、目の前にいるのは先ほど会ったばかりのよく知らない神官二人。

 冷静に考えれば、こんな条件の悪い話など放りだして去ってしまえばいいだけだった。それなのに、功名心だか義務感だか、よくわからない感情がアレックスの足をその場に引き止めている。

 ちらりと、奥のユリウスを見やる。小さく唇を噛んで、睨み返してくる。お前になんか頼るつもりはないぞという意思が見えるようだった。

 先程の、蜂に襲われかけていたときのことを思いだす。追い払ったりやり返したりつもりもなくただ襲い来る痛みに怯えるだけのか弱くひ弱な青年。

 もし刺客が現れたら、きっと同じようにしてただ傷つけられ命を落とすのだろう。それが最善なのだと思い込んで。

 もったいないな――そう思った。

 アレックスは小さく肩をすくめてから、いったん大きく息をつく。それから、言った。

「……で、俺がその神殿騎士とやらの役をやればいいのか?」

「!」

 神官二人が揃って息を呑み、顔を上げる。期待と、疑いの色が見て取れる。

「ただし、危なくなったら、逃げるからな」

「ええ、ええ……勿論それで構いません」

 アレックスの意図を正しく汲み取ったガイエルがアレックスの手を取り、祈りを捧げるかのように深く頭を下げてくる。

 その後ろ、ぎゃんぎゃんと反対してくると思われたユリウスは、最初こそ何か抗議するべく肩を怒らせていたものの、次第にそれは萎んでいった。結局、口に出したのは拒絶や抗議ではなく――

「……済まない」

 覇気のない謝罪だった。まるで、アレックスが死ぬことが決まったかのような。

 そんな顔をさせるつもりではなかったのに。アレックスは話が好転したというのに沈んでいる二人に、負け惜しみのように告げた。

「別に、死ぬつもりはねえからな」

 

 ◆

 

 夜更けの湖畔。湖に面した王城の堅牢な城壁の片隅に、小さな通用口があった。敵が攻めてきた際になだれ込まないようにと一人ずつ、ほぼ四つん這いでしか通れないようなつくりになっている。

 ガイエルら三人はそこで待っていた使いに身分を改められ、暫時待たされていた。

 やがて小さな扉が開き、一人の男が静かに這い出してきた。立ち上がると、夜風に吹かれて豪奢な金髪が揺れる。

「ジギスムント陛下でいらっしゃいますか」

 待ち構えていたガイエルが問うと、その男は頷く。

「いかにも。貴殿らがアルカラルの使徒か」

 先代ルーケル王の第一王子、ジギスムント。アレックスやユリウスよりも十ほど年嵩の、男盛りの様相だった。たった今王城から放逐されたというのに、その顔に失意の色はない。

 そうこうしている間に、彼が這い出てきた通用口が、もはや用済みとばかりに中から閉ざされる。

 ガイエルが一歩前に踏み出し、一礼する。

「黒の大神官ガイエルにございます。お迎えに上がりました。エスレーヤ、東の分院までお連れいたします」

「よろしく、頼む」

 放逐されてもさすが王族と言うべきか、かれは頭を下げはしなかった。

 元王子と、老いぼれと、ひ弱な弟子と、そしてその場しのぎで騎士のふりをする自分。なんと奇妙な一行だろうか。アレックスは肩をすくめたくなるのを堪え、ユリウスとともに大人しくジギスムントを迎え入れた。

 そうして、一行は西へと向かうこととなるのだが――予想通り、その道程はまっすぐすんなりと伸びてはくれなかった。



 国境を越えるまでに襲撃は三度あった。それぞれ数人のごろつきのような風体の男だった。ただの山賊か、もしくは山賊を装った刺客か。アレックスがそれなりに腕が立つのに加えて、ジギスムント王子にも心得があるらしく、自分の身を自分で守ることができたため、アレックスの負担が相当に軽減された。無論守らねばならない相手なので危険に晒さないようには心がけたが。

 問題は襲撃よりも神官二人――特に若い方の男だった。

 毎日三回だか四回だかの祈祷を欠かさず、食事の前にも地底樹とやらに感謝を捧げ、時間を費やす。貴人の移動という隠密行動に全くといって向いていないし、襲撃のときには足手まといにしかならない。いっそ二人をおいて自分ひとりでジギスムント王子を護衛したほうが楽で安全なのではないかとすら思えた。

 さらに街道をそれてとある村に立ち寄らねばならないと言い出したときは、流石に二人を置いていくことをアレックスは真面目に考えた。しかし、人目につかないようにアレックスと同じような傭兵の格好をしたジギスムントは逆にガイエルの申し出を簡単に承諾してしまった。

「私は構わんよ。貴殿らに相伴っていただく身だ」

 不思議な人物だった。全てを失い追放されたというのに、目には強い光が残っている。何も諦めていない、そんな目だった。

 街道から脇道へ入り、半日ほど進んだところに目当ての場所はあった。小さな村落で、数件の家屋と家畜と畑のみ。住民よりも家畜のほうが多いくらいだった。

 こんなところに何の用があるのかと思えば、苗木の植え替えなのだという。礼拝所すらない村の片隅に、隠し持ってきていた苗木を植えるのだと。

 ここに来るまでの道中、ユリウスが何かを大事に抱えており、山賊に襲われた時すらそれとガイエルを守るべく身を固くしていた。その荷物がこの苗木だったのだ。

 アレックスは後からこのときの事情をユリウスに知らされることとなるのだが――村では、かつてシュレーフェンの分院の神官長が巡礼の際に植えた苗木が枯れてしまった。軽率に再度の植樹の依頼をすることもできず困り果てていたときに、ある村人が王都へ向かう途上のガイエルを街道で見かけ、頼み込まれた。そしてガイエルは縁の深い分院より密かに譲り受けた次の苗木を持ち込んでとりなすことになったのだとか。

 苗木が枯れること、それ自体は珍しい話ではない。神樹は神官によって植樹され祈りを捧げると、その土地に適したかたちをとって成長していくものだが、土壌に気候、それに手入れが噛み合わなければ地底樹の加護に根が届かず枯れることもある。だが、神官の巡礼の証でもあるため、とくに高位の神官が植えて残したものであれば民は丁重に扱うことが多い。

「面白い仕組みだな」

 一連の出来事を興味深そうに眺めていたジギスムントの言葉に、祈祷を終えて立ち上がったユリウスが言い返す。

「あなた様もこの務めに従事することになるのですよ」

「おっと、そうだったな」

 これからアルカラルの分院に預かりの身となるはずの彼は、しかし神官達の行いを他人事のように、いっそ見世物のようにしか思っていないようだった。祈祷にも加わらずこの植樹さえも面白がって見ている。ガイエルの方は諦め半分といった様子だったが、ユリウスは我慢ならなかったのか、目を怒らせてジギスムントに対峙した。

「お言葉ですが、」

 自分よりも一回りは大きく、強く、そしてはるかに身分の高いジギスムントを見上げて、毅然と言った。

「本意がどうであろうと、我々はあなたに洗礼を施し分院にお連れすることを元老より申し付けられております。洗礼は途上ではありますが、すでにあなたはアルカラルの信徒なのです」

「ユリウス、」

 ガイエルが戸惑い気味に制止してくるが、ユリウスは続ける。

「地底樹へ祈る心を軽んじてもらっては困ります。これはあなた様の務めでもあるのです」

 そのまましばらくユリウスが睨んでいると、何も痛痒を感じていない様子のジギスムントがやがて小さく息をついた。

「……そうだな。改めよう」

「そうしていただけると幸いです」

 それだけを言うと、ユリウスは肩を怒らせたままどこかへ行ってしまった。ガイエルは何か言いたそうにしていたものの、直後に駆け寄ってきた村人に平伏じみた礼をされて身動きが取れなくなってしまっていた。

 


 その日は村落で寝泊まりさせてもらうこととなった。村人たちはジギスムントの顔を知っているはずもなく、アレックスと同じく用心棒だか神殿騎士だかだと思っているようだった。道中ではできるだけそういう間柄を装っていたため、これまで気づかれることはなかった。

 その後、心ばかりの食事を提供してもらえることになったものの、いつまで経ってもユリウスの姿が見えないため、アレックスが席を立って彼を探しにいくこととなった。

 春先のシュレーフェンは日没後もしばらく空が青みを帯びており、かすかに風景が視認できる。

 アレックスの予想通り、ユリウスは村の片隅、神樹を植えた場所に戻ってきていた。ただ黙って立ち尽くしているようだった。

「飯だぞ」

「分かっている」

 呼びかけに返事だけをして、ユリウスはやはり動こうとしない。

 仄暗い空気の中で、ユリウスの白い手がかすかに震えているのが見えた。

「……まあ、よく言ったよ」

 ガイエルを盲信するなよなよしくていけ好かないひよっこ神官だと思っていたユリウスが、下郎と称したアレックス相手ならともかく、貴人に向かっても毅然とした態度を取ったことで、アレックスは彼のことを少しだけ見直していた。

「褒められるようなことではない」

 頑なな声だった。アレックスは嘆息する。

「そんなに潔癖だとこれから苦労するぞ」

「僕は、ガイエル様をお守りできたら、それで良い」

 その言葉の裏にある妙に純度の高い決意を感じ取り、アレックスは彼のすぐ近くまで歩み寄って、低く唸る。

「前から薄々感じていたが……お前、死ぬつもりか?」

「……」

 顔を上げたユリウスだが、返事はない。だが、否定もされなかった。

 アレックスはこの数日間のユリウスの立ち回りを見て思うところがあった。地底樹への信仰心の他に、ガイエルに対する忠誠心が強すぎるのだ。

 暴漢が襲ってくれば、ユリウスは迷わずガイエルを守るためにその前に立つ。必要とあらばいつぞやのごとく覆いかぶさってでも庇おうとする。

「お前、大神官様のために美しい理由で死ねたらいいとか思ってんのか」

「美しいかどうかは関係ない。ガイエル様をお守りすることに何の問題があるというのだ」

 空が次第に闇色を帯びていく。銀の髪に白い肌をした麗しい神官がそこにいるのは視認できるものの、表情までは分からない。だが、きっとジギスムントに相対したときのようにキッとアレックスのことを睨みあげているのだろう。

「お前ェ自身はそうやってガイエルサマを守って死ねたら満足かもしれんがな、人間の身体ってのはちょっといいことをしただけで使い終えていいもんじゃねえよ」

「何が言いたいんだ」

「お前が野党の一撃だけから庇ったところで、その後どうせガイエルサマも死ぬのは分かるよな?」

「……っ」

 息を呑むユリウス。アレックスは低く続ける。

「まあ、逃げ切って運良く生き残ったとする。それからお前の亡骸はどうなる」

「そんなのも、捨て置けば良いだろう。獣にでも食われて無くなってしまえば良い」

 予想通りの言葉だった。ユリウスの根底にあるのは信仰心どころか破滅願望に近いものだ。

 どこかでガイエルのお役に立って死ぬことを望んでいる、そんな素振りをずっと見てきた。そしてとても面白くないとも感じていた。

「お前が命をかけて守りたいと思ってる相手はそういうことをするのか?

 お前の崇拝するガイエルサマは自分を守った人間を亡骸を獣に食わせるような相手か?」

「それは……」

「きっと、どうにかしてお前の亡骸を弔ってやろうとするだろうな。引きずって聖堂まで連れ帰るなり、その場に埋めるなり、獣に食われんように一先ず樹の上に上げて近くの人家まで助けを呼びに行って返ってくるかもしれねえ。いずれにせよ、とんでもなく手を煩わせることになるんだよ」

 夜が進んでいく。月星が瞬き始める。

 宵闇の中で、若き神官は拳を握って俯いている。アレックスは言い聞かせる。

「お前自身は大切な相手を一瞬でも守れて幸せに終わることができるだろうが、お前が死んでも世界は続くんだ。大事な人間を護るってのは、そういうふうにほんの少しの危害から守って満足気に死んでやるだけじゃねぇんだ。死にものぐるいであがいてあがいて、どうしても駄目ってときまで諦めるんじゃねえ。もし死ぬとしても、守りたい相手がその後に少しでも長く、できることなら幸せに生き延びられるようにするんだ。

 今度そんな投げやりに死のうとしたらぶん殴るからな」

 アレックスが言葉を終えた後、少しの静寂を挟んでから、小さく返事があった。、

「……わかった」

 消沈した声。

「君の言う通りだ。少し――投げやりになっていたのだと思う」

 ユリウスの声は震えていた。

「本当はガイエル様はお一人で来られようとしていたのだ。神殿騎士も僕も連れずに……。

 わざわざ王都で護衛を探して君をつけてくれたのも、おそらくは僕のためだ。

 でも、僕はなんとかしてあの方のお役に立ちたかった。今の僕はあの方のおかげで生きているだけなのだ。蜂や……野党からお守りすることで、自分が役に立つ人間なのだと知らしめたかったのだ……」

 ユリウスが喉をつまらせる。きっと嗚咽を堪えているのだろう。

「命の恩人みたいなもんなんだな。それなら命を投げ捨てるよりも長く孝行してやった方が喜ぶに決まってんだろ。

 エスレーヤまで、ちゃんと護ってやるからよ、その間は安心して孝行しな」

「…………、ありがとう」

 ふいに、ふわりとユリウスの気配が動く。次いで自分の肩に柔らかい感触。ユリウスが自分に凭れかかったのだとアレックスが気づいたころには、彼の身体はすでに離れていた。

 二人はその後食事に戻り、ジギスムントとも問題なく話すことができた。ガイエルも胸をなでおろしており、久しぶりにそれなりの休息を取れることとなった。

 ――触れるか触れないかといった程度のその感触が、なぜだかアレックスはいつまでも忘れられそうになかった。


 

 結局、山賊に何度か遭遇しただけで、刺客らしい刺客は現れなかった。そのうちのどれかが刺客であった可能性は否定できないが。

 十日余りの移動の末、ジギスムント王子一行は無事に国境の関所を抜け、そこから少し進んだところにあるアルカラルの東部分院へとたどり着くことができた。

 分院の手前には迎えの神官が立っており、それを見たユリウスたちはようやく肩の力を抜いた。

「おつかれさん」

 いつ危害が降ってくるか分からないシュレーフェンは、敵地のようなものだった。エスレーヤに戻り、アルカラルの分院を目にして、やっと気が抜けたのだろう。

 アレックが声をかけると、ユリウスは屈託なく笑った。目尻を下げて少し幼さを感じさせるような、きれいな笑顔だった。

「ジギスムント殿下。お待ちしておりました」

 深々と頭を下げる神官。そのままジギスムントを招くように、遠くに見える分院を指す。鐘楼を戴いた石造りの堅牢な聖堂。安堵の象徴のようだった。

 皆と同じように気を抜いていると思われたジギスムント王子は、しかし剣の柄に手をかけていた。

「合言葉は? エスレーヤのミルドリオン卿から指示があっただろう」

「!」

 アレックスたちが息を呑んだのと、その神官が黙って背から刃物を引き出したのは、ほぼ同時だった。

 短い凶刃は陽光を受けてギラリと光り、そしてジギスムントへとまっすぐに向けられる。

 そのとき彼に一番近いところにいたのは、ユリウスだった。

 簡単に命を投げ出すな。できるだけ生きろ。そうアレックスが諭した麗しい神官は、しかし迷わずジギスムントの前に身を乗り出した。アレックスは無我夢中で手を伸ばし、ユリウスの腕を掴んだ。

「――ッ!!」

 一瞬の後、焼け付くような痛み。

 アレックスは構わず抜剣し、眼前の男を切り捨てる。

「アレックス!」

 顔の左側が燃えているようだった。視界が赤く染まっていく。ユリウスの悲鳴がどこか遠く聞こえる。

 ジギスムントを庇おうとしたユリウスと身を入れ替えたアレックスは、刺客の凶刃を顔の左に受けてしまっていた。

 傷の程度を確認する暇はなかった。刺客が一人とは限らない。縋ってくるユリウスをやんわりと引き剥がし、アレックスは血の味の滲む喉で叫んだ。

「走れ!」

 荷を全て打ち捨てて走り、分院に何とか到着した頃には、アレックスの顔の傷からの出血は上半身を真っ赤に染まっていた。

 全員が無事に聖堂に入ったのを確認し、慄く神官たちの中に襲撃者の気配が無いことを一通り確認した後、アレックスは糸が切れたように昏倒した。ユリウスの悲痛な声が追いすがってくるが、構うことができなかった。


 ◆


 アレックスが意識を取り戻したのは、二日後のことだった。

 気づけば、僧坊らしき部屋の寝台に寝かされていた。

 横にはユリウスが控えており、アレックスの覚醒に気づいた次の瞬間には、空色の瞳が潤み、ぽろぽろと泣き出してしまっていた。

「済まない……僕のせいで」

 ユリウスは何度もそう繰り返した。何とか宥めて話を聞き出すと、命を投げ出したことと、さらにそれを庇ってアレックスが負傷したことで随分と自責を繰り返していたようだった。

「僕を庇ったせいで……君の左目が」

「……ああ、」

 アレックスは重い腕を何とか持ち上げ、顔の左側に厚く被さっている何かをそっと撫でる。痛みとともに、ぞわりと嫌な感触があった。そこにあるはずものものがなく、窪んでいる。

 アレックスは、左の目を失っていた。落ち着いていればもう少しうまく相手の刃を受けることができたのだが、あの状況下ではユリウスを下げながら自分の石頭を出すことしかできなかったのだ。

 ジギスムントのはらわたを狙ったと思しき刃は、それを庇ったユリウスの胸に真っ直ぐに向かっていた。あのままジギスムントに刺さっていれば命に関わる傷となっただろうし、ユリウスが刃を受けていれば、間違いなく彼の命はなかった。

 それに比べれば、自分の片目で済んだのは用心棒の仕事としては成功なのだが、どうやらユリウスはそう割り切ることができずにいるようだった。

 幸い分院の中にいたのは皆ガイエルの知る者で、刺客は居ないようだった。ジギスムントに刃を向けた男は、どこかで奪ったローブを纏って、分院手前で待ち構えていたようだった。息があるうちにジギスムントが聞き出そうとしたが、何も答えないままだったのだという。

 自分を見つめてほろほろと涙を零すユリウスを見上げて、アレックスは痛みを上回るような達成感、多幸感を覚えていた。

 ガイエル様ガイエル様、教義教義、地底樹地底樹――そんなことばかり言って、とんでもなく狭い視界をしていた青年が、今は自分を抱いて自分だけを見て自分のためだけに感情を乱している。

 きれいだな、と思う。そして――愛おしいとも。

「謝んなよ、」

「僕には君の失ったものを取り戻す力もないし、釣り合う報酬を渡すこともできない…………、いや、」

 しゃくりあげながらそう言ったユリウスだが、ふと何かに気づいて、涙を手の甲で拭ってから、呟いた。

「……秘蹟」

「秘蹟?」

 アレックスが見上げた先のユリウスは、どこか覚悟を決めたような目をしていた。

「伝承に近い話だが……。

 生涯を地底樹アルカラルに捧げた敬虔な神官には、一度だけ地底樹が大きな力を分けてくださるのだという。だから……」

「俺の目を治すためにその秘蹟とやらを狙うってことか?」

「そうでもしないと、君にしてあげられることがない」

 思い詰めたような表情が、なぜだか少し気に入らなかった。アレックスはユリウスのその顔をごしごしと擦り、いつもの大きな空色のお目々を自分に向けさせる。

「これは俺の実力不足で招いた傷だ。お前が気に病む必要はない」

「でも……」

「そう思うなら、そうだな……俺をお抱えの神殿騎士にしてくれよ」

「え?」

「地底樹の神官ってのは、苗木を植える巡礼とやらをするんだろ? お前もやるんなら、俺をお供にしろ」

 依然として涙の止まらない青い目に、少しの困惑が浮かぶ。

 道中から少しだけ考えていたことだった。職業としての安定もあるし、この若き神官のお守りをするのも楽しそうだと思っていた。さらには今のユリウスを泣き止ませるのに一番効果的だという目論見もあった。

「君が神殿騎士になるというのなら、できなくはないと思うが……」

「じゃ、決まりだな。ガイエル爺さんが口利きしてくれたら何とかなるんじゃねえの」

 その瞬間――それまでの弱気はどこへやら、ユリウスは縋るように大事に抱えていたアレックスの腕をはたき落とした。

 身体が揺さぶられ、元々の負傷もあって一瞬意識が遠のく。何とか正気を取り戻したアレックスは喚く。

「痛って……、おい、いきなり何すんだよ」

「今、何と言った!」

 怪我人を揺さぶったことに対する謝罪どころか、ユリウスの目には見たこともないほどの怒りが浮かんでいる。きょとんとしたアレックスが再度なんでもないように繰り返す。

「え、ガイエルの爺さん?」

 瞬間、彼の怒りは頂点に達してしまった。ユリウスは弾かれるように立ち上がる。

「きさま、黒の大神官たるガイエル様になんてことを……もう知らん!」

 そのままくるりと踵を返し、すたすたと歩いてどこかへ去ろうとしてしまう。アレックスが慌ててその背に呼びかけた。

「おい、待てよ。怪我人を置いていく気か」

「薬師を呼んでくる!」

 振り向かずにそう言って、ユリウスは肩を怒らせながら部屋を出ていってしまった。

 乱暴な足音が遠ざかっていく。アレックスは苦笑し、寝台に身体を投げ出した。

 顔の右側、おぞましい痛みは続いている。視界は狭い。

 それでも、ユリウスのことを想っていると少しだけそれが和らぐ気がした。

 いつしか、怒りも、悲しみも――もちろん喜びも。銀の髪をした青年の感情が自分に向くことが、どうしようもなく嬉しく思えていた。

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