第4話

 結局、寝て起きても二人の姿は変わらなかった。お互いの目に、銀の髪の麗しい青年ユリウスと、赤の髪の精悍な青年アレックス――出会ったときの年頃の姿をした相手が映る。

 緊張の糸がきれてしまったためか、昼下がりにうたた寝したはずの二人が目を覚ましたのは、翌日の早朝だった。大聖堂の鐘の音がしていなければさらに眠りこけていたかもしれない。

「嘘だろ、首も腰も何にも痛くねえぞ」

「めまいがしない、天井が回っていない……」

 眠る直前まで散々甘ったるい戯れを交わしていた二人の、起床後の第一声がこれだった。

 これまでなら自分の身体の重みに抗いながら何とか起き上がり、さらに立ち上がって活動を始めるのに相応の時間が必要だったというのに、今はすんなりと起き上がり、そのまますんなりと立ち上がることができる。

「朝……だよな。どれだけ眠っていたか分からん」

「頭がスッキリしすぎていて怖い」

 二人が熟睡している間に、ラウルの小間使いが着替えを用意してくれていたようだった。護衛だというのに他人の接近に全く気付けなかったアレックスが少し落ち込んでいた。

 その後も二人はキレが良いだの何だのと若い身体への違和を列挙し続けながら身支度を済ませる。

 再びラウルのものと思しき服を再び纏うユリウスに、アレックスはあまり良い顔をしなかったが、わざわざ小言にするつもりは無いようだった。そして首元をきっちりと留める手をするりと撫でて囁きかけてきた。

「寝る前の続きはまた今度な」

 ユリウスは意地悪そうに笑って彼を見上げる。

「アレク爺さんの順応を待っていたらいつになることやら」

「なんせお相手が生娘みたいなもんだからな、紳士的に段階を踏んできっちり進めないと怖がってすぐ泣いちまうんだ」

 そうしてお互いに頬をつねり合って、その肌の感触の若々しさでまた笑い合って。

 いつまで続くか分からないこんな状況で、しかし二人はどうしようもないくらい幸せだった。



「せっかくだから、外を歩いてみないか」

 提案したのはユリウスだった。

 朝の光の中で簡易的に祈祷を済ませた後、小間使いの男性に言伝を頼んでから二人は連れ立ってラウルの私邸を出た。

 レピエステはアルカラル大聖堂、特にその前の広場を中心に広がっている美しい街だった。朝昼夕と大聖堂の鐘が鳴らされ、信徒たちは仕事の手を止めて地底樹に祈りを捧げる。

 アルカラルの神官達は若いうちに苗木の巡礼のために大陸を巡る。位が上がってからはそれぞれの分院で神樹の栽培や祈祷、信徒の洗礼などを行う。

 さらに高位になると要職につき、若き神官への指導、各地での法話や教典の整備に補典の編纂などが主な務めとなっていく。

 老齢になると神官を辞して市中に降り、残された時間を穏やかに暮らす者も少なくないが、ユリウスは自ら望んで大聖堂に残り白の大神官を務めていた。

 特に朝のこの時間帯などは大聖堂では休息日だとしても何かしらのおつとめがあるため、何も持たずに早朝の街中を歩くことなど、もう数十年ぶりかもしれなかった。

 朝の鐘のあとは、街が次第に活気づいていくのが見えるようだった。どこからともなく朝餉の匂いが漂ってきて、半日以上何も食べていないアレックスが空っぽの腹をさする。

「何か食うか?」

「僕は構わない。君は好きなものを食べてくれ。今なら何でも食べられるだろうね」

「おうよ。少食の生娘ちゃんはほっといて肉と酒をたらふくやりてえな」

 などと言いつつも、アレックスは言葉とは裏腹に、ユリウスのそばを離れる様子はない。片時も離れるつもりはないらしい。

 そんなときのこと。

「おや、」

 ふいに、目の前で、小さな少女が石畳の隙間につまずき、前のめりに転んでしまった。ユリウスは歩み寄り、当たり前のように石畳に膝をついて少女を助け起こす。

「大丈夫かい、お嬢さん」

 涙ぐんだ少女の服の埃をぽんぽんと優しく払ってやるユリウス。そして身を屈めて顔を覗き込み、笑いかける。

「――ほら、きれいになった。もう大丈夫だね? 気をつけるのだよ」

 ユリウスの麗しいかんばせに至近距離で微笑まれたおさげの少女は真っ赤になってこくこくと頷き、それから走って去って行ってしまった。

 その背を目で追っていたユリウスが心配そうに呟く。 

「あの調子だとまた転んでしまいそうだな……」

「お前、まーた罪作りなことしやがって」

 アレックスが唸る。呆れて肩をすくめていた。

「……今のは不可抗力だ」

「その不可抗力で何人の初恋を奪ってきやがったんだよ。そのツラで今までみたいにニコニコ笑って愛想振りまいて岡惚れをポコポコ生みすんじゃねえ。見るからに無害な爺の頃と違ェんだぞ」

 ユリウスはむっとして言い返す。

「君だって随分とおモテになるじゃないか。先日まで老若男女問わずに文をもらってるのを知らないとでも思ったのか」

「だから俺はお前一筋だってもう五十年くらい言ってんだろ」

「僕だって地底樹に捧げるもの以外は全部君のものだって言ってある」

「…………ま、そうだわな」

 結局いつも通りの結論、愛の確かめ合いに落着したところで。

 やがて小さく咳払いをしてから、ユリウスが前を向いたままで言う。

「そろそろちゃんと僕が僕に見えてきたか?」

 問われたアレックスはユリウスを覗き込んだ後、考えるときの癖で髭を弄るつもりで顎に手をやるが、年若い身体の今はそこに豊かな髭はない。指が空振りした後、アレックスは嘆息混じりに言う。

「んん……まだちょっと孫だな」

 まだちょっと孫。

 言いたいことはもちろん分かる。孫みたいだから手を出せないという彼の言葉の続きだ。しかしあまりに奇妙すぎる言葉の組み合わせで、ユリウスはしばらくくつくつと笑い続けた。

「心だけはおじいちゃんか」

「お前ェもだろうが」

 そうしてじゃれ合いながら朝のレピエステを歩いて、やがてたどり着いたのは、街の中心、アルカラル大聖堂だった。




 春の尖塔の直下には人が立ち入らぬようにと布が被せられており、若い騎士が立って警備しているようだった。

 秘蹟の証左、神樹の芽吹きを見に行きたい気持ちもあったが、ユリウスたちはひとまず大聖堂の正面へと足を向ける。

 正面から入ってすぐは中庭から光が抜ける美しいエントランスとなっている。日頃は信徒も自由に出入りして、開かれた窓の奥に見える中庭に向かって祈祷を行うことができるのだが、今日はいつもと様子が違っていた。早朝の時点で広場の半ばまでずっと参拝の列が続いており、これからもその末尾は伸び続けるように見えた。並んでいる者は皆、憧れとも恍惚ともつかない表情をして、聖堂へ入る前から指を組んで祈りを捧げている。

「カリストの法話がよほど効いたのだろうね。しばらく大聖堂は安泰だろう」

 他人事のように、冗談交じりにそう言ったところで、不意に、密やかに、しかし強い声で呼び止められる。

「ユリウス様……!」

「……おっと」

 聖堂の正面は広場から緩やかな階段を登ったさきにある。そこに足をかけたところで、右方から一人の神官が早足で迫ってくるところだった。

「ラウル。おはよう」 

「お迎えに上がるところでした。正面から入られるのはお止し下さい」

 黒の大神官、ラウルだった。慌てた様子で二人を脇道へと引き込もうとする。

「別に誰にも気づかれていないようだけど」

「市中の者はあなた様の姿が変わったことを知らぬのです。ですが中で神官たちが狼狽えてしまえば収拾がつかなくなりかねないので」

「なるほど」

 バルコニーの落下の際にラウルが素早く二人を大聖堂に引き入れたため、ユリウスとアレックスが外を歩いても誰も彼らが秘蹟の主だと気づかなかったのだが、大聖堂の面々が少しでも漏らしてしまえばそれから大騒ぎになるのは目に見えていた。

 そうしてラウルに先導され、二人は警備のついている別の入口から聖堂へと戻る。回廊へ差し掛かり中庭が見えてきたあたりで、ラウルはユリウスをちらりと見やってから、いささか気まずそうに言い出した。

「ところで……その、お体に障りはありませんか」

 言われたユリウスは一瞬意味を把握できずに首を傾げるが、すぐに彼の言外の意図を悟って眉をひそめる。

「こら、余計な心配をするんじゃない」

「どうした?」

 そこに、正面エントラスの様子を覗き見しようとしていたアレックスが振り返る。

「アレク爺さん、この子は君がその有り余る精力で僕に無体を働いたと思い込んでいるようだ」

 ユリウスの言葉に、アレックスはからからと笑う。

「お膳立てしてくれたのはラウル坊やだものな、そりゃあ結果が気になるよなあ」

「いえ、その……」 

「ラウル。こんななりになっても、僕はアルカラルの神官なのだよ。若い身体にはしゃいで羽目を外すと思ったかい?」

 ユリウスよりも上背のあるのラウルだが、こうしてユリウスが苦言を呈すると、目に見えて恐縮してしまう。

 今は二十歳そこそこの若造が壮年の男性を諭しているという構図のため、横で見ているアレックス――彼も若造の見てくれなのだが――が笑いを堪えきれずに肩を揺らしていた。一通り笑った後で、しかしアレックスがラウルへ助け舟を出す。

「まあギリギリだったんだけどな、正直なところ」

「――人が格好つけようとしているところに余計な口を挟まないでくれたまえ」

 偉ぶっていたユリウスは、痛いところをつかれて気まずそうに目を逸らした。

 


 それから気を取り直した後で、ラウルは懐から一通の書簡を取り出し、ユリウスに示した。

 受け取ったユリウスがきっちりと折り目のつけられたそれを開く。書面には神樹を模した印章が捺してある。

「元老からの召喚状です」

「ふむ。僕だけかい?」

「ええ」

 白の大神官宛のそれには、喫緊の能事の為速やかに参上されたしなどと記されていた。

「扉を蹴り破って攫ってやる必要はあるか?」

 後ろから肩越しに覗き込んでくるアレックスに、顔を上げたユリウスは笑って応える。

「ひとまず無いよ。せっかくだから、かわいいひよっこ達のところにでも行っておいで」

「おっしゃ。爺だからって舐めてた奴らを全員捻ってくるぜ。特にルジェだ、あいつは三回は捻ってやらねェとな」

 アレックスが拳を打ち鳴らす。物騒な音が中庭に響いた。先程から通りかかる神官達がちらちらとユリウスたちを見てきていたが、その音で弾かれるように散ってしまう。

 アレックスは神殿騎士達の特別顧問として稽古をつけてやっていた。聖堂の右隣に詰め所がある。恐らくこの状況ならば休息中の者も皆待機していることだろう。

「呼んだらすぐに駆けつけて扉を蹴破ってやるからな」

 上機嫌でそう嘯いてから、アレックスはぽんとラウルの肩に手を置き、目配せをしてから去っていった。

 元老会の講堂は春の尖塔とは反対側、回廊をぐるりと回って抜けた奥にある。

「私もお供できません。どうか、お気をつけて。

 あなた様の立場を良く思っていない者が少なからずおりますゆえ――」

 季節柄、秋と冬の尖塔のあたりはあまり日が差さないため少し薄暗い。ラウルの心配そうな眼差しを背に受けながら、ユリウスは元老会の部屋への扉を押し開き、毅然と宣言をした。

「白の大神官、ユリウス。参りました」


 ◆


「――で、元老会は何だって?」

「嫌味と妬みと嫉みだね」

「そりゃいつものことだろうよ」

 午後。元老会による査問を終えたユリウスと、神殿騎士団の若いやつらを捻ってきたアレックスが合流した。

 大聖堂に隣接する高位神官の宿舎。簡素な寝台に簡素な卓と椅子、飾り気のない収納。ユリウスの僧坊はお手本のように質実なものだった。

 アレックスは我が物顔でユリウスの寝台に寝そべっている。その横、床にはぺそぺそと泣いているルジェが座り込んでいた。若き姿のアレックスにさんざん稽古をつけられたのだろう。頬には擦り傷、腕には無数の打ち身、髪はぼさぼさに乱れ、まるでどこかの山から転がり落ちたかのような有り様だった。

「よしよし、痛むかい?」

 ユリウスがそばに屈み、神樹の葉から煮出した薬を練り込んだ膏薬をいくつもある打ち身にそっと塗ってやっている。

「顧問ひどいっす。俺だけ五回も投げ飛ばした……」

「おお。それはかわいそうに。なんてひどい顧問だ」

 本来ならば騎士団の詰め所で手当を施しておくところなのだが、この状況下での貴重な手駒もとい仲間ということで、アレックスによる訓練が終わってからそのまま彼に引きずってこられたためここで手当をすることになったのだ。

 アレックスが面白くなさそうに鼻を鳴らす。

「俺を労ってくれねェのか」

「無傷じゃないか」

 ユリウスが言い返すと、アレックスは舌を出しておどけてみせた。

 教義を守り高潔を心がける神殿騎士団の面々は、そういった信条を立てずに好き放題に暴れるアレックスにさぞかし引っ掻き回されたことだろう。

 その後、ユリウスが薬を塗り終えたところで、ぺそぺそしくしくと泣いていたルジェが、おずおずと口を開く。

「どうしてユリウス様は元老会に好かれてないんすか?」

「……いろいろあってね」

「そうなんですかあ」

 言葉を濁すユリウスの意図などお構いなしに、ルジェは次の言葉を促すようにユリウスを見つめ続けている。ユリウスが居心地が悪く身じろぎをしたところで、寝台の上から手を伸ばしたアレックスがルジェの首根っこをつまみ上げる。

「ぐぇ、」

 そしてユリウスの代わりに耳元で告げた。

「簡単に言うとな、こいつが規範を守ってないくせに成績が一番良いからだ」


 ◆


 時は少し遡って、審問会でのこと。

「あの落下からの一連の出来事については……何も、覚えておりません。はっきりとしているのは猊下を手前に引き込んで、その後足場が落ちたところまでで、強い光が生じたところからは何も」

 元老会による召喚は、予想通り審問のためだった。

 秘蹟、そしてバルコニー落下についての聞き取り。後ろ暗いところはないためユリウスはそれぞれの質問に正直に返答をした。

 元老会は高位の神官により、地底樹アルカラルの末永き繁栄、そして教会の維持と運営を目的としている機関である。

 神官としての表向きの最高位は法王、次いで三色の大神官と続くものの、彼らは布教や礼拝における高位であり、教会内部での意思決定などは元老会によるものだった。

 地底樹の目を逃れるかのように締め切った部屋にて。十人ほどの元老の前で、ユリウスは物怖じすることなく彼らからの査問への受け答えを続けた。

「――あの光が秘蹟であるという認識は?」

「おそらくそうなのだろうとしか」

「どうやって、秘蹟を為したのか」

「自ら何かを意図したわけではありません」

「春の神樹祭という、最も信徒らの目のある機会に秘蹟を示威したことに、何か作為はあるのか」

「……何も。先程申した通り、あの現象について、自ら起こそうと意図したものではありませんので……」



 結局は迂遠な嫌味と小言を聞かされるだけの時間だった。お前のせいで神樹祭が台無しだ、お前が秘蹟を起こしたせいで教会内部が混乱状態にある。そんなことを手を変え品を変え言葉を変えてちくちくと言われ続けただけだった。

 そうして何も建設的でない話を延々とこねただけで査問は終わった。何とか開放されたユリウスはこうして僧坊へと戻って相方と合流したのだった――


 ◆


 元老会に好かれていない理由をアレックスが的確かつ端的に言い当ててしまったため、口を噤んでいたユリウスが仕方無しに続ける。

「……神官は世俗から離れて高潔に質実に生きねばならない。求道の末に地底樹の神威の根幹に最も近づくことができるとされている。

 それのに、妙に世俗に近く教義に忠実でもないはぐれ神官の僕ががしぶとく白の大神官の座にいて、秘蹟に立ち会ってしまったのが気に食わないのだろう」

「このおきれいなツラを引っ提げて国中に神樹を植えて回って愛想振りまいたせいで妙に人気もあるからクビを切ることもできねえしな」

 アレックスの指がユリウスのそのおきれいなかんばせをそっとなぞる。ユリウスは幸せな猫のように目を細めた。

「もちろん、教会は人気商売などではないのだよ。人ではなく地底樹に、神樹に心を集めるべきだ。

 僕も当初はひたむきに求道していたつもりなのだが……どこかの赤毛の大男に邪魔されてしまった」

「邪魔とは何だ。泣きながら頼み込んできたくせに」

 ユリウスの頬を撫でていた無骨な指が、彼の頬を軽くつまむ。白い肌がむにゃりと伸びた。むっとしたユリウスが今度は指の主、アレックスの手の甲をつねって自身から引き剥がす。

「……僕は頼んでいない。泣いてもいない」

「いーや泣いてた。僕の騎士になってくれとかで泣いてた」

「な……あのときのことを持ち出すんじゃない。狡いぞ」

 険悪になりそうなところで、横からルジェが身を乗り出してきた。

「ほうほう、面白くなりそうなんでそこらへんのところ詳しく」

 ユリウスは苦笑する。

「ルジェ君は妹さんがいるというけど、まるで末っ子のようだね。甘え上手で、話の踏み込み方が若い頃の僕よりもずっと上手だ」

「そのツラで若い頃なんて言うと気持ち悪いぞ。ユリウス爺さん」

 アレックスの揶揄に、ユリウスは目を細めて笑う。

「君もだよ。アレク爺さん」

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