第3話

「私どもは聖堂に戻りますが――お二人は静養中ということになっています」

 結局、ルジェをどう使うかはラウルに委ねられることとなった。それから、ラウルは少しの逡巡のあとに小さく付け加える。

「………………、あと、部屋はお好きに使っていただいて構いませんので」

 その言葉でヒュウと口笛を鳴らすアレックスと、わずかに表情をこわばらせるユリウス。

「――では、失礼いたします。見送りも結構です。我々が扉を開ける際に外に見られないところにいらして下さい。階下の隅の部屋に小間使いがおりますが、口の堅い者ですのでご安心を。何かありましたら何なりと申し付けてください」

 そう言うと、ラウルはユリウスの左手を取り、その掌に恭しく唇を落としてからルジェを伴い出て行った。

 とたん、部屋が静まり返る。

 以前ならば何ともなかった静寂が、少し気まずい。ユリウスが身じろぎをするのと、横のアレックスが口を開くのはほぼ同時だった。

「聞いたか? 好きに使っていいってよ」

「聞いたけれども……」

 その言外の意味を、もちろん分かっている。市中に私邸を持たないユリウスのためにわざわざ自身の私邸を明け渡して、療養のためという大義名分まで用意してくれて、気を利かせてくれているのももちろん分かっている。

 そこに、追い打ちのようにアレックスの低い声が響く。 

「お前、昨日言ってたよな、抱かれてやってもよかったって」

「言ったけれども…………」

 アレックスの気配が近づくと、ユリウスはいささか気まずそうに目を逸らす。が、次の瞬間には横抱きに抱え上げられていた。

「あ、こら、何を……」

 軽々と、ユリウスは抱えられてしまう。

 いつぶりだろうか。齢七十を迎えてすら剛健さを誇っていたアレックスだが、年相応に節々にガタが来ていたのをひた隠しにしていたことをユリウスは知っていた。これほど軽々と持ち上げられてしまったのは、きっと数十年ぶりだった。

「何をすると思う?」

 低い声が互いの身体を通して響く。気恥ずかしくなったユリウスは精一杯の意地をこめてアレックスを睨む。

「言わせる気か」

「そうだよ」

 その即答が、想っていたよりもずっと優しくて、柔らかくて。

「……ばかもの」

 そう言いつつも、ユリウスは暴れて降りることはせずに、アレックスの胸に身体を預けた。

 

 ◆


 寝室は書斎のすぐ隣の部屋だった。いつの間に家主から知らされていたのか、アレックスはユリウスを抱えたまま迷わずそこに入室した。

 採光窓から昼下がりのまろやかな光がかすかに入ってくる中、恐らく二人のために整えられた寝台があった。

 直面するとやはり気恥ずかしさが勝る。ユリウスがなかなか積極的に応じられないでいうるちに、しかしアレックスがすたすたと寝台まで進んでアレックスを丁重に下ろす。

 起き上がることを許されず、若き騎士の腕がユリウスを寝台にそのまま縫い留める。

 そうして、寝台の上で向かい合う。見つめ合うと、全身が期待と不安でざわめくのが分かった。

 そうしてユリウスが躊躇いがちにアレックスを見上げていると、ふとアレックスが顔を歪めてスンと鼻を鳴らした。

 ユリウスの頭から足までを見て、苦いものでも食べたような顔をする。

「ところで……それ、誰の服だ」

「……」

 あまり追及されたくない話題だった。ユリウスが思わず目を逸らそうとするが、すかさず大きな手が頬を包み、上を向かされる。

 昨日の騒ぎの後。ユリウスとアレックスは療養という名目で相当強引にラウルに連れ出され、こうして彼の私邸にいるわけだが、大神官の式服のままでいるわけにもいかないため、ゆったりとしたローブに着替えていた。アレックスの方もどこからかラウルが調達したものに着替えているが、ユリウスが今纏っている、少し丈の余るソレの持ち主は――

「……ラウル」

「ぜーんぶ脱いじまえ」

 言うなり、少しおもしろくなさそうな顔をしたアレックスがユリウスの襟元のボタンに手をかける。片手で器用に首元を開き、露わになった白く滑らかな首筋に食いつく。

「ん……」

 熱を帯びた唇が喉を食む。ずっとずっと昔からユリウスの身体の底でくすぶっていた官能がじんわりと滲み出していく気がした。

 熱量の塊のような図体で性急な振る舞いをするわりに、アレックスの手つきも唇も、まるで割れ物でも扱うかのように優しかった。

 教義には清らかにあるべしとあるものの、神官が妻を娶ることも情人を持つことも禁止はされていない。ただし高位の神官、とくに三色の大神官ともなると人々の規範となるような清廉を求められる。

 今の今までユリウスとアレックスが関係を持たなかったのは、ひとえにユリウスの真面目なわがままのようなものだった。だが秘蹟によってこのような姿になってまで、そのわがままを突き通すつもりはなかった。

 秘蹟の起きる直前のことを、ユリウスは今でも鮮明に覚えている。

 バルコニーの崩落に気づいたとき、とっさに法王を救うべく身体が動いた。だが、ひ弱なユリウスでは法王の身体を引き寄せることができなかった。自分の身体と入れ替えてバルコニーの根本に追いやるのが精一杯だったのだ。

 必然、自分はバルコニーとともに転落することとなる。法王が落ちずに済んだのを安堵しながらユリウスが中空に投げ出されたそのとき――次の瞬間、アレックスの腕が自分を捕らえていた。

 自分が落ちたときに間髪入れずに飛び出してくれたことを悟って、こんなことにまで付き合わせて申し訳ないという気持ちと、それを凌駕するほどの歓喜を覚えてしまった。どうあっても自分を護ろうとしてくれる、それがどうしようもないくらい嬉しくて、幸せだったのだ。

 そうしてユリウスが少しの感傷に浸っている間にもアレックスの熱っぽい指がユリウスの衣を優しく剥ぎ取っていく――と思いきや。

 気づけば、アレックスの動きが止まっていた。

「……アレク?」

 手を止めてしまったアレックスを見上げ、わずかに潤んだ瞳で見上げるユリウス。直上のアレックスはというと、少しの間まんじりともせずユリウスを見つめた後、やがて天を仰いで大きく嘆息した。

「どうした? 何か……不満が?」

「いや、すまん……なんか、今のお前を見ると……孫みたいな年のガキに手を出してる気分になる」

「!」

 一瞬鼻白んだユリウスだが、やがてくつくつと笑い始める。

「は、孫ときたか」

 声をあげ、目に涙まで滲ませて笑うユリウスに、アレックスは口を尖らせる。

「だってよ……昨日まで枯れ草みてェな爺だったじゃねえか。俺が惚れ抜いたのはあの枯れ草だったわけよ。

 いや、あの爺と今のお前が同じだってのは、分かっちゃいるんだが……まだ認識がおいつかねえというか」

 そんなことを、若々しい男が苦渋の表情で宣う。精悍な顔には困惑と苦悶と、その他いろいろな難しい感情が浮かんでいる。

 いつの間にか強張っていた身体から力が抜ける。ユリウスはからからと笑って、いとおしい男を見上げた。

「順応が遅いあたり、心はまだ爺だな」

「うるせえ」

 その尖った唇を、ユリウスはつんと指先でつついてからいたずらっぽく笑う。

「白状するとな、僕も、実は目玉が二つある君に見つめられるのがどうにも違和感がある」

「なんだよ、それ」

「ずっと、片目で見られていたからな」

 あのときも、このときも。そう言いながら、ユリウスは諦めて横に寝転がったアレックスに向かって手を伸ばし、彼の左目の外側、こめかみのあたりをそっと撫でる。

「きみ自身は目が増えて平気なのか?」

「そういや、何ともねぇな」

 ユリウスの手を取って、ちゅ、と優しく口付けを落とすアレックス。

「違和感や痛みは?」

「何もない。心配すんな」

 アレックスの瞳は赤みを帯びた褐色をしている。強い感情を抱くと、それが炎のように煌めく。ユリウスはその煌めきが昔から大好きだった。

 そうして二人でひだまりの猫のようにじゃれあっているうちに、アレックスが大口をあけて、くぁ、とあくびを漏らす。

 実は、昨日の騒ぎから二人とも眠れていなかった。秘蹟によって姿が変わった後、どれだけ時間が経っても落ち着かず、目を閉じて眠ることなどできなかったのだ。

 自身も眠気を覚え、ユリウスも小さくあくびを漏らす。それから、静寂の中に、ぽつりと呟いた。

「……いつまで、こんな姿でいられるのだろうな。

 眠って起きたら、お互い枯れ草に逆戻りしているだろうか。それとも、残りの寿命を使い果たして地底樹に召されているだろうか。何があってもおかしくはない」

「今頃必死でラウルの坊やが調べてるだろうよ」

「あの子にはまだまだ未来があるのだし、今後のためにもカリストについてほしいものだが……」

「あれはお前の足跡をなぞるのが生きがいになってんだよ。型破りの系譜だ。お前が法王になれっつったらどんな手を使ってでもなるかもしれんが」

 未だにユリウスの手を離さずに掌にキスを繰り返すアレックス。それがどうやらラウルの行為の上書きのつもりなのだと気づき、ユリウスは苦笑し、そして彼の身体ににじり寄って額を擦り付けた。

「きみの目が癒えたのは、本当に嬉しいんだ。僕のせいで、君が無くしてしまったものだから。願いが、叶ってしまったな」

「俺ぁ何度も気にすんなって言ってただろうよ」

「済まないね。根に持つ方なんだ」

「それは、知ってる」

 苦笑しながら、アレックスが腕を伸ばしてユリウスの頭を支える。

 たくましくて、暖かくて、今までと何も変わらない、ユリウスの片割れの腕。その厚意に甘えて、ユリウスは彼の腕を枕にして眠気に身を委ねる。

 こうして触れ合っていると、いつまでも落ち着かずにふわふわと浮ついていた気分がすんなりと着地するようだった。

「寝て起きて、爺に戻ってても、地底樹に召されても、このツラのままでも……何でも、愛してるぜ。絶対、離れてやらねえからな」

 柔らかいまどろみの中で、優しい声が聞こえた。

 僕もだ、と返事を返したつもりだが、それがちゃんと相手に聞いてもらえたか確認する前に、ユリウスの意識は柔らかい眠りの中に沈み込んでいった。

 

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