僕はただ、新品のキーボードを使いたい。
縮図 岬
僕はただ、新品のキーボードを使いたい。
おなかがすいた。
食べなくてはならない。
食べるためには、キッチンへ行かなければならない。
キッチンへ行くには、立ち上がらなくてはならない。
立ち上がるためには、気力がなくてはならない。
気力を得るためには、やはり食べなくてはならない。
僕は時計を見た。
20時30分。こんな時間になるまで何も食べていないというのも、一層の空腹を誘う。
僕は冷蔵庫の方を見た。
見ただけだ。
下の冷凍室にはたしか、先週実家の母が置いて行ってくれた「あとは焼くだけ」状態のかちんこちんのハンバーグが3つ、眠っている。
僕はキッチンに立ち、シンク下からフライパンを取り出して、『冷凍ハンバーグ 美味しい 焼き方』と調べたパソコンの画面を横目で見ながらハンバーグを焼く。ぴかぴかの肉汁がこぼれないよう、丁寧に。
徐々に増す懐かしい香りを肺いっぱいに吸い込む。
上階の住人にもこの香りを届けんとばかりに、かちんこちんからふわっふわへと仕立て上げていく。
あぁ、かぶりつきたい。
椅子にお尻をくっつけたまま、僕は想像した。
今の僕の腰は、アフリカかどっかにいるゾウよりもきっとずっと重たい。
エアコンが出す生ぬるいそよ風を吸い込んだ。
なにもせず、今すぐここに、出来上がった状態のそれが出てきたなら。
いや待て。
今僕は、パソコンの前にいて、新品のキーボードをかたかたやっている。
その目の前でハンバーグなんぞ食べたなら。
ぴかぴかの肉汁は流星のごとく飛散し、僕の新品のキーボードを台無しにするだろう。
僕の指の下のFやGやLや、この
Enterキーや スペースキーたち は、隕石のごとく降り注ぐであろう肉汁を想像して
か たかた
と震え
てい る。
僕にとっての幸せが、他のものにとっての幸せとは限らないのだ———
僕は時計を見た。
20時40分。
恐れおののくキーボードのことで頭をいっぱいにしてみたが、腹はまだきちんとからっぽだ。
僕は冷蔵庫の方を見た。
見ただけだ。
僕はただ、新品のキーボードを使いたい。 縮図 岬 @meri_niko3
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