三度の堕天

驢垂 葉榕

ニサンの月、15の日

 ずいぶんと長く歩いた気がする。最後に口にしたのは昨日の夜のワインとパンで、今はもう昼過ぎだ。目的地にはまだ着かない。旅は人より多くこなしたつもりだったが環境の違いでこうも変わるのかと愕然とした。それでも、最後までやめるわけにはいかなかった。


 私はかつて天使だった。つい、ほんの昨日まで。姿が大きいわけでも生き物らしくない形をしているわけでもない。衒わず言えば、私は商人だった。黄色い服の、胡散臭い一団の会計係。それが私だった。それでも私は天使だった。あのお方は天であり、あのお方が御座すところこそ天だった。私は天に在り、天に遣え、天に使われ、ともすれば天を使った。似たような連中は何人もいたがそういう意味で、私は誰より天使だった。

 私がどうして選ばれたのかはよくわからなかった。正直なことを言えばうわさで聞くあのお方のことはナザレの生まれの、胡散臭い、偽|救世主≪メシア≫の一人だとずっと思っていた。印象は変わったのはあのお方が自ら語る欺瞞を自覚していると気づいた時だった。噂より、凡人より、私より、ずっと物事がよく見えていた。世の中がよく見えていた。旅で並び歩くにつれ、この認識は崇拝に近い信頼へと変わっていった。

 あのお方との旅の中で私が何より痛感した事は人の礼節や知性や洞察といったものの儚さだった。人がそれらを持てるのは環境に恵まれている場合だけだということだった。ケリヨテで恵まれて生を受け、しっかりとした教育を受け、民族の未来を考えられる程度に裕福だった私にはわかっていなかった。明日食べるパンがないことや今日眠る家がないことが人をどれだけ愚かにするか。そこへの救いを嘯く者への熱狂が、天の御国への熱狂が人をどれだけ愚かにするか。わかっていなかったのだ。あのお方はそういった痴≪こけ≫どもの熱狂に囲まれてなお、変わらず物が、人が、よく見えていた。私は救世主≪メシア≫を確信した。

 話が変わったのは共に旅する賑やかしにあの女が加わってからだ。マグダラの女。あのお方の足に高価な香油を塗った女。何も為していない、客観的に見て取るに足らない女。あのお方の目に鱗のようなものをはめた女。

 あのお方も悲しいかな人間だったのだ。飢えも、窮状も、熱狂も崇拝も、あのお方の目を欠片も曇らせなかった。だのにただ一人の女があのお方の目をどうしようもなく曇らせてしまった。これではだめだと思った。このままではあのお方は凡百の偽|救世主≪メシア≫の中に埋没してしまう。もちろん訴えた。そんなものに惑うなと訴えた。それでもあのお方は決してあの女を置き去りにしてはくれなかった。あのお方が人を人より良く見えていたのは隔絶ゆえだ。人間でないゆえだ。あのお方は人間になろうとしていた。

 女を消すことも考えた。だが消してしまえば女はあの方の中で永遠になってしまいかねなかった。他にもいろいろ悩んだ末、あのお方とすべての人間のため、あのお方には死んでもらうよりほかにないと結論した。その日の晩餐の席、あの方は私にパンの一かけらをお与えになった。

 そこからはもう半狂乱だった。部屋を飛び出し一番星しか出ていない、薄明りの道を急いだ。何度も転んだがそんなことどうでもよかった。神殿に着くころにはすっかり夜になっていた。着くなり私は祭司長たちをさんざんにまくしたてた。あの人は、酷い。酷い。厭な奴です。悪い人です。そんなことを好き勝手わめきたてた。そうしてあることないこと言って、感情も、経緯も、心情も、動機も、全部ぐちゃぐちゃになって、気が付いたら道で寝ていた。夜はすっかり更けていて、手には袋があった。中をみると銀貨が三十枚あった。

 それを見たとき、最初に達成感があった。自分は成し遂げた。これであの方は凡百に埋もれることなく本物になる。そういう達成感があった。しかし、しばらくして異変に気付いた。周りが何か暗いのだ。最初は夜が更けたからだと思った。でも違った。星も月も何もかも、輝きを失って鈍くくすんでいた。まるで世界が祝福を失ったかのよう、そこまで考えたところで直感してしまった。私は天より落ちたのだ。あのお方は天そのもので、それ故あのお方がおわすところこそ私にとっての天の御国だった。私はそれを裏切って、そこを離れた。この鈍くくすんだ世界こそほんとうの世界で、堕天の罰なのだ。星々から視線を落とすと銀貨が再び目に入った。汚濁の塊に見えた。手放したくてたまらなくなった。

 捨てることはもちろん考えた。あの神殿の祭司長どもに投げつけてやろうかとも考えた。だが私は人を救うお方の弟子だったのだ。何か貧しい人に施したかった。それだけ、寄る辺だった。でも銀貨を持っていたくなかったのも本当だったから、結局初めに目についた男から土地を買って押し付けた。なんでも昔陶器師やっていたその男が土を取るのに使い潰した酷い荒れ地らしい。奴隷の一人も買えないはした金だったがそんな土地なら妥当だろう。使い道にも支障なかった。場所と行き方を聞き出して街道に出るともう朝になりかけていた。


 そんなことを考えながら歩いているとふと視界が晴れた。崖だった。崖下には丘の中腹が少しばかり平になって荒地、目的地の陶器師の畑だった。どこをどう迷ったのか、丘をのぼって目指したはずなのに畑は眼下に広がっていた。崖際に腰を下ろす。天を仰ぐと日は西に傾きかけていた。あのあたりで政治犯が死ぬのならゴルゴダだ。あのお方も近く同じように丘をのぼるのだろう。十字架を負い、祭司長どものことだからありったけ罪人の箔を張り付けて殺すのだろう。でもそんなことに意味はない。あのお方は真の救世主≪メシア≫なのだから。できることなら最期までお供をしたかった。それができたらどんなに幸せだろうか。誰よりそんな資格から遠いのは分かっていたがそんな空想ばかり繰り返してしまった。

 西日の暑さに目を覚ます。あたりを見回す。どうやら空想にふけるうち眠ってしまっていたらしかった。日はもう沈みかけていた。一番星はもう出ていた。裏切り者が裏切った後も生きていたんではほんとうに裏切り者になってしまう。ここまで来た目的を果たそう。つまり、死ぬことを。祭司長どもへ嫌がらせに、神殿で首でもくくってやることも考えた。しかしもっと裏切り者にふさわしい死に方があることに気付いた。裏切り者が裏切り者にならないように裏切り者としてふさわしい死に方をする。論理が通っていないのは分かっていた。だが、筋は一番通っている気がした。立ち上がり、数歩後ずさる。最期に見る景色は、赤茶けた山の中腹、まばらに石が離散するばかりの無用の荒野。何かの未来を暗示しているように思えた。私にどんな未来もあるはずないのに。私は昨夜、天より堕ちた。私はこれから地に落ちる。地獄に落ちる。そうでなければ筋が通らない。覚悟を決める。努めて頭から落ちるよう、崖を跳んだ。

 墜落音だけ響いた。

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