5

「お疲れ様でした」

 店長しかいなくなった店の中に向けて、僕はお辞儀をした。

「今までおつかれさま」とか「東京に行っても頑張ってね」とかなんとか言ってくれないかと期待したが、客が大方ひけて電灯を半分落とした夜のカフェは一向にしんとしていた。

 気を取り直して、店の奥に戻った。今日こそは、まず彼女と別れなければならない。

 銀扉の従業員出入口のドアノブに手をかけた彼女の肩に後ろから触れた。

「このあと、どこか一軒だけ寄る時間ないかな? 話があるんだ。」

「ええ、いいわよ。——別れ話でしょ?」

「どうして?」

「お月様が天の河にのって季節外れのアルデバランから遠く離れた大洋に流されたの」

「もう少し嚙み砕いて説明してくれないかな」

「第六感よ」

「なるほどね」

「それに、もうそろそろそんな季節じゃないかと思ってたの」

 僕と彼女は手をつなぐこともなく並んで、暗んだ三月の夜の道を歩いた。そしてバイト先のカフェから名駅に至るまでの通りにある一軒のカフェバーに、どちらから誘うともなく吸い込まれるように入った。


「バイトはもう今日きりなのね?」

「うん」

「あなたがいなくなるの、寂しいわ」

「僕もだよ」

 彼女はカフェバーの濃いウイスキー色の光の下で、白く細い形のいい両手の指を見つめていた。僕もそれらの指を眺めながら、彼女の柔らかい愛撫の感触を思い返していた。

「終わってみると、不思議な感じがするわ。ねえ、私たちの関係って、いったい何だったんでしょうね?」

「言葉は色々あるさ。友人、バイト仲間、恋人、パートナー、カップル、セックスフレンド。でも問題は、そのどれもが私たちにはしっくりこないということなんだ」

「ええ」

 彼女は落ち着いた動作でハニーミルクティーを一口すすった。

「ねえ、私たちは愛し合っていたと思う?」

「少なくとも、僕はそう信じていたいね」

「本当に、胸の奥からそう言える?」

 彼女の物言いには何かしらこだわりがあるようだった。

「たしかに、make loveということはしなかった。でも僕は君のことが心の底から好きだったし、もちろんいまも好きだよ」

「私に入れたいと思ったこと、ある?」

「あるよ。でも気にしなくていい」

「ペッティングだけで満足できた?」

「もちろん。君こそ、男の人のものを触ったり、男の人の指でいじられたりして、嫌じゃなかったの?」

「普通は嫌なのよ、レズの体で男の人とするのって、生理的に受けつけないの。でもあなただけは違ったわ」

「僕が女装しているから?」

「女装しても、ごつごつした男の人の指はごまかせないわ」

「ふむ」

「それでも、あなたが私のあそこをいじるのは不思議と気持ちがよかったし、私があなたのあそこをいじって気持ちがよかったなら、それでうれしいと思えたの。なんていうか、あなたは安心できたのよ」

「他の男の人だと安心できない?」

「そうね」 彼女は両手を裏返して言った。「なんだか怖いわ」

 僕は肯いてレモネードを飲んだ。檸檬の皮の苦い味が口の中に残った。

 いつになく静かな午後十時だった。僕らのテーブルから窓ガラスをはさんだ向こう側では、街が紺色の夜に没していた。時折、目の前の道路を様々な自動車のヘッドライトがつつましい明るさで通り過ぎるのが闇の中に黄色く浮かんで見えた。

 僕は彼女の左手に右手を重ねようとした。

 すると彼女は僕の手を右手で押し戻した。

「ごめんなさい。つい昨日、薬指のいぼを切っちゃって、まだ傷がふさがらないの。あなたにうつすと悪いから……」

「いいよ。痛くはないの?」

「ええ、もう大丈夫」

 彼女は右手の人差し指で、左手の薬指の第二関節のところに出来た直径五ミリくらいの小さないぼを大事そうに撫でた。

「もう一年も治らないいぼなの。——もっとも治らないというよりは、私が直そうとしない、というのが本当なんだけど」

「ふむ」

「あなた、いぼの直し方って知ってる?」

「いいや。薬とかじゃないの?」

「薬もあるけど、私の場合は駄目だったわ。まるで効き目が薄かったの。八週間、朝昼晩の食前にずっと薬を飲み続けて、やっとコンドーム一枚分くらいの厚みだけいぼが薄くなったわ。先生に相談したら、それじゃあ冷凍凝固療法にしましょうって言われて、今度は液体窒素でいぼを灼くことになったの。考えられる? 週に一回、クリーム色の薄汚れた雑居ビルの二階にある皮膚科に行って、マイナス百九十六度の液体で体の一部を壊死させるのよ。しかも三か月もかけて、自分の細胞を殺していくの、じっくりと。私、そう考えた途端に恐ろしくなってきて、それきり治療は止したわ」

「災難だったね」

「それにね、いぼがかわいそうに思えてきたというのもあったの。ウイルスに犯されているとはいえ、いぼももとは私だったわけでしょ?」

「そうだね」

「もういたずらに自分を傷つけるのはやめようって、そう思ったの」

 彼女はカップに三分の二くらい残っていたハニーミルクティーを五分の一くらい飲んだ。喉元が動くとき、目を細めた。美味しいことを表現するような、すこし息苦しいことを訴えるような、そんな目だった。

「それからね」 彼女はおしぼりで口元を拭きながら言った。「このいぼがコンジローマだったらいいのにって思ったこともあるの」

「ふむ」

「もちろん、医者の診断はそうじゃなかったけど、でももしこのいぼがコンジローマだったら、それはあなたとのペッティングから出来たいぼに違いなくて、それはつまり、ある意味でこのいぼが私とあなたの間に出来た子どもだとも言えるんじゃないかって、そう思ったの。こういうのって、わかる?」

 僕は正確に七秒間、考えてから言った。

「君の言いたいことは、なんとなく分かる気がする」

「レズの間には子どもができないのよ。知ってた?」

 僕はうなずいた。

「愛の形を、見て、触れて、確かめられる何かが恋しいの」


僕らは、駅前の大通りから外れたややこみ入った暗い路地の真ん中で向かい合った。

「もう二度と会いに来ないのね?」

「当面の間はおそらく、ね」

「そこのところを、はっきりさせておきたかったの」

「会いに来ないほうがいいかな?」

 皮肉を言ったつもりはなかったのだが、彼女は僕の言葉を聞くと悲しそうなまつ毛ををして、ひとしきり悩んだ。

「会いたくないわけではもちろんないの。でも、会わないほうがいいという気もするの。つらくなるだろうから」

「分かるよ」

「抱いて」

 いつの間にか降り出した、あるか無きかの細雨の中で僕らは抱き合った。

「あなたのこと、忘れたくないわ」

「僕もだよ」

「いつかまた、あなたのことを恋しく思う日が来るような気がするの。それでたまらなく寂しくなるような日が」

「うん」

「それでも忘れたくないわ」

「忘れられないさ」

 しばらくして、彼女の方から体をほどいた。それから僕らは互いの眼を見つめ合った。視線にのせて相手の内側に、何か切ないものを注ぎこもうとするかのように。

 どれほどの時間そうしていただろうか。小雨は霧に変っていた。

 やがて、何も言わずに二人同時に背を向けると、互いに反対の方角に向けて歩き出した。

 そうして、別れた。

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