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別れの時から始める。
春が暮れ方に傾き出すころ、正確には三月十五日の十七時三十分、錦三丁目の袋町通りを東から西に歩いていた。
わきの道路では、テールランプを赤く灯した何台もの車が、見えない糸でつながれたみたいに車間距離を正確に測りながら走っていた。車は、まるで血管を規則的に循環する赤血球のように車道を一定の速度で流れ、時おり停車して人を降ろすと、彼らは雑居ビルやその地下に吸い込まれていくのだった。
太陽のまだあるうちにこの通りを往く人や車は、すべて通りを間違えて迷い込んだものばかりだ。ここには昼間、何もない。誰の、何のための部屋を収容しているのか分からないビルが見渡す限りぎしぎし立ち並ぶばかりで、そのどれを見ても一階は鈍色のシャッターを下ろしているし、看板に取り付けられた電飾は光らず、内部の半導体を投げやりに透かし見せている。また茶色だったり、灰色だったり、クリーム色だったりするビルのすすけた壁は、陽ざしに白々と乾いていてよそよそしい。
けれど紺色の夜のとばりが降ろされるや否や、街は変貌する。いわばこの街にとって、昼の時間は偽りなのだ。ビルからはアルコールの匂いに暖められた色の光が漏れ、電飾はめくるめく輝き、いくつもの壁は湿った夜気に翳りがちにつやめく。街は太陽の下にあるよりも、夜にとりどりの色の光で溢れる。夜の生気のために昼は死んだように深く眠るのだ。そして、日が没した後の青く暗んだ空気を呼吸して、この街は目を覚ます。
蜂蜜色の明かりの前で立ち止まった。喫茶兼バー「ブル―・フロック」の目の前だ。
「今日も可愛いよ」
彼は、狭い店の中の客たちの喧騒に負けないくらいの大音量で流れるBGMの下、やっと聞こえるくらいの声でそう言うと、琥珀色のミードを満足気に一口飲んだ。ちょうどニーナ・ハーゲンが「ウサギが怯えながら巣穴の外を覗いた」と歌ったところだった。
その言葉を聞くと、ここに来るまで歩きしな胸の内に抱えて来たいくつもの言葉も言えそうになくなって、ジンジャーエールを一口飲み、グラスの縁についたピンクのリップをおしぼりで拭った。
「そのアイシャドウの色、好きだな」
「ありがとう。よく気がつくね」
「いつでも注意深く君を観察してる証拠さ」
「そう言われると、なんだか本当に女の子になったような気がするね」
「女の子になっちゃえばいいのに。私がさせてあげようか?」
「だめさ。僕はストレートなんだ」
「お酒の話?」
僕は、やれやれ、といった風に首を振って答えた。「僕は十九だよ」
彼は僕のウィッグの髪を片手で撫でつけながら言った。
「いつまで女装を続ける?」
「この街を出るのと同時にぱったりやめるだろうな。女装は日本ではまだ思弁的実在論以上には市民権を得ていないらしいんだ」
この年の三月十五日、僕は東京の大学への入学手続きを済ませたばかりの元浪人生だった。
僕はその一年という間を、昼を自宅での受験勉強に費やし、夜を「ブル―・フロック」でジンジャーエールを飲むことに費やした。おかげで僕は現役時代から志望校のレベルを二つほど下げる羽目になったが、しかしその年は、僕がもし予備校の清潔な白さの建物に閉じこもって参考書と大学ノートにかじりついていたら決して得ることができなかったような、かけがえのない青春の一チャプターだった。
そのイントロダクションにあたる四月の中旬に、僕は初めて「ブル―・フロック」を訪れ、僕より一つ年上で名古屋の大学の二年生だった彼と出会った。彼女とはプレクールの高校時代から付き合っていた。彼女もやはり僕に一足先んじて、名古屋の大学の一年生だった。
僕はそのチャプターをまるまる一つの話として書こうとは思わない。僕が書くのはエピローグだけだ。
受験戦争も終結したその平和なエピローグにおいて、しかし僕には二つの課題が残されていた。彼と別れることと、彼女と別れることだ。
僕は四月から東京の大学に行く。そしてそのために僕はこの街を出なければならない。
その日は三月の十五日だった。新生活の準備のために僕は二十二日には名古屋を出発しなければいけなかった。もはや猶予はならない。その日は彼とのお別れをするつもりだった。
しかし、出鼻をくじかれた。
ここでひとまず、僕が初めて「ブルー・フロック」に来たときのことを語る。
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