落花を見透かす

@aoba__0

第1話



俺は君が恋に落ちていることを知っている。





 図書室は静かだ。

 普段から人気がない、大学構内の図書室の三階。窓の外から見える黄色い銀杏が目にあざやかだ。

 金曜日の四講。

 講義中ということもあり人の姿はまばらだ。その息遣いすら無数の蔵書に吸われている。むしろ暖房の低い唸り声が耳につく。

 ここには社会科学・語学・自然科学の書架が陳列されている。自習をしにここまでわざわざ登ってくる生徒も少ない。

 古びた腕時計がジャスト十四時四十分を指した。

 小さな足音が階段を登ってくる。

 テーブルの下で足を組み直す。近付く気配にしらんぷりをしてページに目を落とした。足音が迷うことなくどんどん近づき、真正面からこちらの顔を覗き込んだ。

 「峯先輩」

 静かな図書室を意識して低めに抑えられた声が耳をくすぐる。たっぷりミルクを淹れたようなホワイトベージュの髪が目の前で揺れた。

 「お疲れさまです」

 たった今気づいたようにイヤホンを取ってみせる。目の前の人物と目を合わせた。

 「お疲れ」

 「めっちゃ集中してましたね」

 からかうように灰色の瞳が瞬いた。瞳の中の虹彩が光を帯びている。

 背にしたバッグをどさりと机の上に置いた。正面の椅子を引く音が響く。彼女は腕をうーんと天井に向かって伸ばした。

 「は〜めっちゃ疲れた。マジ図書室あったかくていいですね。講義室めっちゃ寒くて、足冷えひえ。購買の自販機、ようやく『あったか〜い』が出たんですよ」

 席に着くなりペラペラと喋り出した。

 「先輩、何か飲みたいものとかあったら買ってきますよ。あ、でもこんな暑い図書館で暑いの飲んだら汗かいちゃうか……」

 「今日は何の課題」

 俺が遮ると、目の前の後輩は一拍きょとんとする。髪色と同じベージュの睫毛が、呆気に取られてまんまるになった瞳を縁取っている。

 「……何だっけ」

 「ご歓談を楽しみたいならよそいってくれない」

 「あ、冗談冗談! 冗談です! 近現代史のレポートと〜あと雅子の宿題がありました!」

 「また雅子」

 「そう、また雅子」

 何が楽しいのか、手にしたノートで口を隠してクスクスと笑っている。ノートの表紙の下線部に、『大倉ゆうな』と丁寧な字で書かれていた。

 後輩の名前だ。

 「峯先輩の、雅子の過去の宿題とかって、家にあったりするんですか?」

 「わからん。多分どっかいった」

 「え〜あったら見せて欲しかったなあ。今度探して持ってきてください」

 「はいはい」

 「あ!それから、峯先輩の好きなチョコの新作が昨日出て——」

 「いや声デカ。静かにしてくんない」

 話をしているうちにどんどん楽しくなってきたらしい。大倉はどんどん声のボリュームを上げていった。こっちが地なんだろうが勘弁してほしい。こっちは勉強しにきているのであって、この訳わからん後輩とチェーン店みたいにくっちゃべりたいわけではないのだ。

 もうお喋りは終わり。

 言外にそう伝えるように俺はイアホンをつけて本に目を落とした。大倉ゆうなはもうそれ以上話しかけるのをやめた。

 元通りの静寂が戻ることに安心しながら、課題の本に目を落とす。

 『長期間にわたってネガティブな思考に囚われてしまった人には認知バイアスがかかります。急に話が途切れてしまったことで“この人は私のことが嫌いなんじゃないか”というような思考に陥ってしまいます。こうした心の活動の研究をするのが“心理学的アプローチ”です。犯罪心理学にできる社会への貢献—』

 文字が薄れてきた。無理やり書こうとするも虚しく、ペン先がただ固く紙を細く抉る。文章を書き写しているうちに、ペンのインクが切れたらしい。

 「峯先輩」

 ちょうど耳に流れる音楽が穏やかなジャズに変わったからだろうか、大倉の控えめな声が届く。そのせいで、無視する予定だったのに思わず顔を上げてしまった。

 「これ、どうぞ」

 差し出されたのは木目の美しい装飾が施されているペンだった。勉強机のペン入れに雑にまとめてぶっ刺さってるような無数のペンではなく、机の引き出しに、箱に入れて大事にしまっていそうなペン。それは大倉がいつも使っているやつだった。

 それ、お前がいつも使ってる大事なやつじゃん。放課後はお洒落な喫茶店で紅茶です、みたいな見かけに反して中身は結構ガサツで、はちゃめちゃジャンクフード好きだし、だけど筆記用具とかはどうでもいいやつじゃなくてちゃんと店でこだわりのものを選んで買ってくるような、そんな奴のペン。しかも、すげえタイミングで渡してきやがって。まるでインクが切れる予知能力でもいきなり身につけたかのようだった。

 それとも、俺が勉強しているところを見ていた?

 「購買で買ってくるからいい」

 ペンくらい100円くらいで買える。席から立ち上がると、大倉もあわてたように椅子を引いた。

 「じゃあ一緒にいきましょうよ!さっき言おうと思ってたチョコ、購買に入ってるんです。カカオ80%くらいのビターな秋の新作で。パッケージがキンラメでめちゃくちゃ可愛いんですよ」

 「いや別にいい」

 カバンからICカードだけ取り出すと、大倉はしゅんとした。さっきまでのハイテンションはどこへやら、眉が下がってお手本のようにしょんぼりとする。

 無邪気すぎる。仮にも大学二年生ならもう少し擦れたっていいし、むしろ擦れようと背伸びする時期でもあるのに。

 「荷物見ててくんない。そっちの方が助かる」

 一緒に行かない口実のためのそれに、そいつはわかりやすく喜んだ。

 「えっじゃあ、ポテチョコもお願いしていいですか?」

 「厚かましい」

 軽く睨みつけると、机を挟んだ距離で笑顔を向けてきた。瞳はとろけんばかりにきらめいている。頬がほてっている。

 振り切るように背を向けた。

 「いってらっしゃ〜い」

 (数分で戻るのにオオゲサ)

 ついでにパンでも買うか。帰りの時間になると購買は閉まるが、電車に乗るまでの徒歩で絶対に腹が減る。

 階段を降りようとしてふと先ほどまでの机に視線を向ける。大倉はまだこっちを見ていた。両手で双眼鏡のような丸を作り、鞄を見張るジェスチャーをする。そしてにっこりと笑って手を振った。

 視線を外して階段を降りた。階を下がるごとに熱気が薄らぎ涼しくなる。どうも、上階にストーブの熱がこもっているらしい。




 後輩が自分のことを好きなのを知っている。


 

 あれだけ熱のこもった視線を向けられたら誰だってわかる。

 いや、最初は疑っていた。自分はお世辞にも話しかけられやすい人間ではない。友人と呼べる人物はこの学校にいないし、それでいいと思っている。

 だから親しげに懐く大倉ゆうなという人物は、ひたすらに胡散臭かった。自分に愛想を振りまいたところで意味はないというのに、何を無駄なことをしているんだろうと。

 ああ、でも、大倉ゆうなは最初から不自然だった。

 『それ、これから読みます?』

 出会ったのは約一年半前。

 俺が図書室で読書をしている時に話しかけられたのだった。

 今でも覚えている。緊張していたのか、震える指で俺が机に積んでいた一冊の本を指差した。

 いきなり話しかけられて、俺もあっけに取られた。ほんの数秒、出会ったばかりの男女が見つめ合いながら黙る、不可解な沈黙がよぎった。

 『…どれ?』

 『その、一番下の大きな本です』

 『“現代の判例と刑法理論”?』

 『…それ、ずっと机の上に置いてあって、もし今読まないんだったら、私が読んでもいいですか』

 まるで台本でも読んでいるかのようなカタコトだった。

 しかし、そう言われて納得して頷いた。図書室で話しかけられるなど今まで一度もなかったため思わず身構えすぎてしまったらしい。あとで読もうと積んでいた本の山の一番下から一冊引き抜いた。

 『はい』

 『ありがとうございます』

 本を渡されただけなのに、そいつはやけに嬉しそうにほころんだ。一年生になりたての春の香りを漂わせている。

 『すぐに返しますね!』

 そう言って本を持って踵を返した。別にすぐに返さなくていい、そもそもそれは俺の本じゃない。そう言おうと思って、ふと周りの視線に気付く。図書室にも関わらずハキハキとした女子の声が響き渡ったため、随分と注目を浴びていた。

 しなくてもいい咳払いをして本に集中するふりをした。




 それが最初だった。

 大倉ゆうなはそれから、何かにつけ理由を探して図書室にいる俺に話しかけてきた。

 「その本面白そうですか」だとか、「こっちは窓辺だから近くに座っていいですか」だとか、「前に言っていたチョコ買ってきましたよ」だとか。

 こっちは静かに勉学や読書に集中したいんだ、あまり話しかけられても困ると邪険にしたこともあった。すると「じゃあ静かに話しかけますね」とトンチンカンなことを言い出した。

 大倉ゆうなは年上の、法学部の輪から外れた俺みたいなのに声をかけなければならないほど交友関係に不自由をしているのか。答えは否である。“大倉ゆうなは友無きにして寂しからずや”だ。反語で断言できるほど否である。明るくて人懐っこい性格の女子が友達に困らない理由などわざわざ述べるまでもない。

 

 毎週金曜日の四講、俺と大倉の授業がない時間帯がかぶる。二人ともそこは空き講なのだ。大倉ゆうなはまるで決められた授業かのように律儀に図書室に足を運ぶ。毎週だ。一週間分の宿題を抱えて俺に教鞭を請う。あるいは自習をする。

 ああ、『現代の判例と刑法理論』なんて最初に会った時にわざわざ借りたがっていたため、一年生なのに法に聡いと感心したのだったが、実際に勉強を教えるとまったく基礎のキも知らなかった。『漫画で覚える法律入門』でも読む方がまだレベルに合っていただろう。

 

 なぜ、大倉が、自分の身の丈に合わない本を借りるために、俺に話しかけたのか。

 今まで聞いたことは一度もない。

 仮に、口よりも雄弁な彼女の瞳が、上気した頬が、何気ない態度が、それを物語っていたとしてもだ。

 

 

 俺は大倉ゆうなが好きじゃない。

 

 

 別に、嫌いなわけでもない。最初はそれこそ本気で鬱陶しかったが、それこそ一年半も経つためもう慣れた。邪気のない笑顔が可愛らしいと思ったこともある。面と向かって言うわけがないが。

 良いやつだとも思う。

 ただ、単純に好きじゃない。

 ただの単なる先輩後輩の関係だったら歓迎する。友人なんかいらないが、大倉ゆうなにはそれだけ絆された自覚はある。彼女は頭は良くないが、コミュニケーション能力とやらが高いんだろう。

 ただ大倉ゆうなに恋愛感情を持ったことは一度もなかった。

 だから、望みをかけるような瞳で見つめられると、辟易する。

 単純に好みの対象とはズレていることもある。もう少し物静かで知的な女性がタイプだ。そしてそれ以前に自分は恋愛をしている場合ではない。フワフワとした頭の悪い恋人ごっこをするために大学に来たわけじゃないのだ。

 


 大倉ゆうなは俺に期待の眼差しを向ける。

 どうか自分を好きになってくれないだろうか。

 無邪気な笑顔の隙間で向けられる瞳には星くずでも散っているかのようだった。

 応えられない。

 かと言って邪険にもできない。

 いや、過去には相当邪険にもしてきたが、諦めずに一緒にいる大倉に半ば白旗をあげている。

 告白をされていない状態では、これが限界だ。大倉ゆうなは別に悪いことをしていないのに、無闇に傷つけることもできない。

 そう、いっそ告白でもしてくるんだったらバッサリと関係に終止符を打てるのだろうか。

 俺にできることは、ただ、期待は無駄なんだとそっけなく扱うことくらいだった。

 そうして言外に期待を裏切りながら、今ここに至る。


 




 「峯先輩ここなんですけど」

 大倉が問題を指差した。

 「なんかこの問いの空欄に数字が合わないんですよね」

 「かして」

 ページに目を滑らせてから、ああと息を吐く。

 「この辺の民法改定されたんじゃなかったっけか」

 「ええっ」

 「お前の六法、一年の時のまま?新しい改訂版のやつ、購買に売られてたよな」

 「今のまだ使えるなって……」

 「民法なんてコロコロ変わるんだから、その都度買い換えなきゃ無理」

 「嘘……出費……」

 ガックリと項垂れた大倉は、気を取り直して別の問題を指差した。

 「こっちはなんですか?」

 見せられた問題は地方自治に関する問いだった。このテの宿題を今まで一度も見たことがない。法学部に新しい先生が就任した影響で、新しい授業がはじまったようだ。

 「悪い、こっちはわからない」

 「いえいえ、ありがとうございます。…あ」

 「え?」

 「雨」

 もう秋半ばにも関わらず、まるで夕立のように大粒が窓を叩きつけた。静かな図書室に雨音が籠る。

 暗くなった図書室に、暖色の明かりがついた。

 「わあ、雨降るなんて聞いてない」

 大倉は突如スマホを操ったかと思うと、どうやら気象レーダーのサイトで今後の天気を確認したらしい。「駄目だ……ずっと降るみたいです」と気落ちした。

 「折り畳み傘、もういい加減重いと思って、朝カバンから取り出しちゃったんですよ」

 窓の外を見て後悔したかと思うと、こっちを向いて笑う。

 「先輩! 今日一緒に帰りましょう!」

 「なんでだよ」

 「なんでだよじゃないですよ〜! 先輩は傘持ってるんですよね。寮まで送ってください」

 「お前、女子寮だろ」

 寮は大学から徒歩五分の距離にある。

 「そうなんですよね。無駄に距離があるんですよあそこ」

 仕方がないとばかりに大倉は笑った。

 大倉は距離感が近い。自分の要望をグイグイ迫ってくる。鬱陶しいほどに縋り付いてくることもある。ただ、この日のように、ちょっと言ってみて、断られるのをわかっていてあっさり引き下がる。そんなこともあった。

 「ほら」

 目の前に差し出された男物の折り畳み傘をみて、大倉は目を丸くした。

 「え?」

 「傘」

 大倉は目を丸くした。

 その呆気に取られた表情をみて、しまったとほぞを噛む。

 さっき、大倉に期待は持たせないと考えていたその矢先にコレだ。なるべく冷たくしたいのに、雨に濡れて走る後輩の姿を想像したら手が出てしまったのだ。

 いや、これは多分セーフだ。可哀想な妹に手を貸す兄のような、純粋な親切だ。恋愛感情がなくともこれくらいの助け合いはするだろう。

 「俺はゼミ室にビニール傘がもう一本あるから」

 大倉はくりんとカーブを描いた睫毛を瞬かせてから、ぱあっと笑顔になって受け取った。

 「先輩、なんだかお兄ちゃんみたい」

 「こんな手間のかかる妹はいらない」

 「先輩は弟がいますもんね」

 その何気ない言葉に、一瞬心臓を細い針で突かれる。

 なんでそんなことを知ってる、と聞こうとして、自分で言ったんだと思い直した。

 普段この手の話題は他人には明かさない。しかし大倉には、何かの話の流れで、自分には弟がいる。と口を滑らせたことがあった。何歳ですか、なんの部活に入ってるんですか、とプライベートをあれこれ聞きたがる後輩に対し、「よく知らない。別々に暮らしている」と答えた。

 弟とは絶縁しており、もう六年も姿も見ておらず声も聞いてないとまでは流石に言えなかった。

 父親はギャンブル依存症の果てに自己破産、そのストレスか母は統合失調症になった。

 まだ二歳になりたての弟すらぶん殴ろうとする両親を、ランドセルを盾に守りながら、絶対にここから出て、弟を守らなきゃならないと心に誓った。

 機能不全の家庭からの脱出。いち小学生だった俺は幸いなことに親戚や小学校の先生などに話を聞いてもらい、兄弟揃って児童養護施設に入ることになった。『児童虐待防止法』はすでに制定されてはいたものの、未だ他者の家庭問題に踏み込むべからず、といった空気が蔓延していたあの時代において、彼らは相当理解のある人たちだったと、幸運に感謝している。

 しかし弟は当時二歳だった。

 二歳の子どもを親元から引き離す。その是非を自分が判断することのできない年齢で、俺の勝手な判断で行った。俺は俺の幼い正義感でしか物事を考えられず、弟の人生を左右する決断をしたのだということを、真の意味で理解していなかった。

 『僕は母さんの元で暮らしたかった。お前のせいで母親の顔も知らない。僕の人生はお前に奪われたんだ』と責められた時、足元が崩れ落ちる感覚とはどういうことかを知った。

 「寂しいですか?」

 大倉の言葉で我にかえる。

 「え?」 

 「弟さんに会えないのって寂しいです?」

 「……まあ」

 曖昧に答えた。是とも否とも言い難い。正直、寂しいか寂しくないかで考えたことがなかった。弟のことを考える時には、常に重い罪悪感がのしかかっていた。

 父はすでに五年前、歓楽街で文字通り野垂れ死に、母は七年前に傷害事件を起こしたのち責任能力がないとされ、精神科に入院している。

 弟はほとんど唯一の家族と言っていいだろう。…たとえ向こうはそう思っていなかったとしてもだ。

 「そろそろ十八時か」

 考えを振り切るように立ち上がる。カバンにノート類をしまっていると、大倉が目を丸くした。

 「あれ? 先輩もう帰るんですか?」

 「腹減ったし。バイト前になんか食っとかないと」

 「わたしも! わたしも帰ります」

 大倉が机に散らばった文房具をざっと集めはじめる。そんなに急がなくていい。そう言おうとしてふと借りてたペンを思い出した。

 「これ」

 返そうとすると大倉はカバンを背負いながら首を横に振った。

 「それ、持っていってください」

 「いやもう使わないし」

 重みのあるそのペンを差し出すと、大倉は受け取らず「まあまあ、バイトで使うかもじゃないですか」と手のひらを振った。

 それもそうか?——いや、絆されてどうする。

 何も言わずにペンを突っ返すと、大倉はぱちくりと瞬いた。その口がへの字になり、みるみるうちに不服そうな顔をした。

 固辞しすぎたか。いや、大倉に借りは作りたくなかった。この気安い性格の後輩に対して、一度何かを許すと、それを契機にしてグイグイ距離を詰めてくる。無駄な期待をさせる方が罪深いんじゃないのだろうか。

 

 

 俺と大倉が階段を降りると、図書室とは思えない騒がしさに包まれる。

 図書室の一階は円卓が置かれており、ディスカッションエリアが広がっていた。

 ホワイトボードや印刷機が置かれたそこは、図書室の中で話し合いが可能なスペースで、生徒がよく話し合いをしている。

 すでに日がとっぷり暮れているにも関わらず、一つの円卓を占拠する集団がいた。

 バカ笑いが鼓膜を嫌に振るわす。聞こえてくる言語から留学生も混ざっているようだ。テーブルの上に土足で乗り上げ、手を大きく叩いてのけぞっている。ポテチの袋やら喫茶店のカップやらが床に散乱していた。

 思い切り眉を顰めて、足早に横を通り過ぎる。

 「めっちゃ盛り上がってましたね」

 「汚ねえ」

 「先輩、ああいうの嫌がりますよね」

 「だってホントに汚ねえし。あいつらが使った後のテーブル、裏っ側にガムとか高確率で付いてるし」

 「う〜ん、それは確かにちょっと嫌かも。でも、そんなに外国人が嫌いならなんで国際系が強いうちの大学に進んだんですか」

 「就職に強いから」

 俺は簡単に答えた。

 主に外資系に強い大学ではあるが、単純に就職率が高い。

 俺はいち早く弁護士にならなければならない。一日でも早く。それか司法書士でもいい。名だたるホワイト企業はすでにリストアップしている。養父母にいつまでも世話になるわけにもいかないし、弟にもいい大学に入れてやりたい。

 机の上で軽薄そうな男女がベッタリと引っ付き合っていた光景が、噛みすぎたガムのように脳裏に張り付く。苛立ちと共に更に足を早めた。

 恋愛なんざ必要ない。そんなの一文の得にもならない。一時の感情に振り回されて、理性も何も放り、だらしなく他者に迫る猶予があるのならば勉学に打ち込んだほうがはるかに自分のためになる。

 「先輩、先輩待って」

 大倉の声が後ろに聞こえ、ハッとして振り返る。後輩が駆け足で自分を追いかけている。

 さっきのバカップルのせいでイライラして、必要以上に足が速くなっていたらしい。突然止まった俺に、大倉はつんのめった。大倉の腕と俺の背中が偶然当たる。

 「悪い、考えごとしてた」

 暖房の効いた図書室から出たせいか、一階の廊下の寒さが身に堪える。足元から染み込むような寒さがのぼってきた。

 「さっき、あそこにマエケン先輩たちもいましたね」

 「あっそう」

 同じ法学部の目立つ三年生である。勿論仲良い訳ではない。

 「そういえば今度法学部で飲み会ありますけど、峯先輩は行くんですか」

 「なにそれ。知らないし行かない」

 外に繋がる扉を開けると、一気に冷たい雨風が吹き付ける。秋の夜は寒い。大倉は目を細めてマフラーに顔を埋めた。薄茶色の髪の毛ごと巻きつけられているため、耳の辺りの髪の毛がゆったりと弧を描く。

 「大倉は? 誘われてんの」

 「あ……はい!わたしは行く予定ですけど」

 「そう」

 俺とは違い、大倉ゆうなは顔が広い。学年を問わず、法学部の全員と満遍なく仲良くなっているようだ。学部が違う男どもからも、拾い聞こえる会話の中で、彼女の名前を聞くことだってある。

 当然、先輩から飲みに誘われることだってあるのだろう。いろんな先輩から可愛がられ、引っ張りだこな様子が容易に想像できてしまう。

 いいことだ。大学は人脈を広げる場でもあると言われている。少なくとも、自分のように図書室に篭っているよりもマシだろう。

 俺のことなど放っておいて、楽しい飲み会とやらに行けば、俺のことを好きなどという妄執からも逃れられるのかもしれない。

 それがいい。俺は、彼女の思いに応えることができないのだから。

 「じゃ、ゼミ室行くわ」

 「あ、はい!お疲れさまでした」

 彼女は俺の傘を差すと、雨の中一礼した。俺のなんてことのない紺色の傘が、大倉が持つことでより無骨に思えてくる。

 オレンジ色の蛍光灯に、雨で落ちた銀杏の葉が無彩色に照らされる。大倉の後ろ姿が遠ざかっていく。

 ——坂本さん、大倉狙いなんだってさ

 ——あ〜、ぽいわ。ってか先輩ウケ良さそう。⚪︎⚪︎せんぱ〜い!とか言ってチョコチョコ動いてんの、グッとくる気持ちなんかわかるし。

 いつだったか聞いた会話が脳内をリフレインする。振り切ろうとして、俺は肩をすくめた。

 


 

 

 「峯、バスケサークル入っちゃえばいいのに」

 「先輩、それ聞き飽きましたよ」

 次の週の木曜の放課後、俺は体育館にいた。この時間体育館Aの半分はバスケサークルが使用するのだが、高田先輩しか今日はいなかった。

 この大学ではバスケサークルは人気がなく、元々人数が少ない。しかも県大会が終わった後の今の時期である。

 1on1でオフェンスになる。ジャブステップに先輩は反応せず真正面でマークされる。無理やり左サイドにドライブを仕掛けた。高田先輩がその強引さに笑い声を上げる。そのままレイアップシュート。ボールが網を抜ける乾いた音が聞こえた。

 「ああ〜抜かれた」

 そのままオフェンスとディフェンスを入れ替える。汗を半袖で拭ってから先輩の猛攻に備える。バスケシューズじゃなくただの上履きのため、足を踏み出す感覚が重かった。

 こうしてバスケをしていると、頭の中に空白があいて風が通り抜ける、そんな気分になる。最近勉強とバイトが忙しいせいか、イライラすることが多くなっていた。いい気分転換になる。

 「峯がバスケサー入ってくれたら絶対みんな喜ぶのになあ」

 高田先輩はメガネを掛け直してそう言った。今は休憩中である。

 この先輩は同じ法学部で、一個上の四年生だ。気さくな人柄で、俺にも声をかけてくれる。

 みんなが喜ぶ、のかは不明として、小中高とバスケをしていたのだ、足手纏いにはならないだろうとは思う。そしてバスケを介すると、人とのコミュニケーションも少し楽になる。

 誘われるたびに少し迷いが生じていたが、いつものように首を横に振った。ありがたい話ではあるのだが、今の自分は、そこまでバスケに打ち込むつもりはないのだ。

 「駄目かあ」

 「すんません。でもこうやって時々遊びに来させてもらってんのはホントありがとうございます」 

 「それは全然いいけど。なんか今日プレイがラフだったね、珍しい」

 「マジっすか」

 自覚がなかった。うーんと首を捻り、「バイトが忙しいんで、ストレス発散ってやつかもですね」と適当なことを言った。

 「へえ、ストレス発散かあ。明日の飲み会でもパーッと騒ぐつもり?」

 「……え?」

 明日の飲み会。そんなものにいく予定などない。

 目を瞬いていると、高田先輩も驚いたように目をまんまるにした。

 「え、明日の法学部飲み。峯も参加にチェック入ってただろ?」

 「ど、どういうことですか。自分そんなの知らないんですけど」

 「……あ〜。峯? お前もしかしてメッセージすげー放置してない?」

 慌てて携帯を手繰り寄せる。「珍しいと思ったんだよね。峯が飲み会に参加するなんてさ」という先輩の声をBGMに、携帯の画面を確認した。

 通知が何百と重なっている。タップすると一気に今までの大量のメッセージが目まぐるしい速さで流れていった。出欠機能が備わっているそれは、何も操作しないと自動的に参加される仕様になっていたらしい。幹事は二年生。その顔すらわからない。

 「うーわ、本当だ。行きたくねえ……」

 思わず呻くように言うと、先輩は苦笑して言った。

 「バイトとかとかぶってる?」

 「いや、明日はバイトないんですけど……いやマジで。行きたくないです。俺行ったところで? って感じですよ」

 「じゃあどうする、やめる?」

 「……。……でもそしたら幹事に迷惑かかんですよねえ」

 嫌なことになったと、携帯から目を逸らして天を仰いだ。





 靴を脱ぎ、ギシギシと鳴る板間をあがる。靴箱にはすでにスニーカー、ハイヒール、冬毛が生えたようなブーツが並んでいた。

 居酒屋の大部屋を貸し切り、法学部が一度に集っている。居酒屋特有の油と人が充満したような臭いがたちこめている。

 「は〜い、どうぞ」

 名も知らない後輩が、「この人誰?」という表情を隠しもせず、ぞんざいにビニール袋差し出す。それを漁ってクジを引く。番号を確認して席を探した。すでに座っている連中の間をすり抜ける。

 どこに座ったって居心地が悪いのは変わりない。そう思っていたが、指定された端の席の斜め向かいに、高田先輩がいた。

 「峯、来たんだ」

 気楽に声をかけられ、自分も口角が上がるのがわかる。

 「はちゃめちゃ寒くないですか、外」

 「今気温9度らしい」

 「冬だろそれ」

 コートを脱いで申し訳程度の金具にひっかける。女物のコート、誰かの古びたライダージャケットなどでコート掛けが膨らみ、なかなか掛けるのに難儀するほどだった。

 気軽に話ができる相手が近くにいるのが身に染みるほどありがたい。隣の席は面識のない女だ。ご丁寧に男女混合に座るようになっているらしい。一礼して座ると、知らない女は戸惑いながらも頭を下げた。

 足先が冷える。掘り炬燵の前に座り、あぐらをかいて靴下の先を腿の内側に入れ込んだ。

 目の前にはまだ火のついていない鍋、刺身が置かれている。

 「これ、カニ?」

 蓋を持ち上げると、高田は「みたい」と頷いた。

 「道理で値段高いと思ったんですよね」

 「今日先生たちも来るっぽくて」

 「ああ、雅子、海鮮しか食べないから」

 ふと周りを見渡す。法学部全体の飲みということは、もしかして大倉も来ているのだろうか。目を凝らすが、人が多すぎるのと広間が若干薄暗いこともあって見分けがつかない。

 「峯、誰か探してんの」

 高田先輩に声をかけられて我にかえる。

 「別に、そんな人いません」

 視線を手元に引き戻し、手にした携帯を操作した。


 



 宴は盛況だった。

 女の甲高い声。男共のイッキのコールが遠くに聞こえる。俺はテーブルの区画にただ一人座っていた。俺の周りに座っていた他の三人はとっくのとうに席移動して、別の場所でどんちゃん騒ぎをしている。

 高田先輩くらい残ってくれないだろうかと期待したが、あの人はあの人でフランクな人だ。今もあっちこっちのテーブルに呼ばれて、ニコニコ笑顔でグラスを片手に歩き回っているのが見える。あれを引き止めて、他に誰もいない俺のテーブルに縛るほうが酷だろう。

 まあ、別にいい。このまま海鮮と酒をゆっくり味わえばそれで済む話だ。俺はただ義理を果たしたかっただけで、誰かと交流するためにここにきたんじゃない。

 「峯先輩」

 一人の声が耳に沁みた。

 顔をあげると、大倉ゆうながグラスを片手に側に立っていた。明るい髪色によく合うクリーム色のセーターに、秋らしいワインレッドのミニスカート。思わず舌打ちしそうになった。普段履かないミニスカートをよりによってなぜ宴会で選んで履いてきた。ここには有象無象の輩が遊興にふける場だというのに。

 「お疲れさまです」

 大倉がふわっと笑う。そのまま自分の隣に座った。……ここ座っていいですか、とか聞かないのかよ。いや、誰がどう見ても座っていい、がらんどうっぷりではあったけれども。特に何も言わずに当たり前のように、隣に座られるとなんだか居心地が悪く、俺は座っていた足を組み直した。

 「先輩なに飲んでたんですか」

 「芋焼酎」

 「え、オトナ〜!わたし飲めないんですよ。なんか味が変じゃないです?芋を水で浸した後にそのまま飲んだみたいな感じ」

 「なんだそれ。……大倉は?」

 「わたしビールです。はい先輩、かんぱ〜い」

 「ビール飲めんなら芋焼酎もいけるよ。……乾杯」

 威勢のいい掛け声の割に、大倉はそんなに飲まずにグラスを机に置いた。

 「ん? あんま飲んでねえじゃん」

 「わたしあんまりお酒強くないんですよ。実はもうだいぶきてるんです」

 「え、じゃあ無理して飲まなくていいだろ。ウーロン茶でいい?」

 俺が廊下の方へ視線を移すと、大倉は慌てたように首を横に振った。

 「いいですいいです!」

 「そう?」

 「はい。なんか、ビールの味に慣れたくて飲んでるってのもありますし」

 「ああ、そういう」

 「へへ。でも先輩。ありがとうございます、お気遣いいただいて」

 そう言って笑う後輩の目元が潤んでいる。白い頬の内側から赤みが滲んでいる。肌が元々白いから、お酒飲むとすぐに赤くなるタイプか。先輩のお酒、度数高そうですね、なんて言う語尾がいつもより甘く伸びている。確かにいも焼酎の度数は高いのかもしれない。調べてないがなんせ暑い。自分も酒が回ってきたようだ。

 「サラダ、全然食べてないじゃないですか」

 「ああ、これ最初に隣の奴が取り分けてくれたやつ」

 「ミオちゃんですよね?あの子めっちゃいい子ですよ」

 「俺の隣にいたやつの名前よく知ってんな。今いないのに」

 「……それは、あの」

 「でも『別に取り分けなくていい。そんくらい自分でできる』ってトング取り上げたら、ちょっと言い方がさ、まずったみたいで。ってか、まずって」

 「ふんふん」

 「せっかく取り分けてくれたのに、しょんぼりさせて、気まずくなった。そっから会話ゼロ」

 「……ふふ」

 「ミサ? ミク? って子、お前の友達なの? ごめんって伝えといて」

 「ふふ、あはは! はい、お安いご用です。でも先輩もかわいそう」

 「え」

 「せっかくの優しさが伝わらなくて悲しい思いをしましたね〜?」

 「やめろおちょくんな馬鹿」

 大倉のわざとらしい口調に、肩を震わせて笑う。先程まで気になっていた馬鹿騒ぎの中に、自分も放り込まれたような気分。あれほど嫌悪し疎外感を味わっていたその雰囲気が、なぜだか悪くないと感じた。目の前で笑っていた大倉がふと視線をテーブルの上に向ける。細い指が蟹のカラと氷だけになった大皿を差す。先輩、もしかして海鮮好きですか、これだけ綺麗に食べ尽くされてますよ、なんてからかう。俺が食い尽くしたみたいな言い方すんな、他の奴らも食ってたわ、なんて返す。別に面白いことを言ってないのに、それだけで大倉はころころ笑う。何がおかしいんだか。でもここは無礼講の場なんだ、どんだけ後輩がこっちのやることなすことにいちいち笑ったって大目に見るべきなんだろう。

 「大倉ちゃん、ここに座ってたの?」

 喧騒を割って声が差し込まれた。酔っ払ってるやつ特有の、呂律の回らない間延びした声。大倉の後ろから、男共が三名、連れ立って女が一名、全員たった今歩き方を覚えた猿のような足取りでこちらにやってきた。

 「え、意外な組み合わせ」

 大倉と俺を見比べて、手前のやつがチラリと笑う。大倉はただびっくりしたように目を丸くしていた。

 「大倉ちゃんひさびさ! なんか最近海外交流サークル顔だしてないみたいじゃん?」

 「あーごめんなさい。最近バイト忙しくて」

 「前言ってたカフェだよね? いいな〜行きて〜!」

 「そんなバイトばっかしてどうすんのよ? 何欲しいの? バッグ? コスメ? サロンとか通っちゃってんの?」

 「お前そんな激詰めすんなって、ゆうなちゃん引いちゃってんじゃん!」

 そのやり取りの何が面白かったのか、後ろの女が手を叩いて爆笑してる。俺はただ焼酎を口にした。ぬるくなっている。

 「え、てかマジでこの組み合わせ意外すぎるんだけど。接点とかあんの?」

 「カレカノなんじゃね?」

 「マジで!? え、どうなのどうなの?」

 手前にいた男が、おそらくは先輩なのだろうが、俺と大倉を見定めるようにじろじろと見比べている。酔って焦点の合わない黒いまなこと、馬鹿みたいに半開きになった口に嫌悪感がよぎる。見んな。『意外な組み合わせ』なのはこっちだってわかってんだよ。っていうか、さっきから大倉を見る目線が明らかに狙っている。視線がスッと大倉の顔から太ももまで下がり、ミニスカートで留まった瞬間蹴飛ばしてやろうかと思った。  

 「カレカノじゃないです」

 大倉がそう言った。そう。大倉を彼女にした覚えはない。俺は安定した職業に就きたいんだ。恋にうつつを抜かせる立場ではない。若干狼狽えたのは、それを俺が説明するべきだったんじゃないかって思ったからだ。ほら、あいつの方が後輩だから。

 「ただ、図書館で勉強教えてもらってるんです」

 一瞬ときが止まる。

 大倉、お前、なんでそれ言っちゃうの。

 「大倉、」

 酒で酔った俺の口から自制心なく言葉が漏れてしまう。え? という顔で大倉は振り返った。その表情に微塵も躊躇は感じられない。ただ当たり前のことを当たり前のように言った、そんな顔だ。

 そうだ。俺は別に大倉と毎週金曜に図書館にいることを、口止めしているわけではない。ていうか、別に秘密にするべきものでもない。ただ真っ当に勉強しているだけなのだ、やましいことなど何もない。

 それなのに俺は大倉を責めたかった。なんで言ってしまったのか。皆に言うべきものじゃないと詰りたかった。けれど自分がどうしてそう思うのか、そこまで頭が回らない。

 「勉強〜?」

 手前にいた男が素っ頓狂な声を出す。

 「はい。法学部、課題多いじゃないですか。わたし頭悪くて全然できないんで、峯先輩に教えてもらってるんです」

 「え〜マジメ! めっちゃ偉いじゃん!」

 「ホントホント、お前と大違いだわ、こいつこの前の雅子のテストでさ、五点取ってやがんの」

 「マジ!? あれ百二十点満点中じゃん! あんたほんとマジイカれてるわ」

 「へへ。だいたい寝てました。はい」

 「こんな先輩になっちゃダメだよ〜大倉ちゃん!」

 軟派そうな男が大倉の肩を指でつついた。こっちはあまり酔っている様子でもない。顔立ちは整っているが、こういう奴は大抵女泣かせだ。大倉、俺のことなんて好きじゃなくていいから、間違ってもこんな奴に引っかかるな。

 大倉はニコニコ愛想良くしている。酔っ払いの戯言にいちいち付き合わなくていいと言いたいところだが、大倉にとっては親しい輩ならば俺から言えることはない。

 ——それにしても、楽しそうに笑う。

 いや、大倉ゆうなは俺と違って社交性があるのだから、酔いどれにも感じよく付き合えるんだろう。

 けれど、その笑顔が。自分にいつも向けられているものと——どれだけ違うのだろう?

 どくりと心臓が嫌な音を立てた。

 いつも自分にだけ向けられていたと思っていたあの笑顔が、誰にでもそうなのだとしたら。自分のことを好きだと思っていたのが——まるっきり勘違いだったとしたら?自分の思い上がりだったとしたら?

 いや、それなら好都合だ。俺だって大倉ゆうなのことは好きではない。これ以上面倒ごとにならなくて清々するだろう。

 そう思うのに、本当にそう考えているのに、いつしかコップを持つ手が震え出した。

 「マジメな優等生のゆうなちゃんに乾杯しますか!」

 男が大倉の手からグラスを取り上げ、中身を空のピッチャーにあけ、新しいのを注ぐ。その間大倉と他のやつは海外交流サークルの話で盛り上がりはじめた。

 「はい、峯もね! お前もがんがん飲めよ!」

 先ほどの大倉に迫ってた男が、俺の芋焼酎に別の酒を注ぎ込んだ。なみなみと揺れる水面の中で、酒が混ざっていく。

 さっきまで、大倉と一緒の時には、俺と大倉の場所だけが切り取られていた。喧騒からは遠ざけられていた。まるで、図書館のあのひとときのように。

 今は違う。

 「かんぱーい!」

 「はいイッキ、イッキ」

 まるで、あの図書館での自習時間中に他人がずかずかと足を踏み入れてきたような、そんな気分だ。

 「イッキがあればニキもある〜?」

 「ねえ、お前、大倉ちゃんと二人っきりの時に手とか出したりすんの」

 さっきの男が肩に腕を回す。だから顔を近づけんな。酒臭い。大倉に聞かれないくらいに小声なのも気持ち悪い。

 「しない。するわけない。大倉が嫌がんだろ」

 きっぱりと答えると、男は不意に真顔になった。

 「あっそうだよね〜なんかそんな感じするわ〜そんなキャラって感じ」

 「誰がやったって駄目だろ」

 「えーなになに。厳しい。ちょっと潔癖入ってる?」

 その男は俺にしか聞こえない声で「お前、おもんないね」と呟いた。





 「二次会行く人こっち〜」

 道端で仕切っているやつの声が響く。店先の出口は生徒で溢れている。そいつらの吐く息が白い。

 俺はイルミネーションがけばけばしい看板に手をついて息を漏らした。

 酔っている。酒をちゃんぽんにして飲んだせいでかなりきていた。それでも吐いたりはしないし、まだ真っ直ぐ帰れるだけの自制心はあることにホッとした。

 目の前をスッと通り過ぎた人がいた。

 大倉だ。薄茶色のコートを着ている。そのままこっちには目もくれず、二次会に行くメンツの集団の方へ歩いていった。

 そうだよな。大倉は行くだろう。誘われないわけがない。

 「俺、帰ります」

 近くにいた教授に声をかけると、「お疲れ、気をつけて帰れよ」としわがれた声でそう告げられた。

 足元がフワフワする。自分が少しよろけていることを自覚する。そんな自分を許せなくて、なんとかいつも通り歩こうとした、その時だ。

 「——先輩、峯先輩」

 後ろからの声に振り返った。

 大倉だ。

 「帰るんですか」

 「ああ」

 「二次会は?」

 「行かない。もう充分、マジで」

 小走りで追いついた大倉ゆうなは、俺のことをじっと心配そうに見つめた。あれから大倉は大して飲むことはなかった。酒は勧められたが、あまり飲めないのだと困惑しているところで、俺が代打で飲まされていたのだ。

 「先輩、あの、大丈夫ですか。ごめんなさい、わたしの代わりにたくさん飲まされちゃって」

 「平気、俺、酒割と強いから」

 笑ってみせる。

 あの男は俺が潰れて、大倉への好意でもゲロったら好都合とでも思ったんだろう。そんな思惑なんかに乗せられるつもりはなかった。

 酒はきっちり呑み干し、尚且つ醜態を晒すようなことはなかった。それだけが、今回の飲みで唯一胸のすく出来事だった。

 大倉はまだ心配そうにしていたが、不意にアッと上空を見上げる。

 「先輩。あれ、新作のCMです」

 大倉が街中の大型ビジョンを指差した。

 新作ってなに。天を仰いだが、スクリーンの眩しさが酒に酔った目を射る。まだ頭が回らない。それでも焦点を合わせ続けていると、以前大倉が言ってた新作のチョコの話のCMだとわかった。

 あたたかな室内で恋人同士が白いセーターを着ている。ピンク色の背景で、チョコを宝石のようにつまんで、うっとりとした表情で口に含んでいる。ふと、恋人同士の視線も絡み合った。吸い寄せられるように近づく顔と顔。

 『好きになってはいけないと、思ってからでは遅い』

 溶け合うチョコがスクリーンいっぱいに広がり、妖艶に微笑む恋人がこちらに視線を向ける。チョコ会社のロゴが最後に浮かび上がった。

 「みんな……」

 俺は思わず呟く。

 「誰も彼も、恋だの愛だの、くだらない」

 隣に大倉がいる。それなのにお酒でショートした俺の口は止まらなかった。

 「なんで、くだらないんですか」

 大倉の静かな声に、俺は堰を切ったように胸のうちを吐き捨てた。

 「今から恋に落ちたって、将来がどうなるかなんてわからない」

 「え」

 「俺らはなんなんだ。ただの一介の学生だろ。そんなんで恋に落ちることってあんのか? 将来、その女を幸せにできる保障なんてまだどこにもないのに?金を稼げるかもわからないのに? 愛欲にうつつを抜かしたって現実問題、一生なんて誓えないだろ。いや、そう言える人がいたとしても、そんな都合のいい人を見つけようとすること自体が傲慢なんじゃないのか?」

 支離滅裂な言葉が溢れ、何を言ってるのか自分でもわからない。息が途切れ、俺は黙った。

 さあ、これで大倉ゆうなは俺のことを嫌っただろう。恋人なんざ作れない、そんな俺に期待をかけるのはもうやめにした方がいい。大倉のためにならない。さっさと二次会でもなんでも言って、新しい彼氏でも作るといい。

 終わりの足音が聞こえる気がして、俺は目を瞑った。怖がっているのではない、先ほどのシーンが眩しくて目が辛くなっただけだ。

 だけど、足音は聞こえなかった。代わりに大倉の笑い声が柔らかく耳に届いた。

 「嫌だなあ先輩」

 大倉はくすくす笑って口元に手を当てていた。

 「そんなこと考えてたんですか」

 「そんなことって。俺はすげえ真剣に考えてたんだ。恋に落ちたってその先の保障なんてない。人がいつまでも愛情を持ち続けることができるかどうかなんて大倉はわかんのかよ」

 軽くあしらわれて、かっと血がのぼる。思わず悪態をついた。ずっと考え続けていたことだった。頭の中を鉛のように重く占めていた。お前もこれを『つまらない』というのだろうか。お前には、大倉だけには、この考えを軽んじて欲しくなかった。

 冷静さを失う俺のことを大倉ゆうなはどこか達観したかのような目で見つめた。 そして、ゆっくりと言った。

 「先輩、難しく考えすぎ」

 「……」

 「恋に落ちるのに、理屈なんていらないですよ」

 そうしてふわりと笑った。

 その時に湧き上がった感情を、俺は名付けられなかった。強いて言葉に出すのなら、目の前を眩しい、星屑が散ったようだった。ちらちらとひかるそれを間違って吸い込んだらしい。喉が詰まって言葉も出ない。おまけに肺まで痛い。違う、胸だ。胸の内が絞られる。湧き上がる感情の鮮烈さに眩暈がした。

 「ゆうな〜! 行くよ〜!」

 大倉がすみませんだの、気をつけて帰ってくださいだの言うのを、どこか遠くの国で起きている出来事のように見ていた。

 俺はそのまま、五月蝿い交差点のそばで立ち尽くしていた。



 


 銀杏の葉が落ちる。

 あの飲み会から一週間、次の金曜日の四講になった。

 俺と大倉ゆうなはあれから変わらなかった。また自習をするだけの時間。お互いに机を挟んで頭を付き合わせる。本当に何ひとつ変わらない。強いていうのなら、十二月に迫るクリスマスに向けて、図書館の掲示が雪だるまだのクリスマスツリーだのに変わったくらいだった。

 はらりとページをめくる音。遠くで誰かが咳払いをする。元の静寂に安堵する。

 ——すると、大倉はスッとプリントの束を出した。

 「先輩、これ今週の宿題なんですけど」

 差し出されたそれは、新しい先生の宿題だった。分厚い。左端がホチキスで止められていた。

 「ずいぶん多いな」

 「そうなんですよ、しかも難しくって」

 大倉はため息をついた。

 「先輩、この先生の授業なかったですもんね。いいなあ。新田先生、最近やたら宿題の量増やしてきてるんですよ。つら〜い」

 「……悪いな、何も力になれなくて」

 「えっ!いえ全然!大丈夫ですよ、こっちは他の人に聞いてみますね」

 それだけ言うと大倉は紙束を鞄に仕舞い込んだ。宿題の多さを嘆きたかっただけなのだろうか。そのまま筆箱や参考書まで次々と入れていくのを見て、俺は頬杖の状態から顔を少し浮かせた。

 「……えっ?お前もう帰んの」

 「はい。今日バイトで」

 「あ、……そう」

 金曜の四講、この時間帯はいつも日が暮れるまで図書室にいるのに。珍しい、と口に出そうになって堪えた。しかし気がつかないうちに表情には出ていたらしい。大倉が申し訳なさそうに付け加えた。

 「最近、バイト増やしてるんです」

 ああ、あれって、ただの口実じゃなかったんだ。静謐な図書室に似合わない酒の香りが一瞬漂った気がした。「なんでバイト増やしてんの」自分の口が動く。なんだこの台詞は。『何欲しいの。バッグ? コスメ?』これじゃあ、あの夜の再演だ。

 「宿題も、いつもの分は終わりましたし」

 その問いかけには答えず、大倉はそう言った。聞こえなかったのか、それとも答えたくなかったのか。それにしても宿題が終わった? こんなに早く? 今日は何も大倉から質問をされていないのに。

 なるほど、ずいぶん順調に宿題が進んだのだ。唯一わからない部分が新講義の宿題の範囲内なのだとすれば、俺ができることは何もない。

 後輩の学力が上がったことも、そのおかげで俺と一緒にいる時間が少なくなることも、どちらも非常に歓迎すべきことだ。教える時間が少なくなることで、俺一人の自習時間だって長くなる。ただ、大倉があまりに突然言い出すから少し、心臓が跳ねたというか。びっくりしただけで。

 「大倉、あの」

 「え?」

 「——この後、誰かと会ったりすんの?」

 口にしてから、なんて陳腐なのだろうと息を呑む。俺の発言は図書館の清澄な雰囲気とはあまりにも場違いだった。

 「いえいえ、バイトですってば」

 大倉は笑いながら目を眇めた。頬の線がいつもより引き締まっている。こんな表情の彼女はあまり見たことがない。灰色の瞳が何故か、少し緊張しているかのようだった。

 「来月までに、買いたいものがあるんです」

 大倉は鞄を肩にかけ、ばたばたとその場から走り去っていった。細い足がもつれそうになるほど焦っている。その背中はすぐに小さくなって、階段をまわって見えなくなった。

 来月までに買いたいものがあるらしい。珍しく宣言したところによると、なかなか大きな買い物なんだろうか。いいじゃないか。大倉が勝手に欲しいものでもなんでも手に入れば。そこまで考えて、図書室の壁面に飾られた赤と緑のデコレーションにふと目がいく。来月って。ああ、つまり、そういう。

 音を立てて椅子を引く。パイプとコンクリ床が擦れる不必要なほど大きな音が図書館の上階に響き渡る。

 意味もなく立ち上がったことを誤魔化すように、鞄の中から財布を取り出す。歩き出す足元がふわふわとしている。現実感がない。混乱の渦の中に放り込まれているが、一体何に動揺しているのか自分でもわからない。

 クリスマスね。そんなのすっかり忘れてた。自分には縁遠いし、別に好きでもなんでもない。世間はやたら騒ぎ立てるが、自分にとってはどうでもいいイベント。まあ、大倉は好きそうだ。イルミネーションの中、はしゃいで街中に行く様子なんて容易に目に浮かぶ。買いたいものって、なんだその微妙に遠回しな言い方。そんなの絶対にクリスマスプレゼントだろ。

 自分用にいいものでも買うんだろうか。化粧品だのなんだの。大倉ならジャンキーなチキンセットとかでも喜びそうだ。それとも——さっきの、俺を真正面から見据えた瞳を思い出す。俺に対して、とか。普段のお礼です、みたいな感じでプレゼントを渡してくれるのを想像して頭を激しく横に振る。なんだその、都合のいい解釈。都合がいいってか、そんなの無理だろ。受け取れない。ただのお礼ならともかく、クリスマスプレゼントなんて。なんの意味も篭ってない訳などない。

 それなら、誰か他のやつへのプレゼントだとしたら?

 そこまで思考がたどり着いた瞬間、適当に歩いていた本棚の合間でバッタリと人に遭遇した。

 女だ。名前は覚えていない。でもその顔は覚えている、嫌というほど。あの飲み会で大倉に話しかけていた、取り巻きの内のひとりだ。

 相手もこちらに気づいたであろう、一瞬目があったが、どことなく気まずそうな顔をしてすぐに目を逸らす。

 気まずいのはこっちの方だ。別に会話なんてしやしない。っていうか、なんでこんな図書館の上階までこんなやつが入り込んで来るんだ。側から見れば理不尽な思いが込み上げてくる。ここは公共の場で、俺と大倉だけの場所ではないのに、異物が紛れ込んだような苛立ちが胸を掻きむしる。まるであの飲み会で集団が割り込んできた時のようだ。

 その場から振り切るように、俺は階段に向かった。

 一歩一歩段差を降りながら、冷静になれ、と自分に言い聞かせる。

 そうだ。大倉がどうしようと大倉の勝手じゃないか。金曜の四講に会うこと自体、別に義務でも強制でもない。大倉が早めに帰って遊びたけりゃ遊べばいいし、バイトを入れたけりゃそうすればいい。たとえそれが、他のやつへのプレゼントを買うためだとしてもだ。いや、他のやつに心変わりしたんだったならそれこそ好都合じゃないか。

 そのうち、金曜の四講に集まるこの時間だって、無くなるかもしれない。大倉の宿題は新しい先生に出されるものが多くなってきている。俺が教えられることだって少なくなった。俺がついてなくてはならない意味なんてなくなっていくのかもしれない。

 心臓がどくりと嫌な音を立てて動き出す。あのずっと続いていた、切り取られていたような時間が粉々に崩れていくのが目に浮かぶ。女が、誰かが、第三者が、あの空間を壊していく。息切れを起こす。やめてくれ、今になって壊さないでくれ。

 思考を巡らせているうちに、ふと自分が暗い室内にいることに気づく。無味乾燥な白い蛍光灯に照らされたそこは書架だった。一階も過ぎて地下まで降りてしまったらしい。針を落としたら響そうな、無人の空間。大量の古本に、自分の息すら吸われそうな静寂がそこにはあった。ああ、ここなら、誰にも邪魔されないのかもしれない。これだけ静かなら、誰も入ってこないだろう。そこまで考えて首を振った。何を考えている、何を、そう、ここには自習できるような机も椅子もないのに。

 そうだ、せっかく来たのなら、参考資料でも探さなければ。自分には時間があるのだから、勉学に打ち込まなければ。半ば強制的に足を動かす。稼働棚のボタンを押して内部に入る。自分が求める資料がどこにあるのか目処がつかず、思いつくままに歩き出す。

 『ねえ、お前、大倉ちゃんと二人っきりの時に手とか出したりすんの』

 出すわけない。俺は、ただ大倉が、俺が自習中に押しかけてくるから、だから仕方なく一緒の時間を過ごしていただけで。ざっと並ぶ本の列から『蒲団』の表紙が目に入り、耐えきれなくてリノリウムの床へ目を逸らした。

 『好きになってはいけないと、思ってからでは遅い』

 違う、違う。俯いたまま頭を掻きむしる。違う、勝手に名付けるな。愛情なんて信じない、絆なんて壊れるだけだ。そんなのに傾倒するなんて馬鹿のすることなんだ、俺は大倉のことなんて好きじゃない。

 肘が書架に並ぶ表紙に当たり、バサバサと派手に本が落ちる。床の上に本が散乱し、俺は一瞬我に返った。混乱の渦の中、台風の目に差し込む一条の光のように、彼女の言葉が胸の内に蘇る。

 『恋に落ちるのに、理屈なんていらないですよ』   

 口を手で覆った。目を見開く。いつか見た鮮烈な星屑が散っている。いつの間にかそこには、動かざる真実が心の奥底に根付いていた。深く、抜けないほど根深く。

 「……え?」



 秋晴れの夕暮れ、真っ赤に色づいた南天の実。

 その実がふつりと枝から落ちた。



 完









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