第38話 囚われの英雄


 ズキリと背中が引き攣れるように痛んで、ヴァルクは目を覚ました。天井から吊された鎖で繋がれた手錠が、頭上でカシャリと音を立てる。

 牢獄には通気孔が天井にあるだけで窓はなかった。他の仲間達は離れた牢にいるのか、周囲に人の気配はない。鉄格子の扉の向こうで、廊下の松明が頼りなく燃えているだけだ。

 またしても背中の傷が、燃えるように痛む。ディオニーの奴が頻繁にやって来ては、兵士に命じてヴァルクを鞭で打つせいだった。気を失えば、頭から桶の水を掛けられて起こされるわけだが、ここへ入れられて食事も水も与えられていないので、その桶の水だけが生命線といってよかった。頭から滴る水滴を舐め取ることでしか、水分補給ができない。

 ディオニーはまだ、こちらに対する腹いせだからわかりやすい。厄介なのはトリスティンとかいう公子のほうだ。

 浮かれたような、軽い足取りが聞こえてきてヴァルクはうんざりした。気絶したフリでもしてようかと思ったが、隙を見せるのも気持ちが悪い。

 予想通り近づいてきたのは、トリスティンだった。護衛の騎士達を連れて、機嫌よさげに格子扉越しに話しかけてくる。


「感心、感心。まだ生きてるね」


 トリスティンは騎士に命じて扉を開けさせると、無遠慮にヴァルクに近づいてきた。騎士が「トリスティン様」と声をかける。


「あまり近づくと危険です」

「平気さ。両腕が拘束されてるんだから」


 トリスティンの背後には騎士以外に、侍従らしき青年がいた。リオネルほどじゃないが、女みたいに整った顔をしている。侍従はトレーを持ち、その上には杯とソーセージが盛られた皿が置かれていた。美味そうな肉の照りに、思わずごくりと喉が鳴る。

 それに気づいて、トリスティンが微笑んだ。


「ああ、これ。欲しいかい? そうだよねえ。ディオニー公が食事も水も与えてないって聞いてさ。それはあんまり可哀想だろうと思って、持って来たんだよ」


 トリスティンは水の入った杯を手に取って、ヴァルクの口元に近づけた。


「さあ、可愛いお口を開けてごらん」

「……」


 全身に鳥肌が立った。なんなんだこいつ。

 口を開けないヴァルクに、トリスティンは「どうしたんだい」と首を傾げた。


「ああ、毒なんか入れてないよ。心配なら、口移しで……」

「杯のまま頼む」


 ヴァルクは即座に懇願した。杯が唇に押し当てられ、水が流れ込んでくる。ヴァルクはごくごくと喉を鳴らして飲んだ。


「他の仲間は無事なのか」

「一緒に捕まった連中のこと? 無事だよ。まとめて牢に放り込んである。ディオニー公が虐めているのも、君だけだから安心して」


 ヴァルクはホッと息をついた。その口に、今度は太いソーセージが突っ込まれる。


「ぅぐ……」


 噛むと、肉汁が顎から伝い落ちた。トリスティンが満足そうに微笑む。


「そうそう。じっくり味わいながら食べるといい。……砦の外にいる君の仲間達は、まだしつこく野営をしていてね。君という人質がいる限り手を出してこないだろうが、いつまであのように居座るつもりなのか。犬でさえ、負ければ尻尾を巻いて逃げる頭があるというのに」

「……」

「ああ、それにしても五、六年くらい前の君に会いたかったものだ。私の好みは成人を迎えたばかりの、少年らしさを残す若者たちなんだよ。可愛らしさと色気が絶妙に共存しているような。そういった点で言えば、君は男らしく成長しすぎている」


 ヴァルクはソーセージを食べ終え、ごくんと飲み込んだ。もったいないから食べたが、食欲が一気に失せた気がする。


「ここは小さくて可愛いらしいが」


 いきなり両胸の先を抓られて、ヴァルクは痛みに呻いた。頭上で鎖が揺れて、音を立てる。トリスティンが「あれ」と笑った。


「意外といい反応するなあ」

「触るな……っ」

「そんなに睨まれると、私まで君を虐めたくなるよ」


 トリスティンが笑いながら、鞭打たれた背中の傷口をわざわざ引っ掻いた。痛みを堪えていると、トリスティンが肩口に顔を埋めてくる。ガリッと嫌な音がして、思い切り噛みつかれた。


「い……っ」


 本当に、なんなんだこいつは。これならディオニーのクソ野郎に「愚民」だの「駄犬」だのと罵られて鞭打たれるほうが遙かにマシだ。肩から血が流れ落ちるが、トリスティンは喰いついたまま離れようとしない。

 本気でこのまま、肉でも喰い切ろうというのか。ヴァルクは苦痛に息を漏らした。


「イソルテ公国では、人肉嗜食の習慣があるの?」


 森の奥から聞こえる小鳥のさえずりのように、その声は軽やかに牢獄に響いた。ヴァルクは痛みも忘れて顔を上げ、鳶色の目を見開く。


「――…どうして、ここに」


 幻覚だろうか。鉄格子の向こうに、リオネルが立っている。最後にキスして別れた時と同じ、天使のような美しさで。だが麻のローブではなく兵装姿で、白いマントを羽織っていた。それに髪が――腰まであった黄金の髪が、うなじのあたりでばっさりと切られている。


「殿下。イソルテ公国にそのような習慣はございません」


 リオネルの傍に控えたディオニーが説明すると、リオネルは小首を傾げた。


「でもニーニ。公子殿は食事中のようだけど」

「あれは別の趣味です」

「ふうん」


 リオネルはまるでヴァルクのことなど知らないような顔で、ディオニーに対し甘えたような口調で喋る。わけがわからずヴァルクが呆然としていると、同じように驚いていたらしいトリスティンが血のついた唇を拭いながら、鼻息荒く言った。


「ディオニー公! 彼はまさか……」

「はい、公子様。リオネル・アイゼン・レア王太子殿下です。先程、砦にお着きになられまして」

「言ってくれれば迎えに行ったのに……っ」

「突然、いらっしゃいましたので……私も驚いていたところです」


 本当にディオニーにも想定外だったのか、それとも最後に会った時からリオネルの姿が変わりすぎているからか。落ち着かない様子で、額の汗をハンカチで拭っていた。


「リ――リオネル殿下、私を憶えていらっしゃるだろうか。トリスティン・ギデンズ・イソルテだ。以前に同盟成立記念式典で……」

「ああ……十周年の。イソルテ公国のポルソワ大聖堂だったかな」

「ええ、ええ、そうです。ああ、思った通りお美しく成長なされて……!」


 トリスティンは握手をしようと、いそいそと手を差し出した。しかしリオネルは不快そうに一歩下がり、ディオニーの後ろに隠れた。

 トリスティンが「で、殿下?」とショックを受けたような顔をする。ディオニーが気づいて言った。


「公子様、お手が……」


 ヴァルクの傷口を弄って遊んでいたせいで、トリスティンの手はべったり血で汚れていた。ディオニーが咄嗟に自分が持っていたハンカチを差し出そうとするが、リオネルがぽつりと呟いた。


「それ、さっきニーニが汗ふいたやつでしょ」

「あ……そうでしたな」

「そんなことよりさあ、他の人質ってどこにいるの?」

「東側の牢獄です! ご案内しましょうか」


 トリスティンが媚びを売るように、リオネルの傍に寄っていく。

 なんというか、リオネルが来て急に――この場の主が、彼になってしまっている。リオネルの傲慢な態度があまりにも自然で当然で、誰も逆らえていない。

 トリスティンが「それにしても…」とリオネルを熱っぽく見つめながら言った。


「革命軍に囚われているとお聞きしてましたが、どうやってここまで?」

「ああ、うん。途中までは、彼らに連れて来られたんだ。僕と、ここに捕まってる兵士達とで人質交換をするって。でも逃げてきたんだ」

「よく逃げられましたね」

「そうだね。すぐそこまでは縄で繋がれて来たんだけど、正門前で突き飛ばして逃げて、イソルテ軍の人に助けてもらったんだ」

「それはそれは……お美しい殿下を縄で繋ぐとは、なんと許し難い……」


 トリスティンは何を想像しているのか、今にも舌舐めずりをしそうな顔をしている。こいつはまずい。変態だ。殿下は今すぐ逃げるべきだ。


「でん……」

「まだ砦の外にいると思うんだよね。他の自由騎士団の連中も、砦近くに野営しているままだって聞いたし。だから――ここにいる人質どもを処刑してやったら面白い見世物になると思うんだけど」


 リオネルの口から出た言葉だとは思えなかった。

 ディオニーが「しかし殿下…」と躊躇いがちに言った。


「そのようなことをしたら、連中の怒りを買うのでは。王城にはまだ、妹君と陛下が囚われております。報復に、彼らが何をされるか」

「じゃあニーニ、僕が逃げずにここへ連れて来られていたら、どうするつもりだったの? おとなしく人質交換に応じて、ヴァルク達を見逃す気だった?」

「それは……」

「連中は妹や父上には何もできない。王太子と革命の英雄を失ったら、次に祀り上げる象徴が必要になる。それにはおとなしいエリーがうってつけだよ。病人の父上を盾に取られたら、エリーだって従うしかないしね。だから今回の人質交換でも、奴らはエリーを連れて来なかった。それがわかっているから、ニーニもどうせヴァルク達を殺しちゃうつもりだったんでしょ。違う?」


 ヴァルクの中で、違和感がどんどん大きくなっていく。目の前の人物は、本当にあのリオネルなのだろうか。確かに彼は賢かったが、ヴァルクと二人きりの時でさえ、彼はいつもどこか自信なさげだった。それなのに今は、ディオニーさえたじろぐほど鋭く切り込むような威圧感がある。


「……ご明察に、返す言葉もございません」

「なら処刑しちゃって問題ないね。人質は、全部で何人いるんだっけ」

「二十三名です」

「そんなにいるの? じゃあ広場でいっぺんに首を刎ねちゃおうか」

「お待ちください」


 トリスティンが唐突に口を挟んだ。


「首を刎ねて終わりなんてもったいない。せめて主犯格のこの男だけでも、もっとじっくり時間をかけて罪の重さをわからせてやるべきです。ぜひ私に任せていただければ」

「彼は僕のものだ」


 ぞくりとするほど冷たく、リオネルがトリスティンを睨み付けた。


「イソルテ公国の助力には感謝する。でもここは僕の国で、そいつは僕を牢獄に閉じ込めた大罪人だ。処刑は僕がやるし、他国の公子に口を出されるのは不愉快だよ」

「ご……ご気分を害されたなら申し訳ない。私はただ、よかれと思って……」

「うん。じゃあ手伝ってくれるよね。処刑」


 リオネルがにっこりと微笑むと、トリスティンは頬を染めながら「はい…」と頷いた。

 ヴァルクは未だに何が起こっているのか、さっぱり理解できなかった。リオネルは自分を処刑しようとしている。やっぱりあれだ。キスしたのがいけなかったんだ。勢い余って舌まで舐めたし、かなりご立腹なのに違いない。

 しかし、だからといって他の仲間まで殺すのはリオネルらしくない。ということは、これは何かの作戦……?

 ちらりとリオネルを見る。目が合う。


「いつもは僕が牢獄にいるのに、今日は逆だ」

「……はい」

「このような卑しき者が尊き王太子を投獄するなど、あってはならないことでした」


 ディオニーが汚物を見るように、顔を顰めた。トリスティンが「まったくです」と頷く。


「今すぐ首を落としたっていいくらいだ。何か不埒な真似などされませんでしたか」

「不埒な真似って?」

「触られたり噛まれたり鞭打たれたり」

「ああ、触られて舐められ……」

「殿下!」


 ヴァルクは羞恥に耐えきれず大声で止めた。リオネルがこちらを向く。


「とりあえず処刑するから、行こうよ」


 とりあえず、短い髪も似合っていて可愛いかった。






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