第36話 兄妹
牢獄の天井近くにある小さな格子窓から、白い雲が流れていくのをリオネルはひたすら眺めていた。
ヴァルクが来なくなって、書類仕事も届かなくなり、やることがなくて暇だった。食事やら水やらは、鉄扉の小窓から出し入れされる。けれどやっぱり怖くて、仮に毒が入っていたとしても命にまで影響はないだろう一口や二口程度しか飲み込むことができなかった。それに、相変わらず酸っぱくてまずい黒いパンとチーズで、美味しくもなかった。
ヴァルクの手料理が恋しい。
……というより正確には――ヴァルクがいないことが、寂しい。
リオネルは無意識に唇に手を当て、頬が熱くなった。
彼がどういうつもりで、あんな真似をしたのかはわからない。この間も急に発情していたし、仕事の疲れによる衝動的なものだったのかもしれない。
でも全然、嫌じゃなかった。むしろもっと――求めて、必要としてほしい。そう思ってしまう。
他人の愛情なんて期待したら、ろくな目に遭わない。そう学んだばかりなのに。
「早く帰ってこないかな……」
溜め息をつくと、下でガチャリと塔の扉が開閉する音がした。話し声が聞こえ、誰かが階段を上がってくる。
食事の時間じゃないし、ヴァルクの足音でもない。リオネルは毛布を頭から被って、部屋の隅、ベッドの物陰に逃げ込んだ。ノックもなく解錠され、扉が開けられる。
「あれ? いない」
知らない男の声がする。何だ。誰だ。怖くて縮こまっていると、懐かしい声がした。
「本当に、お兄様がこんな所に?」
「……エリー?」
ベッドの陰から、毛布を被ったまま顔を出す。すると茶色い髪を一つに束ねた男の傍に、部屋着の上から外套を羽織った妹が立っていた。エリアナの青い瞳が大きく見開かれ、涙が浮かんでいく。
「お兄様……っ」
エリアナが駆け寄って来て、毛布ごとリオネルを抱きしめた。
「お兄様、ご無事でしたか。ああ、こんなに痩せてしまって……っ」
毛布を被っていても、抱きしめた感触で肉がないことに気づいたのだろう。エリアナは涙をこぼした。元気そうな妹の姿に、リオネルも安堵して目が潤みそうになる。しかし兄の威厳を保つためにぐっと堪え、泣かずに言った。
「どうしたの、こんな所まで。何かあったの?」
エリアナはしばらく泣いてぐずっていたが、鼻を啜り上げながら言った。
「……彼が、お兄様に用があるみたいで」
「彼? 誰?」
リオネルは扉を背に立つ男を見た。背の高い軽薄そうな男は、見覚えがあるような気がする。彼は「どうも」と口元だけで笑みをかたどった。
「革命の日にお会いして以来ですね、リオネル殿下。自由騎士団の副団長をやっているカイル・デューイと申します」
自由騎士団の副団長……そういえば私室に押し寄せてきた時、ヴァルクの隣にこんなのがいたような気がする。
「ウチの団長が、殿下にはいろいろとお世話になったようで」
「ヴァルクが帰ってきたの?」
そうだったらいいと期待して尋ねれば、カイルは「いいえ」と横に首を振った。
「そのご様子だと、あいつとは本当に仲が良かったみたいですね」
「……友達だよ。いけない?」
「殿下を逮捕して牢獄にブチ込んだ男ですよ。おれだったら恨みこそすれ、友達だなんて一生思えないですけどね」
「恨まれているのは僕のほうでしょ。この国がどんなにひどい有様だったか、ヴァルクが持って来てくれた書類を見て初めて知ったんだ。本当だったら僕も、処刑されてたって仕方ないのに……父上のおかげで生かされてる。そんな僕に、ヴァルクは親切にしてくれたんだ。彼は良い人だよ」
ちょっと変態なところはあるけど、と心の中で付け加える。カイルは「ふーん…」と観察するようにリオネルを眺めていたが、やがて言った。
「じゃあ、あいつが死ぬより生きてるほうがいいですか?」
「そんなの当たり前だろ。……死ぬって何? 遠征先で事故にでも遭ったの?」
「遠征?」
「国内を巡視するって、そう言ってたよ」
違うのだろうか。なんだか嫌な感じがする。カイルは口元に手を当て「ああ、心配させたくなかったのか」と呟いた。
「実は今、我が国はイソルテと戦闘中なんです」
「……えっ?」
寝耳に水などという程度じゃなかった。そればかりかカイルのもたらした情報は敗北、ヴァルクが捕虜になったという最悪の事態だった。
目の前がぐらりと揺れて、リオネルは座っていたにもかかわらず上半身がグラついた。傍にいたエリアナが支えてくれる。
「お兄様、大丈夫ですか」
「ディオニーとイソルテ公国は、リオネル殿下とお姫様の身柄を要求しています。ヴァルクはその人質です。他にも数名の兵士達が捕まっています」
「そ……そんな。わたくし達、どうすれば」
「わかりません。だから相談しに来たんです。ヴァルクは、殿下をいつも頼りにしているようでしたから……何か良い案があるんじゃないかと思ったんです」
良い案なんて、そんなの――頭が真っ白で、何も思い浮かばない。
ヴァルクが死ぬかもしれない。もう帰ってこないかもしれない。
父が倒れた時のように、もしかしたらそれ以上に、リオネルは打ちのめされていた。彼を失うくらいなら、自分が毒を飲んで死んだほうがマシだとさえ思えた。もうこれから先一生、太陽は昇らないと言われたような気分になる。
開きっぱなしだった鉄扉が控えめにノックされ、リオネルだけでなく一同が振り向いた。看守の兵士が「あの、すみません」と声をかける。
「補佐官、少しいいでしょうか」
「なんだよ。後にしろ」
「え、あの、……はあ」
煮え切らない返事に、カイルが舌打ちをした。鉄扉まで行き、兵士と何事か話をすると「なんだって」と大きな声を上げる。リオネルは心臓がぎゅっと掴まれたような気がした。
「ヴァルクに何かあったの?」
「いえ」
カイルはいったんそこで言葉を切り、半信半疑という様子で呟いた。
「陛下がお目覚めになったそうです」
言われている意味が、よくわからなかった。リオネルはエリアナと顔を見合わせた。エリアナが言う。
「……起きるのは、珍しいことじゃないわ。意識が朦朧となさっているだけで……食事だって、その時にさせているのだし」
「そうではなく……侍女に……『体が痛いから、起こしてくれ』と言ったそうで」
「お父様が……言葉を話したというの?」
「そうらしいです」
リオネルは思わず立ち上がった。被っていた毛布がハラリと落ちる。
「父上」
戻ってきてくださった。もう元の父上には、会えないのだと諦めていたのに。
カイルと看守が、姿を晒したリオネルを唖然とした顔つきで眺めていた。酒樽のようだった王太子が金髪美女のごとく変貌していたので、理解が追いつかなかったらしい。
リオネルはそんな彼らを押しのけて、ふらつきながら鉄扉を出て階段を降りた。靴も履き忘れた裸足のまま、草地へと飛び出す。
「お兄様、待って……っ」
エリアナが後から追いかけてくる。リオネルは振り返り、妹の手を握った。
「行こう」
「はい!」
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