第29話 グリムフォード砦



 レア王国北部の国境、グリムフォード領。

 かつて一度、隣国イソルテに奪われた領土であったが、現王ジリオンが少数のみの奇襲攻撃で砦を奪取した、英雄伝説の残る地である。

 国が荒れても、闘病中である王の人気は薄れていない。王が全盛期と同じように活気に満ちた国に変えてくれることを、誰もが願っている。

 だが、羊が放牧されたのどかな平原が続く野に、土煙が舞い上がった。騎馬兵の大群であった。掲げている旗は、レア王国の金獅子ではない。山吹色にハヤブサの旗、隣国イソルテ公国のものである。

 グリムフォードは王の直轄地であったが権利書の譲渡により、今はディオニー・スヴァンテ公のものになっていた。奇しくも革命の余波で砦の兵士達は民衆によって追い払われており、今や地元の男達が自警団と称して砦を守るのみ。

 本物の軍隊であるイソルテ兵士達に、彼らが敵うはずもない。

 歴史が繰り返すかのごとく、イソルテ公国にグリムフォードを奪われるのに、たいして時間はかからなかった。




 自由騎士団長ヴァルク・カーディアは自室で頭を抱えていた。自室といっても、近衛兵宿舎の一室である。ジェラルドは新政府を率いる執政官なのだから、空いたリオネルの部屋を使うべきだと言ったが、とてもそんな真似はできなかった。というか、あんなに煌びやかな部屋は落ち着かない。なので、近衛騎士時代にも馴染みがある兵舎の、隊長用の個室を一つ間借りして使っていた。

 悩みの種はもちろん、王太子リオネルのことである。


「ハァ……殿下……」


 こぢんまりとした執務机には、城館廊下でたまたま見つけた、幼い頃のリオネルの細密画が置かれていた。ふわふわの金髪をなびかせ、薔薇色の頬で笑う幼い王子があまりにも可愛かったので、手鏡ほどの大きさのそれを誰にも見つからないよう一つ運んで来たのだ。別に盗んだわけじゃない。ちょっと借りただけだ。

 幼児のリオネルはふっくらしていて、逮捕直後の太っていた時と似ている。民が飢えているのにと腹を立てたが、今にして思うと太っていても可愛かった。抱きしめたら、きっと夢のようにやわらかかったに違いない。

 王子に抜かれてから、ヴァルクはますますリオネルを意識せずにいられなかった。しかし一方のリオネルは、これまでと変わらない調子で仕事の話をしては「おなかすいた」「湯浴みがしたい」と仔猫のように甘えてくる。本当に可愛い。いや、それはともかく。


「やはり、きちんとお話しせねば……」


 殿下は優しい。ネズミにさえ慈悲を与えるほど。だから、困り果てていた自分を手淫という手段で助けてくださったのだ。

 しかし、あれは良くないことだ。あんなことをしてはいけない。危険な変態が近くにいたら大声で助けを求めるか、急所を強打して再起不能にするべきだと教えなければならない。

 しかし――


「……」


 もう一度、してほしい。そんな欲が渦巻いて消えない。

 ヴァルクがジレンマに悶えて溜め息をついた時だった。慌ただしくドアが開き、ジェラルドが飛び込んできた。


「執政官! よろしいですか」

「なっ、なんだ急に!」


 ヴァルクは細密画を急いで引き出しに隠した。ジェラルドが険しい顔つきで言う。


「グリムフォードが落ちました」

「なんだって?」


 王城に急使が届いたのは、イソルテ公国に占拠された一週間後のことだった。グリムフォードの自警団は精一杯馬を走らせてきたのだが、街道のあちこちに検問があるので、ずいぶん時間が掛かってしまったのである。

 ヴァルクはジェラルドから渡された書状に目を通し――彼の鳶色の目が、怒りに満ちていった。


「ディオニー……! 国まで売ったのか……っ」


 事の発端は、ディオニー・スヴァンテであった。

 彼は王都から逃げおおせたあと、隣国イソルテに助けを求めた。「逆賊が王城を占拠している。同盟国として助けてほしい」と。そしてイソルテ軍を自身の領土(だと言い張っている)グリムフォードに招き入れたのだ。

 イソルテ公国からすれば、レア王国に正面から堂々と攻め入る絶好のチャンスだ。ディオニーとともにレア王国を平らげ、侵略しきった暁にはディオニーを総督として据え置く。そんなところだろう。


「連中は王城の解放、そしてリオネル殿下とエリアナ殿下の身柄を求めています。王太子を確保すれば、ディオニー側が正規軍を名乗れるわけですから……」

「あの男は、どこまで殿下を利用すれば気が済むんだ……!」


 “ニーニ”と親しげに呼んでいたリオネルを思い出すと、腹の底から焦げ付くような憎悪が沸き上がった。


「俺がグリムフォードに行く。放っておけば王都にまで攻め入ってくるだろうからな」


 ジェラルドは危惧するように言った。


「……イソルテ軍は、相当の兵力を有していると思われます」

「だから?」

「王子殿下に指揮を執っていただきましょう」


 ヴァルクは「は?」と聞き返してしまった。


「王子殿下が指揮官なら、我々が正規軍です。連中の『逆賊退治』という大義名分を奪うことができます」

「バカを言うな。連中は殿下を欲しがってるんだ。宝を目の前に差し出せって言うのか」

「囮にちょうどいい。仮に殿下を失っても、我々にはエリアナ王女がいます」


 気づけばヴァルクは怒りのあまり、ジェラルドの胸倉を掴んでいた。


「おまえまで、殿下を利用するっていうのか。それじゃディオニーと変わらない!」

「我々が守るべきは国です! 堕落した王子なんかじゃないっ」

「よくもいまだにそんなことを。さんざん助けてもらってるのは、おまえだってわかってるだろうっ」

「だから何だって言うんです。今更、王子を幽閉したのは間違いだったと世間に公表するんですか。民衆がそれで納得するわけがない。あの王子は革命の日に、死んでおかなきゃいけなかったんだっ」


 ヴァルクはジェラルドを殴り飛ばした。ジェラルドが床に倒れ、眼鏡が外れて転がる。

 ――僕が死んだら、チュチュの隣にでも埋めといてよ。それで、たまに花を添えてくれ。


 風呂に入れると喜んでいた日の、リオネルの言葉が脳裏を過る。

 ネズミの死骸と埋めろなんて、一国の王子に言わせたのは誰だ。

 開きっぱなしだった扉から、カイルとエリアナが王女が入って来た。


「おいおい。書記官が急ぎの用があるって言うから来てみれば……いったい何の騒ぎだ」

「ジェラルド卿、大丈夫ですか?」


 唇の端に血を滲ませていたジェラルドに、エリアナが心配そうにハンカチを差し出す。ジェラルドはそれを受け取らず、手の甲で拭った。


「……絶望の闇に慣れきっていた我々に、光を当てて目を覚まさせたのはあなたです、執政官。今更、なかったことにはできない」

「革命なんかしなきゃよかった」


 両親の復讐をするだけに留めておけば、リオネルがこれほど不遇に扱われることはなかったのだ。思わず呟くと、カイルが「おいっ」と声を荒げた。


「今更、何を腑抜けたこと言ってんだ! リーダーのおまえが……っ」

「俺はリーダーにしてくれなんて一度も言ってない」


 ジェラルドが「はっ」と乾いた笑いを漏らした。


「これだから平民は。誇りもないまま、王の真似事なんかしようとするから」

「ジェラルド、てめえはちょっと黙ってろ! いいか、ヴァルク。おまえの憧れた王様だって、王にしてくれって言ったから王に生まれたんじゃない。それが運命だったんだ。おまえが国を変えてくれるって、皆そう信じてるんだ。ここまで来て、弱音なんか吐くなっ」


 運命は、憧れた王にも、王子にも優しくない。そんなものいらない。黙っていると、ジェラルドが眼鏡を拾って立ち上がった。


「私が殿下に話します。指揮を執っていただくように」


 ヴァルクは「やめろ!」と、すぐさまカイルを押しのけてジェラルドに向き直った。


「そんなことは俺が許さないっ」

「何の権利で許さないんです」


 ジェラルドが嘲笑を浮かべる。

 ちくしょう。貴族なんか大嫌いだ。ヴァルクは心からそう思った。


「……俺がリーダーだからだ」

「自覚が芽生えたなら結構です。それで、本当にあなたがグリムフォード砦へ?」

「グリムフォードがどうしたってんだ」


 尋ねるカイルの隣で、エリアナが不安そうな顔をしていた。ヴァルクは言った。


「イソルテ軍を連れたディオニーに乗っ取られた。行って叩きのめしてくる」

「ディオニーの奴……本当にクソ野郎だな。それで、いつ出発する?」

「明朝。カイル、おまえはここに残れ」

「何?」

「殿下達を守ってほしい」


 王城警備隊のテオは、リオネルを嫌っている。もっとも自由騎士団のメンバーは、ほとんどがそうだ。だから彼らだけでは心許ない。カイルは「けど…!」と反論した。


「おまえに何かあったら」

「俺が潰れても、おまえ達がいるだろう。最悪……グリムフォードを取られてもいい。防衛線を張り、それ以上侵入させないようにしろ。殿下達に手を出させるな」

「ヴァルク様……」

「ご安心ください、王女殿下。俺達が何とかします」


 ヴァルクは力強く宣言した。もう二度とディオニーなんかに国を――リオネルを渡してなるものか。





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