第27話 何が?
息ができなくて、苦しい。お腹が痛い。
血の匂いと鉄の味が広がっていく。助けを呼びたいのに、声が出ない。真っ暗だった。
――殿下。
ケイトの声が、耳元で聞こえる。目の前に血まみれのチュチュが見えた。
――どうしてまだ生きてるんですか?
「……っ」
喘ぐように呼吸をして、リオネルは目を覚ました。
室内は薄暗かった。ザーザーと雨の音が聞こえる。
全身、ぐっしょりと汗を掻いていた。また、あの嫌な夢……。
人の足音が聞こえ、体が震えた。けれどすぐ、耳慣れた足音だと気づいて強張りが解ける。鉄扉がノックされた。
「殿下、俺です」
「うん。入って」
扉を開けたヴァルクを見て、リオネルはぎょっとした。入って来た男が、ビショ濡れだったからだ。
「すみません、降って来ちゃって。でも夕食は濡らさないよう気をつけましたから」
どうやらシャツの裾でトレーを覆ってきたらしい。確かに芋煮の入った料理は無事だが、シャツはぐっしょり濡れていた。鳶色の髪からも雫が滴り落ちている。
「何してるんだよ。料理は冷めるだけだけど、君は風邪引くだろ」
「平気です! 俺、滅多に風邪引かないんで」
「全然引かないわけじゃないんでしょ」
何か拭くものはないかと探したが、何も見当たらなかった。仕方がないのでリオネルは、自分が着ていたローブを脱ぎ、下着一枚になった。
ヴァルクが、ガチャンと料理のトレーを落とす。幸いにも机に置く直前だったので、料理は無事だった。
「で、で、殿下、何を」
「何をって君を拭くんだよ。ほら、屈んで」
リオネルは脱ぎたてのローブをヴァルクの頭に被せて、ごしごし拭いた。
「……殿下の匂いがします」
「あ、そういえば寝汗掻いてたんだ」
「寝汗」
「濡れたままよりマシでしょ。ほら、シャツも脱いで」
パッとローブを外すと、拭かれて頭がぐしゃぐしゃになったヴァルクは、耳元まで真っ赤になっていた。
「大丈夫? 熱があるんじゃない?」
「だ……大丈夫です」
「シャツ脱がすよ」
「じっ、自分でやります」
ヴァルクは慌てたようにシャツを脱ぐ。
体格がいいとは思っていたが、筋骨隆々とした体つきにリオネルは目を見張った。痩せて薄っぺらくなった自分の体と違い、肩も胸も腹筋も、分厚い筋肉でがっちりと引き締まっている。
「……何をどうしたらそんな体になるの?」
「えっ、あ、最近少し太ってしまって……」
「筋肉だよ。何食べてたらこうなるのかなって」
「あ、えーと……じいちゃんちの周りが森だったんで、鹿とか熊とか狩ってました」
鹿はともかく、熊。騎士でも数人がかりじゃないと倒せないのに。ぺたりと腹を触ってみる。ヴァルクの体が跳ねた。
「カチカチだ」
「そ……です、かね……」
「だってほら、僕のと全然違う。触ってみてよ」
ヴァルクは筋肉で腹が六つに割れているが、自分のは太っていた頃の名残で、まだふんにゃりと肉がつき子供の腹みたいだった。ヴァルクは「はい…」と掠れた声で呟き、リオネルの腹に掌を載せる。大きくて汗ばんだ掌が、揉むように動いた。
「やわらかくて……すべすべします」
「この間までもっとブヨブヨだったんだけど。ねえ、腹筋とかしてた?」
「はい……
「え?」
臍の部分を親指でするりと撫でられ、下腹部にびくんと力が入った。
なんだか変な感じがして、リオネルは急いで臍から話題を変えることにした。
「胸筋もすごいね。どうやったら、そんなに鍛えられるの?」
「……すごくきれいです」
「何が?」
「薄い桃色で……甘そう」
何が?
聞き返す前に、ヴァルクに胸を撫でられた。
「ここもやわらかい」
どうしよう。ヴァルクが変だ。
あれだろうか。勝手にべたべた触ったから、嫌がらせかもしれない。リオネルはヴァルクからパッと手を離した。机の芋煮が目に入る。
「せっかく持って来てくれたんだから、そろそろ食べようか」
「食べていいんですか」
「え、それはもちろん――うわっ」
リオネルはヴァルクに抱え上げられ、落ちそうになって慌てて首にしがみついた。そのままベッドに運ばれて、仰向けに転がされる。
ヴァルクが乗ってきた重みで、ぼろいベッドが背中でギシリと揺れた。
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