第26話 エリアナとカイル
エリアナはドレスの裾を持ち、足早に自室へと歩いていた。早く誰もいない空間に閉じこもって心を落ち着けないと、怒りでどうにかなりそうだったからだ。
リオネルの名で納税停止を公布すると聞き、民衆の反応が知りたくて、エリアナはずっと城門の傍でウロウロしていた。歓声が聞こえてきた時はとうとう兄の汚名返上ができたのだと胸が高鳴ったのに、次に聞こえてきたのは自由騎士団を讃えるものだけ。
その上――
「ヴァルク様ーっ、王女殿下とのご結婚はいつですか!?」
無神経な野次。
ヴァルク・カーディアは英雄かもしれない。まじめで、悪い人じゃないのもわかる。だけど自分の兄を、大切な家族を投獄した男と、なぜ結婚したがる女がいると思うのだろう。
こんな国、さっさと滅べばいいのに。
はしたなく、ついそんなふうにイラついてしまった。とにかくヴァルクの口からハッキリと、民衆にそんな事実も予定もないことを公表してもらいたい。そう思って城門塔の外で彼が出てくるのを待っていたら、カイルと一緒にどこかへ行ってしまった。
足の速い二人を探して、ようやく見つけたと思ったら。
「そんなに気に入っているなら、カイルが王女殿下を幸せにしてやればいい」
「おれだってお子様に手を出す気はねえよ」
二人で、自分の押し付け合いをしていた。
誰も結婚してほしいなんて頼んでないのに、なんて失礼な。
「お、王女殿下っ、お待ちください」
マリアンが息を切らしながらついてくる。エリアナは振り返って言った。
「しばらく、部屋に一人でいたいの。刺繍に没頭したいから」
そう言いおいて、扉番の兵士を押しのけるようにして自室に入った。
ドレスが皺になるのも気にせずに、ベッドに俯せに倒れ込む。
アルノルドといい、ヴァルクといい、カイルといい、そもそも民衆達といい、女を何だと思っているのだろう。男なんか絶滅したらいいのに。
――エリー…
優しいお兄様の声が過って、エリアナは寂しくなった。娼婦遊びをしている穢らわしいお兄様なんか大嫌いだったのに、全然会えないと心細くてたまらなくなる。
「王女殿下」
マリアンがドアをノックしている。一人にしてと言ったのに。
「王女殿下、カイル卿がいらっしゃっております」
会いたくない。けれど、無視するのも子供っぽいと思えた。お子様などと、もう言わせたくはない。エリアナはベッドから起き上がり、ドレスの裾を整え、姿勢良く立ってから「どうぞ」と返事をした。扉が開く。
「何か御用でしょうか」
にっこりと微笑んで尋ねると、カイルは目を瞬かせ、そして微笑み返してきた。
「すみませんね、突然。ちょっとお聞きしたいことがありまして」
「まあ、なんでしょう」
「リオネル殿下の好物について教えていただきたいんですが」
てっきり、さっきの会話を聞いていたか質問されると思っていた。予想外の問いかけにエリアナは「え?」と聞き返してしまう。
「実はあの毒殺未遂事件以来、王子殿下はほとんど食事を召し上がらないそうです」
「ええ……っ」
「口にするのは、なんと料理下手なうちの団長の手料理だけでして。他の者が作った食事は、怖くて食べられないんだとか」
エリアナはショックを受けた。だけど自分が兄の立場だったら――食事が喉を通らなくなっても無理はない。
「……ヴァルク様の料理は食べるのですか?」
「なんだかんだずっと一緒に仕事してますからね。仲良くなったみたいですよ」
「そうなんですか……」
ならば兄は幽閉されているといっても、それほど不遇な環境にあるわけではないのかもしれない。ヴァルクは誠実な人に見えるから、兄も心を許したのだろう。もともと、素直で人懐こい性格をしているから……。
「……兄はとにかく甘い物が好きでした。ですがあんな事件があったあとなので、そういったものは怖がるかもしれませんね。子供の頃は羊肉のワイン煮込みを好んで食べていましたけど」
「へー。すげーもん喰ってますね。お姫様は何が好きだったんですか?」
「わたくしは……フルーツパイでしょうか」
「フルーツって何でもいいんですか?」
「イチジクや林檎が好きです」
「そうですか。実はちょうどここに林檎があるんですけど、食べますか?」
カイルがおもむろにポケットから林檎を取り出したので、エリアナは面喰らってしまった。カイルは林檎を一つエリアナに渡すと長椅子に腰掛け、更にポケットからもう一つ林檎を取り出し、皮も剝かずに齧りついた。
「……いつも林檎を持ち歩いてるんですか?」
「いえ。たまたまここに来る途中、林檎の木があったので」
「はあ」
変な人だ。一人だけ突っ立っているのも何なので、エリアナはカイルの向かい側に腰を下ろした。手の中の林檎を持て余していると「食べないんですか?」と聞かれる。
差し出されたものを食べないのは失礼だ。エリアナはカイルの見様見真似で、小さく林檎に齧り付いた。すると林檎から果汁が垂れてきて、手首を伝わってくる。
エリアナは慌てた。右手には林檎を持っているし、左手は果汁が垂れているし、ハンカチを取り出せない。どうしたらいいのかわからなくてオタオタしていると、その様子を見ていたカイルが言った。
「舐めたら?」
「えっ」
「ほら、垂れますよ」
手についた果汁は、今にも垂れ落ちそうになっている。エリアナは慌てて、その雫を舐め取った。人前で手を舐めるなんて。やっておいて恥ずかしくて、顔が熱くなる。
そろりとカイルを伺い見れば、ニヤついた笑みでこっちを見ていた。からかわれたような気がしてムッとする。
「どうして笑ってるんですか」
「育ちがいいんだなと思いまして」
「子供扱いしないでください」
つい、そんな文句が口を突いて出た。カイルは林檎を囓りながら言った。
「十八歳なんて成人を迎えたばかりなんだから、子供と同じようなもんじゃないですか」
「成人したんですから、大人です」
「大人が何かも知らないのに?」
大人が何か?
何かって何だろう。大人は大人だ。一定の年齢に達した、自分で自分の責任を取るべき人間のことだ。
「し――知っています、ちゃんと」
「へえ。誰に教わったんです」
「だ、誰にって……」
「吊されたアルノルドですか?」
なんでそこでアルノルドが出てくるのだろう。エリアナは「彼は関係ありません」とキッパリ堪えた。
「教わったのは家庭教師です。礼儀作法や、レディとしての心構えをきちんと学び」
カイルがブハッと吹き出したので、エリアナは口を閉ざした。なんで笑われたのかわからなかった。しかしカイルは喉を鳴らして笑いながら言う。
「ほんと……あの兄の妹とは思えねえな」
あの兄。
そう言われて思い出したのは、革命が起こったとき、兄は娼婦遊びをしていた最中に逮捕されたらしいということだった。瞬間、エリアナはカイルが言いたかったことをようやく理解し、羞恥に全身が熱くなった。
「なっ……あ、あなた、何の話を……!」
カイルは食べかけの林檎を手に立ち上がった。こちらに近づいてくる男に、思わず身を引いてしまう。カイルは優雅にもエリアナの左手を取ると、その手の甲に口づけた。
それはエリアナにとって、ごくごく馴染みのある挨拶の一つ。しかしカイルは口づけるだけではなく、手の甲をぺろりと舐めた。
「……っ」
エリアナは心臓が飛び出そうなほどビックリして、思わず左手を引っ込める。目が合うと、カイルは悪びれた様子もなく微笑んだ。
「ま、子供扱いされてるうちが安全ですよ。お姫様」
心臓がバクバクして二の句も告げないでいるエリアナに「外で護衛してますねー」と軽い調子で言って、カイルは部屋を出て行った。
――なんて男なの。
人をバカにして。
怒って文句が言いたいのに、腰が抜けたように動けなくて、エリアナはさっきよりも何倍も悔しい思いを噛みしめるのだった。
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