第22話 湯浴み事変②



 ヴァルクにとってリオネル・アイゼン・レアの裸を見るのは、何も今回が初めてじゃない。革命の日、部屋に突入したとき彼は全裸だった。民が飢えているというのに、だらしなく太った体で、裸の娼婦達に埋もれていたのだ。

 過去に憧憬を抱いた王太子像を完膚なきまでに破壊されたみたいで、恨めしくて憎かった。あんな肉塊に心を揺さぶられたりしなかった。なのに、さっきの自分ときたら何だ。まるで、理想の美の女神でも見たみたいに動揺した。

 痩せたなとは思っていた。むしろ今は痩せすぎなくらいだ。抱きしめたら折れてしまいそうなくらい。いや、抱きしめるって何だ。

 華奢で色白で、鼻は小さく、唇は薔薇の花びらみたいに赤い。海からすくい上げたような青い瞳は大きく、身長差のせいでいつも少し上目遣いになる。手入れをしていない金髪はもともと長めだったこともあり、もう背中の真ん中あたりまで伸びていた。それから、くびれた細い腰が……。


「――…っ」


 見てはいけないものを何回も思い出しそうになって、ヴァルクは浴場の前で悶絶した。どれくらいそうしていただろう。浴場からガチャリと扉が開いて、甘ったるい香油の匂いがした。水滴のついた黄金の頭が顔を出す。薄暗い通路の壁掛燭台に照らされて、髪はしっとりと艶めいていた。


「着替えが、これしかなかったんだけど……」


 リオネルは裾の短いガウンを一枚、羽織っているだけだった。腰の辺りでゆるく結ばれた紐が唯一の良心で、軽く引っ張れば簡単に、すべてが露わになってしまうもの。というか、すでに足が。なめらかでやわらかそうな太股が見えている。


「も、もともと着ていたのは……っ?」

「あそこに落ちてるけど」


 熱気と甘い匂いが漂う浴場に、脱ぎ落とされたローブがあった。ヴァルクはそれを拾い、両袖をリオネルのガウンの上から腰に巻き付け、しっかりと結んだ。


「新しい服は、明日にでも用意しますので……っ、とりあえず戻りましょう」

「うん」


 風呂に入ってさっぱりしたリオネルは機嫌がよさそうだった。塔へと歩く王子の背後をついて歩く。夜とはいえこうやって二人で城内を歩いていると、看守というより王子の護衛騎士になったみたいだ。


「暗いので足元にはお気をつけ下さい」


 護衛気分に浸りながら声をかける。すると足元には何もないのにリオネルが「わっ」と声を上げて転んだ。運動不足のせいか、それとも庭の手入れがされていないせいか。何にしても地面に四つん這いになっている王子を、放ってはおけない。


「殿下、大丈――」


 駆けよろうとしたら、茂みから人影が飛び出してきた。暗くてよく見えないが、何か大きな荷物を抱えいるのが、月明かりに照らされたシルエットでわかる。

 その人物は茂みの先に、四つん這いになっている人間がいるなどとは夢にも思わなかったのだろう。盛大にリオネルにつまづいて、荷物ごと転んだ。


「殿下っ」


 リオネルは、落ちた荷物の下敷きになっていた。四つん這いだったのが今や地面に潰れてしまっている。慌てて荷物をどけようとし、ぎょっとした。荷物は、人間だった。亜麻色のドレスにエプロン、侍女だ――いや、違う。


「王女殿下!?」


 侍女の服を着てはいるが、間違いなくエリアナ王女だった。下敷きになっていたリオネルが「エリーだって?」と身を捩って起き上がった。

 背後で人の気配がした。ふらつきながら、男が剣を手に起き上がる。


「く……っ、見られたからには――」


 男は問答無用で、こちらに剣を振り上げる。

 リオネルの傍に屈んでいたヴァルクは、咄嗟に足を出した。足払いをかけられた男が剣を取り落とし、尻餅をつく。

 ヴァルクはすばやく男の剣を取り、起き上がろうとするその腹を踏んづけ、首元に刃を向けた。


「何だ、おまえは」

「足をどけろ! 私を誰だと思っているっ。コーリバン侯爵だぞっ」

「アルノルド・コーリバン? なぜここに……」

「足をどけろと言っているだろうっ」


 コーリバン侯爵という男が、癇癪を起こしたように怒鳴りながら起き上がろうとした。リオネルが「あ」と声を上げる。忠告しようとしたのかもしれない。しかし、その時にはもう遅かった。

 首に刃を突きつけられていたのに暗くて見えなかったのか、腹を足で踏まれていたことがよほど許し難かったのか――とにかく彼は自分から、身を起こそうとして剣に突っ込んだ。


「う……が……っ」


 息が詰まったように呻いたかと思うと、やがて力を失ったように倒れた。月光の下、黒く光る血が地面に流れ出していく。

 リオネルが「あぁ…」と呟く。


「死んじゃった?」

「……そのようです」


 首を切られて助かる奴はいない。切ったつもりは毛頭ないが。リオネルはエリアナを抱き寄せ「エリー」と焦ったように呼びかける。


「目を覚まさない」

 

 ヴァルクは屈んで、エリアナの口元に掌を翳した。


「呼吸は乱れていません。おそらく気絶しているだけかと。……しかし、なぜアルノルド・コーリバンと」

「妹の婚約者候補の一人だった」

「……ということはまさか、駆け落ち」

「恋人を気絶させて? どう見ても誘拐じゃないか」


 いっそ誘拐であってほしい。王女の恋人を事故とはいえ殺してしまったとなれば、おおごとになるところだ。


「ひとまず、殿下を塔へ送ります。俺はその足で城館に行き、王女殿下を医者に診せます」

「僕も一緒に行く……っ」

「殿下が外にいたとなれば、余計な混乱を生みます。……お怪我はしていませんか?」


 さっき盛大に転んでいたことを思い出し、心配になって尋ねた。リオネルは頷く。


「落ちついたら、妹の容態を教えに来て」

「わかりました」


 ヴァルクは頷いて、エリアナ王女を抱き上げた。





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