第20話 湯浴み事変①
「湯浴みしたい」
リオネルがぽつんと漏らしたのは夜遅く、オイルランプに照らされた室内で、ヴァルクと二人で地べたに座り込み、広げた書類をまとめている時だった。
「ずーっと書類を眺めてるせいか、肩凝りがひどくて。たまには湯に浸かりたい」
投獄される前は毎日、湯殿に浸かっていた。それなのにここへ来てからは、体を拭く程度のことしかさせてもらえてない。匂うのが自分でもわかる。一緒にいるヴァルクは、全然気にしてないみたいだけど。
「風呂……ですか」
ヴァルクは面喰らった様子だった。リオネルは「うん」と大きく伸びをする。最初はきつかった麻のローブは、すっかり痩せてしまったせいか今はブカブカになっていた。腕を下ろすと服がずれて肩が露わになる。引っ張り上げたところで、ヴァルクと目が合った。なぜか目線を逸らされる。
「じゃあ、今から入りますか?」
「え、言ってみただけだったんだけど……。牢から出ていいの?」
「俺が一緒なら大丈夫です」
「いいの?」
ヴァルクは「はい」と大きく頷いた。
湯浴みができることも嬉しかったが、リオネルが何より喜んだのは、数ヶ月ぶりに外に出られたことだった。満天の星空を眺め、夜風を吸い込む。気持ちがいい。
チュチュのお墓は、塔から出てすぐのところにあった。草地にこんもりと山が盛られ、小さな花がちゃんと添えられていた。
「ありがとう。花を添えてくれてるんだね」
「……殿下のお友達だと伺いましたので」
一緒に過ごすうち、ヴァルクが非常にまじめな男だというのはよくわかった。少し頑固なところもあるが、こんな罪人の王子にさえ礼節を持って接しようとする。
突然、捕まって塔なんかに幽閉された時は、呪ってやるとさえ思ったが――長年、仕えてくれていた侍女にさえあれほど憎まれていた自分が、こうして生きていられるのは彼の温情のおかげなのだ。本当なら革命のあの日に、それかチュチュと一緒に、とっくに死んでいた。世界の中心のようにさえ感じていた自分の命がいかに軽いものだったか、つくづく思い知った気分だ。
「僕が死んだら、チュチュの隣にでも埋めといてよ。それで、たまに花を添えてくれ」
何気なく言って振り返ると、ヴァルクは月明かりでもわかるほど青ざめた顔をしていた。リオネルは戸惑った。
「どうしたの?」
「……殿下は、死んだりしません」
「え、うん……死んだらの話だよ」
命を狙われる立場なんだから、別にそんな変な話をしたつもりでもなかった。リオネルは浴場に向かって歩き出す。途中、見張りの兵士に擦れ違ってギクリとしたが、彼らはヴァルクに会釈をするだけで何も言わなかった。思ったより簡単に浴場について、拍子抜けしてしまう。
フレスコ画の描かれた室内には大理石の浴槽があり、もくもくと湯気を立てていた。ヴァルクが戸口を背に、俯きがちに言う。
「それでは、俺は外で見張りをしていますので……」
「え、一緒に入らないの」
「ええっ!?」
ヴァルクは仰け反るほど驚いたようだ。そんなに驚かれるとは思わなかったので、リオネルのほうが驚いてしまった。
「体洗うの、手伝ってくれるのかと……」
これまで一度も、リオネルは自分の体を、自分で洗ったことがない。それは侍女の役目であり、生まれた時からの日常だった。
「いや、俺は、あの、ご自分で」
ヴァルクが焦ったようにゴニョゴニョ言う。そうか。普通は他人に洗ってもらったりしないものなのだ。でも、リオネルは石鹸の泡立て方もろくに知らなかった。
「じゃあ、洗い方教えてくれる? 僕が君を洗うから、それなら公平でしょ」
「い、いいですっ」
「よかった。じゃあ入ろうよ」
「えっ? あっ、いえ、いいってそう言う意味じゃ」
リオネルは汚れたローブを脱ぎ捨てて、裸になった。棚に置かれていた石鹸と、馬毛のブラシを手に取る。
「ねえ、これ使――…大丈夫?」
ヴァルクを見ると、彼は顔を真っ赤にして、鼻血を垂らしていた。ヴァルクはハッとしたように鼻を押さえ、それから「すみません」と謝った。
「の、のぼせたみたいで……俺、外にいますっ」
言うが早いか、ヴァルクは戸を開けて出て行ってしまった。
まあ、のぼせたなら仕方が無い。なんとか試行錯誤して、自分で洗うしかなかった。
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