第16話 エリアナ王女



 夜に包まれた寝室をぼんやりと照らす燭台。長椅子に腰掛けていたエリアナは、驚きのあまり危うく刺繍針を落としかけた。


「お兄様が倒れたですって?」


 王女の部屋に息を切らして入って来た侍女のマリアンは「はい、殿下」と頷いた。王城にいた使用人のほとんどは革命の日に逃げてしまったが、エリアナが幼い頃から仕えてくれているマリアンを始め、忠誠心だけで残ってくれている者も何人かいた。マリアンのような信頼できる者が身近にいなければ、自由騎士団などという見知らぬ者達に占拠された城など、恐ろしくて耐えきれなかっただろう。


「自由騎士団の連中が話しているのを聞いたんです。ど、ど……毒を盛られたのだとか」

「そんな……っ」


 刺繍をテーブルに放り出して、エリアナは立ち上がった。血の気が引いて、体がふらつく。革命が起こってから眠れもせず、ろくに食事も喉を通らないせいだ。


「エリアナ様」


 マリアンが心配そうに、体を支えてくれる。エリアナは「平気よ」と強がった。


「それで、お兄様はご無事なの?」

「医者を呼んで診てもらっているそうです」

「医者って? ビリエル先生が戻ったの?」


 ビリエルは、王の主治医だ。革命が起こってからずっと、城には顔を出していない。マリアンは「いいえ」と悲しげに首を横に振った。


「自由騎士団の連中が呼んだ医者だそうです」

「そんなの信用できない。彼らが兄を生かそうとするわけないわ」

「ですが、助ける気がないなら医者を呼んだりしないのでは?」

「体裁を取り繕っているだけよ。王子を見殺しにしたなんて、外聞が悪いから……」


 どうしてこんなことになってしまったのだろう。

 父が倒れるまでは――母はいなかったけど、すべてが順調だった。強くて頼りがいのあるお父様、賢く優しいお兄様。けれど父が倒れて、いろんなことがおかしくなった。後見人となったディオニー公はエリアナにはあまり構わなかったが、兄のことをとことん甘やかした。兄も、そんなディオニー公に妄信的に懐いた。当時は兄がどうしてあれほどディオニー公に懐くのかわからなかったが、今にして思えば、兄はまだ十二歳だった。父親がいきなり倒れて、国という重荷を背負わされて、不安にならないはずがない。兄はそこに付け込まれたのだ。素直な、まだ子供だったから。

 別人のように堕落していく兄を見ているのが嫌で、エリアナはリオネルを避けるようになった。娼婦のような下品な女達が、城を歩き回るのは気持ち悪かった。でも、あの時のほうがまだマシだったのかもしれない。見ず知らずの平民達に、城を占拠されるよりは。幽閉された兄が、殺されかけている今よりは。


「……行かなくちゃ。お兄様のところへ」

「ですが勝手に部屋から出るなと……」

「ここはわたくしの城で、王太子であるお兄様が毒を盛られたのよ! じっとなんかしていられないわ」


 エリアナは扉を開けた。しかし通路にいた見張りの兵士がすぐさま、顔を顰めた。


「なんです? 散歩は一日一回までと言ったでしょう」


 平民が王族に対し、飼い犬にでも言い聞かせるようなこの態度。病で動けない父と、幽閉されている兄がいる以上、耐えるしかなかった。でも今は急を要する。


「兄のところへ行きたいのです」

「だめっすよ。そんな許可出てないんだから」

「では、あなた方の上官に許可をいただいてください」

「勝手に持ち場を離れるわけにはいかないんで」

「わたくしも同行しますから……っ」

「いいから、おとなしく部屋にいてください」


 欠伸をしながら、追い払うように手を振られる。なんて屈辱的な態度だろう。エリアナはぎゅっと手を握ると、覚悟を決めた。ドレスの裾を持ち、兄が捕らえられている塔へ向かって、廊下を走り出す。


「あっ! こら、待て!」

「きゃあっ」


 しかしドレスにヒールのある靴で、兵士に足で勝てるはずもなかった。背後から、痛いくらいに腕を掴まれる。マリアンの悲鳴が聞こえた。


「王女殿下! あなたっ、なんて無礼な! 手を離しなさいっ」

「離したら逃げるでしょうが!」

「おい、何やってんだ」


 悶着を起こしているところに、また自由騎士団の男がやってきた。髪を粗雑に一つに束ねた、軽薄そうな男。確か副騎士団長のカイルという者だ。


「このお姫様が、あの豚王子んとこ行くって言って聞かなくて……」

「今、お兄様のことを何て……!?」


 確かに兄は昔と比べて少し太ってしまったが、だからといってこんな無礼な男に暴言を許していい理由にはらならない。


「聞き捨てならないわ、謝罪しなさいっ」

「カイルさん、何とかしてくださいよ」

「わかったから、とりあえずその手を離せ。王族でなくても女に対して失礼だぞ。そんなんだからおまえはモテないんだ」

「何言ってんですか。カイルさんこそ、女にフラれたばっかのくせに」

「てめえ。殴るぞ」


 カイルが低い声音で脅すと、兵士はパッとエリアナから手を離した。エリアナが痛む腕を擦っていると、カイルが「すいませんね」と謝る。


「うちのが、とんだご迷惑をかけまして。今度、シメときますんで」

「シメ……?」

「あ、シメるっていうのは暴力で制裁を加えるという意味です」


 兵士は「そりゃないっすよ」と嘆いていた。本当につくづく野蛮な連中だ。エリアナは怯みそうになるのを堪えて、言った。


「兄が、毒に倒れたと聞きました」

「ああ、それで……。大丈夫ですよ。医者に診せて、今は寝てますから」

「無事ということですか!?」

「はい」


 良かった……。安堵のあまり気が抜けて、エリアナはへなへなと床に座り込んでしまった。マリアンが「殿下」とエリアナの傍に屈む。彼女の優しい手が慰めるように背中に添えられると、その温かみで涙がこぼれた。


「同じ侍女でも、王子殿下とは違いますね。やっぱり人徳の差かな」

「……どういう意味です」

「毒を盛ったのは、彼の侍女だそうです。ケイトとか言ったかな」

「そんな……っ」


 エリアナもよく知っている侍女だ。城に仕えて、五年ほどになるだろうか。まじめに働いていた彼女が、兄に毒を盛るなんて。


「……革命は、人を変えてしまうのね」

「膿が出てきただけでしょう。この国はもうずっと前からボロボロだったんだ」


 カイルは他人事のように言って、エリアナに手を差し伸べた。けれどエリアナはその手を取る気にはなれず、マリアンの手を借りて立ち上がった。


「兄の見舞いに行かせてください」

「王子にはヴァルクがついています。お姫様は部屋で休んでください」

「あなたは自分の家族が毒で倒れても、部屋に帰って寝るの?」

「どうでしょうねえ。おれは孤児なもんで、ちょっとわかんないです」


 エリアナは言葉を失ったが、しかし本当か嘘かわからないと思い直した。この者達は、敵なのだ。睨むエリアナに対し、カイルは軽く肩を竦めた。


「いいですか、お姫様。この城は今、いろんな思想の奴がいろんな事情でウロついているわけでして。ひとえに自由騎士団と言っても、王族に殺意を抱くような過激な奴もいるんです。だから、できる限り部屋にいてほしいんですよ。そうすりゃ少しは安全ですから」

「いい案があるわ。わたくしを兄と同じ塔に幽閉するのはどうかしら」

「お姫様は貴族を抑制する役目がある。さあ、部屋に戻ってください。まだごねるようなら、抱えてでも連れて行きますよ」


 本当に抱えられそうな気配を感じて、エリアナは一歩後退った。カイルと見張りの兵士に捕まらず、兄のいる塔まで行くのはどう考えても無理そうだ。諦めるしかない。


「……兄を死なせたら、絶対に許さないわ」

「おれが毒を飲ませたわけでも、治療するわけでもないんで、ご容赦ください」


 エリアナは軽薄な男をキッと睨み付け、踵を返した。

 自室に戻ってからエリアナは、悔しさと不安で泣いた。絨毯の上に座り込む。


「マリアン……。お兄様にまで何かあったら、どうしよう」


 母は物心つく前に亡くなり、父は寝たきり。リオネルだけがエリアナにとって、頼れる唯一の家族だ。そのリオネルまでいなくなってしまったら、こんな敵だらけの城で、どうすればいいのだろう。マリアンは「殿下」とエリアナの前に跪き、手を握ってくれた。


「大丈夫ですよ。あの男も言っていたじゃないですか。医者に診せて、今は寝ているだけだと」

「でも……っ、でも……お父様だってずっとそうだわ」

「陛下は病ですから、リオネル様とは違います。そんなに泣かないでください。殿下まで倒れてしまいますよ」


 エリアナは鼻を啜り上げた。テーブルに転がっている、作りかけの刺繍を見る。元の生活に戻れるよう、一針一針祈りをこめて縫い上げている王家の紋章、金獅子。


「好きで王家に生まれたわけじゃないのに」


 自分には何もできない。エリアナはぎゅっと祈るように両手を握りしめた。


「神様――天国のお母様……。どうか、わたくし達がこの荒波を乗り越えられますようお導きください……」


 窓の外では星空が明るい。そのことが少しだけ、エリアナの心を慰めた。





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