第15話 十六歳と十二歳



 それは、十六歳のヴァルクが剣術大会で優勝し、近衛騎士として王城に上がったばかりの頃だった。

 騎士になる者は、そのほとんどが貴族の出身だ。爵位の高い家柄の騎士は王の親衛隊や部隊長など上官の地位に就き、低位の家柄や爵位を継げない末子の騎士は、官位のない下っ端になる。剣術大会の優勝者とはいえ、戦時でもないのに平民が騎士に上がることは異例だった。そのためヴァルクの立ち位置は下っ端の中でも最下層で、使い走りやいびられ役は、いつもヴァルクだった。

 それでも陛下に目をかけてもらっているのだという自負が、王城を守っているという自尊心が、ヴァルクを励ましていた。その日もヴァルクは先輩騎士にいびられて、意味もなく鎧をつけたまま王城内を走らされていた。


「ねえ、だいじょうぶ?」


 炎天下、厚いし重い鎧の中。ぜえぜえと汗を流しながら喘いでいたら、どこからともなく声をかけられた。鉄兜のバイザーを上げて周囲を見回せば、城館の窓を開けて、金髪の子供がこちらを見ていた。

 色白でほっそりした、こぼれそうなほど青い瞳が大きな子だった。一瞬、どこの姫君だろうと思ったが、変声期前とはいえ声は少年のものだった。


「ずっと走ってきてたでしょ。休まないと倒れちゃうよ」

「いえ……自分は……訓練中ですから……」


 喘ぎながら返事をしたが、少年は「こっちへ来て」と声を張り上げる。子供とはいえ、明らかに自分より身分の高い令息を無視するわけにもいかず、ヴァルクは城館の窓に歩み寄った。少年が「はい」と、紅茶の入った花柄の美しいカップを差し出す。


「ちょっとぬるいけど、甘くて美味しいよ」


 にこっと微笑んだ少年は、眩しいくらい可愛らしかった。自分なんかが、この高価に違いないカップに口をつけていいものか迷ったが、少年がいつまでも差し出しているので「ありがとうございます…」と受け取る。

 よく見れば少年のいる室内は、書庫のようだった。広い室内には天井近くまでぎっしりと本が詰め込まれて並んでいる。少年のいる黒檀の机には数冊の本が置かれていた。どうやら勉強中だったらしい。


「! うま……」


 砂糖入りの紅茶が、疲れ切った体にはとんでもなく美味に感じた。香りがいいし、苦みもえぐみもない。紅茶ってこんなに美味いのかと感動さえする。


「おかわりする?」

「あ、いえ、でも……いただきます」


 遠慮が美味しさの誘惑に負けた。カップに紅茶を継ぎ足してもらい、また飲み干す。一息つくと、疲れ切っていた体が生き返るような気がした。


「すみません、ごちそうさまでした。ええと……」

「リオネルだよ」

「リオネ……えっ」


 王太子の名前じゃないか。驚きすぎてカップを落としそうになり、ヴァルクは慌てて空中で受け止める。リオネルは笑って、カップを受け取った。


「お兄さんは? 近衛の人だよね」

「じ、自分は……っ、ヴァルク・カーディアと申しましてッ」

「あ、知ってる。この間、父上が騎士に叙任した人だ」


 まさか、知っていただいていたなんて。ヴァルクはじーんと感動した。先輩にいびられようが上官に殴られようが、そんな些細なことはどうでもいいとさえ思えた。


「そのうち、僕の護衛になるんだよね」

「はっ、はいっ、そうなれたら――」

「ヴァルクは、泳げる?」


 突拍子もない質問に、ヴァルクは「えっ?」と聞き直してしまった。しかしすぐさま思い至って言い繕う。


「え、ええと、はい! 川遊びなら子供の頃からしてますし……」

「よかった。航海に行くなら、泳げたほうがいいもんね」

「航海?」

「うん、これ」


 リオネルは、机にあった一冊の本を見せた。表紙には“クリストバルの航海日記”とある。


「僕ねえ、大きくなったら船に乗って、あちこち冒険したいんだ」

「え……と、しかし、殿下は王になられるのでは……」


 思わず口にして、ヴァルクは「あっ、すみません」と謝った。子供の夢に、本気で返してどうする。自分だって小さい頃は、実在もしないドラゴンになりたいと言っていたくせに。しかしリオネルは「うん、そうだよ」とあっさり頷いた。


「だからね、王になる前にあちこち見聞の旅に行くの。父上も、僕が十八歳になったら許可するって。異国を直に知る経験は、王になってからも活きてくるだろうって」

「……はあ」


 何がドラゴンだと、ヴァルクは自分を恥じた。リオネル殿下はとても現実的に夢を語っていらっしゃったのだ。まだ十二歳かそこらなのに『見聞の旅』。自分が十二歳の時はただひたすら英雄王に憧れて、棒きれを振り回していただけだった。


「だから、ヴァルクも準備しといてね。護衛として、一緒に航海するんだから」

「――…はい!」


 この方はきっと、すばらしい王になる。

 十八歳になった凜々しいリオネル殿下と一緒に航海する、そんな自分の姿を思い描いてヴァルクは胸が躍った。


「おにーたまぁ、おにーたま、どこぉ?」


 部屋の奥から、幼い少女の声が聞こえた。リオネルは室内のほうを振り返って「ここだよ、エリー」と返事をする。


「ごめんなさい。妹と遊んであげる約束してたんだ」

「あっ、いいえ――貴重なお時間と、おいしい紅茶をありがとうございました!」

「うん、またね」


 リオネルは窓から離れて、侍女と一緒に書庫に入ってきた妹姫のほうへ歩いて行く。ヴァルクは疲労も忘れ、浮かれた足取りで走り込みに戻った。

 けれど、それから数日後に陛下が倒れ――リオネルは航海に行かなかったし、ヴァルクがリオネルの護衛になることはなかった。

 リオネルはヴァルクのことも、航海の旅に出たがっていたことも、享楽に溺れる日々の中で忘れてしまったに違いない。でも出し忘れた古い手紙みたいに、行く宛てもなくヴァルクの記憶には残っていた。


「殿下……」


 水を飲ませて毒を吐かせ、医者が煎じた薬湯を飲ませると、リオネルは高熱を出して苦しみ始めた。牢獄の粗末なベッドで寝込んでいる王子を見るのは、しのびなかった。けれど王子をもとの部屋に戻すことは、たとえ生死の境にある病人であっても、皆が反対した。


「平民は医者にかかる金もないのに」

「毒殺? 自業自得だろう」

「罪人は牢獄から出すべきではありません」


 仲間達は誰一人、王子を助けることに積極的ではなかった。宮廷医は革命以降、姿が見えなくなっていた。仕方がないので、下町の馴染みの医者を呼んだ。

 年老いた医者は、ケーキに毒が仕込まれていたと知ると呆れたように言った。


「ケッ、好きなもん喰って死ねりゃあ、王子様も本望だろうよ」

「先生、そんな言い方は……!」

「騒ぐな、ヴァルク。……今夜が峠だろう。デブだったのが幸いしたな。毒の効きが悪かった。じゃなきゃとっくに死んどるわい」


 リオネルに毒を盛ったという侍女は、すでに城を出て行ってしまっていた。カイルには探すよう伝えてあるが、彼らの様子をみる限り、自由騎士団が王子のために侍女を捕まえることはないように思えた。

 調査に寄れば侍女ケイトは、近衛騎士の娘だった。しかし父を事故で亡くし、母親は心労で倒れてから療養中で、彼女は自分の給金で家を支えていた。だが王城に出入りをしている商人に給金を預けて母親に届けてもらうだけで、自分自身は多忙のために家に帰れていなかった。

 今回の革命騒ぎでようやく家に帰ると、彼女の母親は亡くなっていた。病死ではなく、自殺だった。食糧不足で物価が高騰し、送ってくれた侍女の給金でも母親の生活は立ち行かなくなっていた。そして彼女の母親は、娘に負担をかけないために最悪の選択をした。医者の話では死亡推定時刻は、革命が起きるほんの数日前だという。

 ケイトの境遇には同情する。この国にはリーダーが必要だ。けれど自分は器じゃない。かといって、エリアナ王女には荷が重すぎる。

 十二歳の、リオネル・アイゼン・レア。

 王になることに何の衒いもなかった彼が、彼こそがふさわしいのだ。

 もう、どこにもいないと思っていたけど……まだ手遅れじゃなかったなら――


「殿下……」


 縋るような気持ちで、ヴァルクはリオネルの白くてやわらかい手を握った。狭い牢獄には二人きりで、他に誰もいないから、弱音を吐いても許されると思えた。


「俺は、あなたみたいに賢くない。行き当たりばったりの、どうしようもない奴なんです。ただ目の前で殺されそうになっている老人を助けたかっただけで……革命派のリーダーだの、英雄だの、執政官だの……そんなものに、なりたかったわけじゃないんだ」


 なりたいものは、剣術大会で優勝した十六歳の時から、ただ一つだけ。


「……お願いですから、戻ってきてください……」


 ヴァルクはリオネルの手を握ったまま、どうか助かりますようにと、必死に神に祈り続けた。



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