第8話 過去のトラウマ




 父が倒れたばかりの時、リオネルは十二歳の子供には大きすぎる王の執務机に座り、どさどさと容赦なく積み上げられていく書類に慄いた。


「さあ殿下。この書類をよく読んで、玉璽を押してください」


 傍に控えたディオニー公に言われ、リオネルは恐る恐る書類を一枚、手に取った。いつか王の仕事に就くために、これまで一生懸命勉強してきた。だから、大丈夫。父のようにやれると、自分に言い聞かせて。

 書かれている内容は、王の直轄地である領土を、ディオニー公へ移譲するというものだった。リオネルは困惑した。


「これ……どうして、父上の領土をニーニに譲るの?」

「陛下は今、領地の管理ができません。代わりに私が管理をさせていただきます」

「で、でも、僕がいるし……それに領地のお城には管理官だっている……」

「ええ、そうですね。ですが管理官に任せっきりにはできません。もちろん陛下の病が良くなれば、すぐにお返し致します。これは一時的な措置です」


 だけど書類のどこにも、一時的なものだとは記載されていなかった。こんな重大なことに署名をしていいのか躊躇っていると、元老院のコーリバンが咳払いをした。


「殿下。目を通していただきたい書類はまだたくさんございます」

「署名をして、玉璽を押すだけです。簡単でしょう?」

「……あ、でも」

「もしや殿下は、ディオニー公を信用できないと?」

「えっ」

「そんな殿下。それはあんまりでございます……」


 ディオニーが悲しそうに言う。他の元老院達も、困ったような顔をしていた。彼らは長年、父の傍で政務を行ってきた。彼らがいいというなら、そうすべきなのだ。


「そ、そんなことないよ。署名するよ……」


 リオネルは頭の疑問符をねじ伏せて、言われるままに署名し、玉璽を押した。ディオニー公が嬉しそうに微笑む。


「さすがは殿下です。さあ、次はこちらにご署名を」


 署名を記し、玉璽を押すたび、自分が磨り減っていくような感じがした。異論を唱えれば、彼らは溜め息をつき「簡単な内容ですが、殿下にはまだ難しいようですね」「お勉強が必要ですなあ」とリオネルを叱責した。理解できない自分が悪い、そう言い聞かせて署名と玉璽を押す作業を繰り返すしかなかった。

 そのうちにディオニーが「王の代理人にディオニー・スヴァンテを指名する」という書類を持って来た。


「幼い殿下には、大変すぎる仕事でしたから私がお引き受けいたしましょう。ご安心ください。殿下がお望みであればいつでも、この書類は廃棄させていただきますから……」


 ディオニーは「今だけです」と優しく微笑んだ。今だけ、一時的。これまでに何度も言われたことだったけど、どれも全部継続している。

 これに署名と玉璽を押せば、もう何もしなくていい。そう思うとすごく楽になった。簡単な内容も理解できない自分には、荷が重すぎたのだ。


「国王陛下でさえ、一人では政務をこなせませんでした。ですから我々がいるのです。何も恥ずべきことではありません。幼い殿下にはまだ、難しすぎただけです」

「……本当に、ニーニに任せちゃっていいの?」

「もちろんですとも」


 ディオニーは優しく微笑み、リオネルの頭を撫でた。父が倒れてから、頭を撫でてくれるのはもうディオニーくらいのものだった。父の親衛隊長だった近衛騎士団長や副騎士団長、侍従長達、親しかった人達は皆、領地や故郷に帰ってしまって、王城から姿を消していたから。


「何か欲しいものはございませんか?」

「ニーニはいつでも、殿下の味方です」

「勉強がおつらいなら、やめてしまっていいのですよ」

「殿下は健やかに生きていらっしゃるだけで、すでにご立派なのです」


 ディオニーは何をするにも、すべて肯定して許してくれる。ずっと昔、遊んでいて廊下の壺を割ってしまった時だって、父には叱られたがディオニーは叱らなかった。ディオニーが眉を寄せるのはいつも、リオネルが政務に関わろうとする時だけ。


「殿下。政務は遊びではございません。どうか我々にお任せ下さい」


 ディオニーに嫌われたくなかった。

 だから、政務には手出ししなかった。ディオニーは勉強しなくてもいいと言って、家庭教師はすべて解雇した。

 ディオニーに甘えて任せっきりにするのも悪いと思って、書庫の本だけは読破した。歴史、地学、医学、哲学……歴代の王が集めたあらゆる知識。読みはしたけど理解できているとは言い難い。ただ記憶として、頭の中に詰まっているというだけ。

 そんな無能な自分に、いったい何ができるというのだろう。

 いつかと同じように、ドサドサと机に書類が置かれる。でも大きすぎる執務机と違い、逆に小さすぎる牢獄の机には、書類は載りきらなかった。だから床にも置かれた。もはや足の踏み場さえろくにない。


「じゃあ、これ。お願いしますね」


 ヴァルクは無情に書類を置いていった。鉄扉が閉められ、鍵のかかる音がする。


「本当に一人でやるわけ……?」


 まあ、傍に張り付いて溜め息を吐かれないだけマシか。役に立たないとわかれば、ヴァルクだって諦めるだろう。ディオニー達がそうしたように。


「……」


 憂鬱で胃が重くなる。それでも他にすることがないから、リオネルは渋々、書類の一枚を手に取った。




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